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勉強会

 講義や研究とかぶらない朝の時間に、少女と勉強会をすることになった。

 そう伝えると、サカイとキシは、意味が分からない、という顔をした。


「えっなんで?成り行きでそんなことになる?」


 怪訝な顔のまま、キシは机に肘をついた。

 勉強会は、二人が来る前の時間に行う。

 なるべく迷惑にならないようにするよ、と言うと、そういうこと聞きたいんじゃないよ、と言われた。


 バン!と、突然鳴り響いた強い音に、びくり、肩が震える。

 音のした方を見ると、サカイが机に両手をついて、わなわなと震えていた。


「つまり女の子が来るってこと?」


 聞いたこともないような低い声に、思わず気圧される。

 スイの性別が、何の問題になるのだろうか。


「…ああ、まあ」


 先程の強い音は、サカイが机を叩いた音らしかった。

 俯いたままのサカイからは表情は見えないのに、殺気すら感じる。


「ゼン、片付けろ」

「えっ」


 言われた意味がよくわからず戸惑っていると、サカイは勢いよく立ち上がった。

 そのまま俺の机の、エナドリ缶タワーに手を伸ばす。


「こんな腐海一歩手前みたいな場所に女の子を呼べるか。頼むからゼン、片付けろ」

「別に良くないか…?」

「お前バカか!不潔が一番嫌われるぞ」


 積みあがった空き缶、紙類はみるみるうちに撤去された。

 ついでに我関せずと作業を続けるナグモ女史のデスク周辺にも手が入り、「待て邪魔だ!計算に集中できない!」「計算やめてこっち見ろって言ってんですよ!プロテインシェイカーは毎日洗えって言ってますよね、くっせえ、捨てますからね!」ととんでもないやり取りが繰り広げられている。

 最近の異臭の正体はそこだったのか、納得した。

 

