79.「あの日」4
あの日のことは、よく覚えている。
どれだけ悔やんでも悔やみきれないほど、大きな後悔。
そしてどれだけモンスターを狩っても償いきれない、大きな罪。
床にはトーストと目玉焼きが、ひしゃげながら落ちていた。粉々になった陶器の皿が床に散らばって、ミニトマトがふたつ、部屋の端のほうまで転がっていた。
サンサさんは胸のあたりを強く抑えながら、床に倒れこんでいた。
ぼたぼたと大粒の汗が床を濡らして、真っ白になった唇の端から、時折呻き声を上げる。
「サンサさん?」
「……ぐ、ぅ」
サンサさんは、呼びかけには答えなかった。
どうしたんだろう。はじめてみるその光景に、ただ、困惑していた。
「サンサさん……?」
「……」
やがて、サンサさんの全身からだらりと力が抜けて、ゴン、と床に頭を打ち付ける音が響いた。
そして、サンサさんはいびきみたいな音を立てながら、動かなくなった。
「……」
床に落ちているそれ。トースト、目玉焼き、ミニトマト。そしてサンサさんの腕についている、「大人の印」。
あれがあれば、おかあさんに会いに行ける。
そんな考えを、思いついてしまった。
わたしはサンサさんの袖からそれを取り外して、ドアのセンサーに近づけてみる。
するとピッ、という音をたてて、ドアのロックが外れた。
「……わあ」
思わず声が漏れた。視界が急に開けたような感覚。
真っ黒なドアがきらきら輝いて見えた。
病気も、治すのをやめたらどうなるかも、誰にも教えてもらえなかったわたしは、床に倒れるサンサさんを見ることなく、ドアの外に飛び出していた。
サンサさんが教えてくれたとおり、「大人の印」をピッとするだけで、簡単に外に出られた。
はじめて通る地下通路、そしてはじめて浴びる日の光。
いろいろなものに興味を惹かれたけれど、今はとにかくおかあさんのところへ行きたかった。
地下室から出てはいけないと厳しく言われているから、誰かに見つかったら怒られる。
特に、おとうさんやサンサさんと同じ服を着ている人たちには、見つからないようにしないといけない。
そう思って、こそこそと隠れながら進んだ。
どこに行けばおかあさんに会えるのかわからないまま、見つからないことだけを考えながら進むと、軍の敷地の端のほうにたどり着いた。
そこにはたまたま大きな車が停まっていて、あれがサンサさんの言う「バス」だとすぐに分かった。
バスに乗り込むと、運転席の男の人が、ぎょっとした顔でわたしを見た。
「きみー……」
何かを言いかけたその人は、わたしが「大人の印」を持っているのを見ると、口を閉ざした。
そして、ここに、と示されたセンサーに「大人の印」をかざして、椅子に座る。
「……どこまで」
「瑞白、さん、く、……? ホスピス?」
それ以上、運転手は何も言わなかった。
何か事情のある子供なのか、軍の内部を探るようなことはしたくない、面倒なことになりそうだ、くらいのことは思われていたかもしれない。
そのままバスに揺られて、長いトンネルと峠道を過ぎると、瑞白町の駅前で降ろされた。
「あなた、ひとり?」
後ろから急に話しかけられて、驚いて振り返る。
そこには一人のおばあさんが立っていた。
「ひとり……」
「迷子になっちゃったの?」
「……」
迷子、とはなんなんだろうか。初めて聞く言葉だったから、わたしは何も答えられない。
おばあさんはそんなわたしに、にこやかに話し続けた。
「すぐそこに交番があるから、一緒に行きましょう。今日はお母さんと来たの?」
「……」
そこ、と示された建物の中には、制服に身を包んだ警察官がいた。
きっちりとしたその恰好が、おとうさんやサンサさんが着ているものに似ている気がして、首を横に振る。
「……困ったわねえ」
おばあさんは少し考えこんで、再び尋ねる。
「あなたのお母さん、どこにいるのかわかる?」
「……瑞白、さん、ちゅ、く? ホスピス……?」
「……」
それを聞いて、おばあさんは絶句した。
そして数秒の間を置いて、その表情が悲痛なものに変わる。
「お母さんは、『瑞白サンクチュアリホスピス』に入院しているのね?」
黙ったままうなずくと、おばあさんの目がすぐにうるうるとうるんで、指で眼尻をぬぐった。
「おかあさんのお見舞いに、ひとりで来たのね。心配だから、おばちゃんと一緒に行きましょう。お見舞いが済んだら、一緒に交番まで戻ってきましょうね」
その言葉に、今度は首を縦に振る。それを見ると、おばあさんは駅前に停まっていたタクシーに、一緒に乗ってくれた。
おかあさんのいるホスピスは、きれいなところだった。
自然に囲まれて、穏やかに最期を迎えるための場所。
受付に立つ。隣でおばあさんが「お母さんのお名前、お姉さんに教えてあげて」と言ったから、それに答えた。
白い服のお姉さんが、わたしをおかあさんの病室まで連れて行ってくれることになった。
おばあさんは、受付の前の椅子に座って、待っていると言った。
「お母さん絶対に喜ぶわよ。がんばってね」
そう送り出してくれたおばあさんを振り返りながら、わたしは病室に向かった。
病室の前に立って、胸がどきどきした。
おかあさんに会える。会いたくてたまらなかった、大好きなおかあさんに、やっと会えるんだ。
ドアを開ける。やわらかな光がさしこむ真っ白なベッドで、おかあさんは眠っていた。




