落とし物
必修科目でもない限り、講義は1週間に1回だ。
必然的に、スイという少女にハンカチを渡せるのは1週間後になる。
実験がキリのいいところまで進んだので、俺は久しぶりに構内のカフェを訪れていた。
きらびやかなスイーツを並べて写真を撮る趣味はないが、ここのドリンクは効率的に脳に糖分とカフェインを流し込めるため、時折通っている。
呪文のような注文にもももう慣れた。
ナグモ女史おすすめのドリンクとカスタムで、カロリー爆弾を生成する。
無料で増量したホイップクリームを啜っていると、視界の端に知っている顔が見えた。
思わずそちらをみると、目が合ってしまう。
「ゼンくん」
「…マリノ、さん」
マリノはなぜかこちらに近づいてきて、俺の向かいの席に腰を下ろす。
手には蓋つきのラテがあって、それを包み込むように手を添えている。
もうすっかり春だが、雨の日はまだ冷える。
「マリノでいいよ。それ、好きなの?」
俺は黙ってうなずく。気の利いた返事はできないが、エネルギー効率という点で好んでいることに変わりはない。
マリノは気にしていない様子で、テーブルに肘をついた。
「すごいね、グランデって初めて見た。休憩中?」
「ああ、…マリノは?」
「私も休憩中。ちょっと探し物してて、行き詰まったから…ってあれ、」
マリノの視線が、さまざまな荷物が乱雑に放り込まれているカバンに落とされる。
参考書、筆記用具、メモ用紙、財布、いつかもらったレシート、使わなかったコンビニのおしぼり、本で圧縮されて原形のないプリント。
その中で、内ポケットからはピンク色の可愛らしいハンカチがのぞいている。
「そのハンカチ」
マリノは確かめるように、カバンをのぞき込む。そうされて初めて、ゴミだらけのカバンから、場違いな可愛らしいピンク色がのぞいている異様さに気づく。
「あ、預かってるだけだ。授業で一緒になる子の落とし物で…」
「それ!探してたの。スイって子のハンカチ」
その言葉に、思わずマリノの顔を見る。マリノの口から、「スイ」という言葉が出た。
「知り合いなのか?」
「ちょっとね…大事なものなんだって。よかった見つかって…」
安心からか、マリノは長く息をついた。うつむいて、温かいドリンクの容器を額に当てている。
思わぬところで、スイへのつながりがあった。
一生懸命探しているのなら、早く返してあげたい。
そこで、あ、と気づく。俺はポケットからスマホを取り出した。
「ちょっと待ってくれ」
俺はメモ用紙をちぎり取ると、メールを見ながらペンを走らせる。
「補講:木曜日14時 工学部B棟303講義室」先ほどメールで知らされた、前回の分の振り替え授業だ。
「あの子、知らないだろうから。伝えておいて欲しい」
マリノはメモ用紙をまじまじと見た後、何か言いたげな顔をした。…が、彼女は何も言わないまま、やわく笑った。
「…ありがとう」
マリノはハンカチとメモ用紙を受け取ると、食堂をあとにした。
引き留めようとも思ったが、急いでいるようにも見えた。
チャンスを逃してしまったな、と思った。
スイのことを、もっといろいろ聞きたかった。
いつものようにパソコンに向き合っていると、研究室の扉がノックされた。
ここを訪れる人は滅多にいないし、サカイもキシも、律儀にノックをして入ってくるようなことはしない。
不審に思いはしたが、無視するわけにもいかず、座席を立って扉を開ける。
そこには、あの少女、スイが立っていた。
「あ、きみは…」
声をかけると、俯いたまま、スイはびくりと体を震わせる。
俺の視線より少し低い位置に、スイのつむじが見える。髪が顔にかかっていて、表情はよく見えない。
手を後ろで組んで、不安そうに重心をぶらぶらさせていた。
「…」
「…」
沈黙。壁掛け時計がきっちりと1秒を刻む音だけが響いていた。
スイの不安、緊張感がこちらにも伝わってくるようで、なぜか俺も押し黙ってしまう。
重い空気を破ったのは、スイの震える声だった。
「ハンカチ、戻ってきた…」