 その流れで、どうこすっても落ちない床の染みや、広範囲に繁茂したカビ類が発見され、一朝一夕ではこの部屋はどうにもできないということがわかった。

 結果、俺とスイの勉強会には、研究室と実験室の間の部屋、準備室があてがわれることになった。



 スイとの勉強会は、翌日から始まった。

 スイは真新しいピンク色のペンケースと、きっちり尖った三角鉛筆、青白黒のスリーブに入った角ばった消しゴム、チューリップの写真が表紙の学習帳を持参してきた。

 三角鉛筆、学習帳、十数年ぶりに見た。

 少なくとも、当然、大学構内には売っていない。一体どこから調達してきたんだ。


 前日までの怯えたような姿はどこへやら。スイは前のめりになって、俺のペン先をじっと見つめている。

 研究室の備品になっている大学名のロゴ入りのボールペンも、ここまでの期待を背負うには荷が重いだろう。


「まずは自分の名前から、かな」

「名前…」


 スイはペン先から視線を離さずにつぶやく。


「イズミノ、スイ」


 いずみの すい。スイのノートにひらがなで記す。その様子をスイはずっと目で追っていた。


「漢字なら泉野、かな、多分」


 続けて泉野、とノートに書き出す。

 正確性のためにあとでバリエーションを調べる必要はあるが、真っ先に思い浮かぶ字はこれだ。


「スイは…」


 ペンが止まる。

 現代において、人名には多くのバリエーションがある。スイとは、どんな字で書くのだろう。


「スイは、何か、自分の名前の意味を聞いたことはあるか?」


 尋ねると、スイは一瞬思案したように視線を彷徨わせて、ゆっくりと口を開いた。


「おかあさんが、わたしの目をみて決めたって…。わたしの目とおなじ色の、宝石の名前」


 なるほど、と思った。スイの目の色は、はじめて見たときから印象に残っている。

 薄暗い準備室では陰になって日本人らしい黒色に見えるが、春の光をまといながら講義を聞いているスイの目は、宝石のような深い緑色だ。


「そうか、…『翠』だ」


 スイに筆跡を見守られながら、苗字の横に書き加える。

 これで、スイの名前が完成した。


 泉野翠。


「書いてみるか?」


 俺の言葉に、スイは小さく頷いて、新品の三角鉛筆を握る。

 桃色の爪先が白色にかわるくらい強く持って、ゆっくり、少しずつ、線を足していく。


 最後の一画を書き終えて、スイは自分の字と、俺のお手本を交互に見た。


「ああ、書けてる」


 俺の言葉に、スイは顔を上げた。宝石のような瞳がまっすぐ向けられる。

 そして照れくさそうに、再びうつむいた。


 文字を知らない少女がはじめて書いた、自分の名前。陳腐な感想かもしれないが、とても、きれいな名前だと思った。

 


「…ゼンの、字は?」


 スイの視線が、また俺のペン先に落とされる。それに促されるように、スイの名前の下に、書き慣れた自分の名前を書いた。


 三波善。


「善は、…よいことって意味だ」


 スイの綺麗な名前に比べて、単純な名前だ。見てわかる通りの、そのままの意味。

 親が願った、子が善く生きていけるように。ただそれだけ。


 視線は俯いたまま、書き足された三文字をじっと見つめて、スイは言った。


「よいことって何?」

「…え、」


 予想外の質問に面食らってしまった。よいこととは何か。非常に哲学的な問いだ。


 スイの真っすぐな言葉、純粋な疑問に、答えなければいけないと思う。それでも言葉が出なかった。

 ゴミを片付けること、一生懸命学業に励むこと、あるいは少女に文字を教えること。これは善いことだ。

 それでも、そんな単純な話でないことは、考えなくても分かる。


「…少し、難しい質問だ…よいことっていうのは一律で定めることはできなくて、立場や状況によってかなり、変わる」

「…?どういうこと」

「いや、…難しくて、今は、俺には答えられないってことだ」

「…」


 スイは首を傾げながら、俺の名前をじっと見つめていた。見たままの意味の単純な名前を。

 そしてもう一度三角鉛筆を握って、ノートに鉛筆の先を置いた。


「書くのか?」

「うん」


 スイは一画ずつ丁寧に、俺の名前を書きとった。

 一度、二度、三度。自身の名前よりも多く、繰り返し書かれていく俺の名前。どこか気恥ずかしくて、静止したくなる。


「そんなに書かなくてもいい」


 それでも、スイは書き取りをやめることはしなかった。真剣な表情のまま、同じ動作を繰り返していく。


「…ゼンの名前、覚えたい」


 そう言われると、それ以上は何も言えなかった。

 純粋な、勉強への興味。講義室で、前のめりになって学ぶ少女を誰も邪魔できなかったように、スイの純粋さを咎めることなど、俺には不可能だった。


 俺の名前だけでノートのマス目が埋まるころに、ようやく満足したスイは鉛筆を置いた。


「…マリノが、ゼンは頭がいいって言ってた。…トビキュウ、わからないけど、頭がいいと、トビキュウするんだよね」

「…」


 違う、と言いかけた。俺はとりわけ、優秀なわけではない。

 俺よりも短い勉強時間で、俺なんかよりずっと優秀な人間はたくさんいた。

 ただ俺は、机に長時間向かうことが、性に合っていた。ずっと短所だと思っていた、集中するあまり周囲の状況にまったく気を配れなくなる性質が、学業に関してだけは、たまたまいい方向に働いた。

