68.新生活
スイの新生活がはじまった。
日中はナグモ研究室で掃除や荷物整理をして過ごし、合間に文字の勉強をすすめていた。
はじめは一対一でひらがなの読みから教えていたが、それをマスターしてからは、読み仮名を読みながら自分でも勉強するようになった。
そして夕方になると、ナグモ女史と一緒に職員宿舎に帰っていく。
そんな毎日を過ごしていた。
「というかスイ、何かやりたいことはないのか? 毎日研究室にいるけど」
「漢字ドリル 小学1年生」を広げているスイに、俺は率直に尋ねる。
自由に外に出られるのだから、もっと遊んだり、楽しいことをすればいいのに。
今のスイは別に穂積市に留まる必要もなくて、市外に遊びに行くことだって可能だ。
スイは鉛筆を顎にあてて、上のほうをみながら少し考えるそぶりをした。
「今は、勉強が一番楽しい」
「そう」
そう言われたら、俺から何も言うことはない。
「何か勉強で、分からないところとかある?」
俺の質問に、スイは首を横に振った。
「キシさんと、サカイさんが教えてくれた」
「そうか」
俺も俺で研究を進めなければならない。
時間も気にせずにぶっ続けで実験をしてしまう悪癖は変わらずで、スイにも不便をかけていることだろうと思ったが、スイはすでに研究室になじんでいた。
人当たりのいいキシがすぐに受け入れるのは思った通りだったが、俺に対して当たりが強いサカイまであっさりと受け入れたのは想定外だ。
生真面目なサカイのことだ。てっきり、研究の情報がスイを通して外部に漏れるとか、素性のわからない機械化人間を住まわせるリスクとか、そんなことを言うかと思ったのに。
そう思ってサカイに尋ねたところ、「スイちゃんが来てから研究室がきれいだろ。腐った弁当の殻も、いつのかわかんねえ菓子パンもない。最高だよ」と遠くを見つめていた。
そんなに嫌だったのか、申し訳ない。
「ゼンは?もう実験はおわり?」
「ああ。午後から実験の機械をナグモ女史が使うから、今日はおわり」
ちらりと後ろを見やると、ナグモ女史は自身のデスクで食事をとっていた。
タッパーに詰められた何かを頬張っている。
「珍しい。弁当ですか?」
たまたま通りかかったキシが、タッパーをのぞき込んで言った。
確かに彼女が既製品以外を口にしているところは、見たことがない。
スパイスのいい香りが、こちらのほうまで漂ってくる。
カレーライスだ。糖分と脂質を最高効率で胃に流し込める、スーパーフード。
「ああ。彼女が作ってくれた。うまいぞ」
彼女、と示されたのはスイだ。
スイは料理を褒められて、照れくさそうに笑っている。
キシはええ、と短く声をもらした。
「スイちゃんにそんなことさせてるんですか」
「殊勝だよなあ。自分は食べないのに」
ナグモ女史は表情を動かすことなく、淡々と言った。
それでもその声色からは、少しの親愛が漏れ出ているようだった。
そんな様子を見て、俺は思わず笑ってしまった。
「絆されてるじゃないですか」
「別にそんなんじゃない」
ナグモ女史はそれだけ返して、あとは黙々と、カレーライスを口に運んでいく。
隣では、スイがそんな彼女をうれしそうに眺めていた。