確かに、スイの後ろ手の中には、ピンク色のハンカチが握られていた。
確かめるみたいに、刺繡のざらざらした部分を指でなぞっている。
「…無事に戻ってよかった」
なるほど、それをわざわざ伝えに来たのか。
研究室は工学部棟の中でも奥まったところにある。
すぐそばで研究用のサンプルという名の、一般的には危険物と呼ばれるものが保管してあるから、人通りが極端に少ない場所に設けられている。
だから、スイはわざわざこの場所に、ハンカチが戻ったと言うためだけに来たのだ。
そしてスイはパーカーのポケットから、俺が渡したメモ用紙を取り出した。
ハンカチと一緒にマリノに手渡した、補講の予定が書いてあるメモ用紙。
几帳面に四つに畳まれた小さな紙を、おずおずと広げる。
「…これ、なんて書いてあるの…?」
「え?」
「これ」とは、何のことだ?と一瞬思うが、すぐにメモ用紙の内容であると思い直す。それ以外に考えられない。
ただ、いくら走り書きの文字とはいえ、読めないほどだろうか。
字が綺麗だと褒められたことはないし、小学校時代から、「もっと丁寧に書きましょう」との教師の評価は変わらなかったが、このメモに関しては、人に見せる前提で、読める程度で書いたつもりだ。
スイの表情は相変わらず見えない。
「これ、字だよね。字、わたし、わからない…」
「…え、」
字、わたし、わからない。つまり文字が分からない。スイは確かにそう言った。
このご時世、そんなことがあり得るだろうか。
識字率がほぼ100%といわれるこの国で、少女は字が分からないと言った。
海外暮らしが長いとか?いや、それなら「日本語が分からない」と言うはずだ。少なくとも、スイは文字を知らない。
それか、何かの事情があって、不登校だったとか?それでも、数字とひらがなくらいであれば、今どき未就学児でも理解しているはずだ。
どうして、と言いかけたが、その瞬間に脳裏によぎる。
例えば貧困とか、特殊な家庭環境とか、何らかの障害があるとか。そういったセンシティブな可能性だって当然考えられることで、それを、目の前の少女に尋ねる気にはならなかった。
「えーっと、この間、授業休みになったから、今週の木曜日に補講があるんだ」
一旦、内容だけ伝えることにした。
「ホコウ?」
「休んだ分の振り替えで授業があるんだ、場所はいつもと同じ」
スイの視線は、変わらずメモ用紙に落とされている。言われた内容とメモを見比べているようだった。
しばらく押し黙ったあと、スイはゆっくり、口を開いた。
「…あなた、ゼン、は、字が書けるの…?」
「まあ、人並みには…」
最近はパソコンかスマホでの入力ばかりで、一部の漢字を忘れかけているという感覚はあるが。
字が書けるか書けないかと言われれば、生活に支障がない程度には、まあ。
「…」
スイは再び押し黙る。
メモ用紙の下になっているハンカチを、再び指でなぞっている。桃色の爪が小刻みに震えていた。
怯える少女を眼前に、なんだか俺が悪いことをしているような気分になる。
どういう事情か分からないが、スイは文字に興味があるのかもしれない。
講義のあと、ホワイトボードを綺麗にしている俺を射貫くように、じっと見つめる姿が思い浮かんだ。
もしかしてあれは、俺の背中ではなく、ホワイトボードの文字を見ていた?
「よかったら教えようか、字」
そう言ったのは完全に出来心だった。
文字に興味がある、というのは俺の予想でしかない。断られるかもしれないとも思った。
それでも、スイははじかれたように顔を上げた。
「いいの…!?」
——ばちり、深い緑色の瞳と、目が合った。
はじめてそれを見たときも思ったが、不思議なくらい綺麗だ。
本物を見たことはないけれど、きっと宝石はこんなふうに輝くのだと思った。
液晶だけが光っている、薄暗い研究室の中で。スイの瞳がきらきらと輝いていた。
教授の話を、食べるみたいに聞き入るスイの姿が思い浮かんだ。
知らないことがある、それを知りたい。
その感情には心当たりがある。自分もずっと、そうだ。