 飛び級したのも、その分の学費が節約できると聞いて、それに飛びついただけだ。


「…ゼンにもわからないことが、あるんだね」


 そんな当たり前のことを言って、スイはやわく笑った。


「…そりゃああるよ、たくさん」


 言いかけた言葉は出てこなかった。はじめて見るスイの笑顔が、あまりにも綺麗だったからだ。

 無邪気で、こどもみたいな、幼い笑顔。

 おそらく中高生くらいの年齢の少女に、あまりにも不似合いな感想かもしれないけれど。

 赤ん坊が笑いかけてくれたみたいな、そんな美しさがあった。


 まだ、分からないことだらけだ。

 分からないことだらけだから、金もないのに就職しないで、研究なんかしているんだよ。


「…そうだ」


 そういえば、と思い、ポケットに手を入れる。チョコレートが入っている。

 勉強と言えば甘いものだと、キシがくれたものだ。

 頭脳労働にはエネルギーが必要だというのは、俺も普段から実感している。


 プラスチックで包まれたチョコレートを机に出すと、スイはそれを、まじまじと見た。


「チョコレート、食べるか?」


 スイは無言で、一口サイズのチョコレートをじっと観察する。

 立方体のそれを360度しっかり見つめて、そして、俯いた。


「た、べない…」

「…そうか」


 嫌いだったか、と思う。スイみたいな年齢の子は、みんなこういうのが好きだと勝手に思っていた。


「すき、だけど。…食べない」

「…」


 何か事情があって食べられないのか。アレルギーとか、何かそういう。

 それか、出所のわからない、しかも関係性も浅い男からもらった食べ物は食べられないと、そういうことか。

 そんな可能性に思い至ってしまって、少しへこむ。

 一応このチョコレートは、俺ではなくキシの机で保管されていたものだから、汚くはないはずだと、心の中で言い訳をする。

 それに、研究が忙しくて1日2日着替えないこともあるが、最近はちゃんと洋服を洗っている。

 この服も、今朝変えたばかりだ。


 …と、そこまで考えて、変な思考になっていることを自覚する。サカイが言った「不潔が一番嫌われる」という言葉のせいだ。

 チョコレートについて、それ以上の詮索はやめておくことにした。


 ——隣の部屋、研究室のドアが開く音がする。誰かが登校してきたのだろう。

 時計を見ると、ちょうど8時半を示していた。研究室が動き出す時間は決まっていないし、徹夜も日常茶飯事のめちゃくちゃなところだけれど、それでも学生が活動を始めるには妥当な時間だ。


 スイとの勉強会は、今日のところはお開きにした。



 研究室に入ってきたキシに、チョコレートを返却する。


「あれ、彼女、食べなかったの」


 意外そうに言ったキシはそのまま包み紙をあけて、自分の口に放り込んだ。


「ダイエット中とか?」

「いや、それはないだろう…どう見ても子供だし、痩せる必要があるようには見えない」

「あれくらいの子って普通にダイエットするでしょ」

「え、そうなのか?」

「うん」


 うちの妹もさー、まだ中学生なのに、カロリーがどうとか言ってるもん。

 キシはそう言いながら、プラスチックの包装紙を指でもてあそんでいる。


 そういうものなのか、と思う。子供でもダイエットをするなんて、なんだか不健全な気がするけれど。

 スイは細くて小さいから、むしろもっと食べたほうがいいなんて、余計なことを思った。


「いやゼン、お前が言うなよ」


 いつの間にか登校してきたサカイも、会話に加わっている。

 一瞬心を読まれたのかと思ったが、当然サカイはエスパーではない。

 となると、思考はすべて口に出ていたらしい。


「ヒョロガリのお前が言っても説得力ないだろ。お前こそもっとカロリー摂れよ。今度3人で二郎行こ」

「いや俺相当食べてるけど、というか、ヒョロガリ…!?」

「事実だろ。工学部に100人いる顔しやがって。ゼンは知らないだろうけど、二郎は完全栄養食だから」


 完全栄養食。魅力的な単語に興味をそそられる。

 効率よくエネルギーを脳に送ることができるなら、それは素晴らしい食べ物だ。

 正直食べ物の味には興味がないが、脂質と糖質を摂取できるような食べ物は、その一点だけで好ましく思えた。

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