55.ある機械化人間の独白2
あのときのことを思い出そうとすると、古いテレビの映像のように、記憶にざらざらとしたノイズがかかる。
確か、冬の日のことだった。3年かそこらぶりに、道に雪が積もるくらいの、寒い日。
同級生とはしゃぎながら帰って、そして、真っ暗な部屋に母はいた。
「ショータ、ごめんな」
母の手にはしろい延長コードがあった。
暖房もつけずに凍えるような木造アパートの一室で、母は静かに泣いていた。
「中学の制服、買ってやれへん。……母ちゃんのせいや」
春から中学生。そう信じて疑わなかった。
受験して良い学校に、なんていうのは全く考えていなかったが、地元の同級生と一緒に、当然、それはあるものだと思っていた。
「……ショータ、もし母ちゃんが、健康な体に生まれてこれたら」
母は震える声で、時折洟をすすりながら言う。
「次も、母ちゃんの子供になってくれるか」
それにオレは、どう返したんだっけ。
——うん、ええよ。
たぶん、そんなことだ。
車椅子の母が「それ」をしやすいように、オレは床にひざまずいた。
母の冷え切った手でゆっくりと、延長コードが首にかけられる。
ゆるやかに、それが絞められて——どれくらいの時間が、経ったのだろう。
なかなか訪れないそれに、ゆっくりと目を開いた。
目の前の母はぐちゃぐちゃの顔で、首を横に振った。
筋になった涙の粒がはらはらと散って、母の白いセーターに滲みていく。
母は小さく、あかん、と言って自分の膝に突っ伏した。
しゃくりあげながら、母は子供のように泣いていた。
「あかんわ、ショータ……ごめん、ごめんな」
「母ちゃん、……」
思いとどまってくれたんだ。そう思った。
泣く母をみて初めて、死にたくなかったことに気が付いた。
母はオレを殺せなかった。よかった、そう、心から思った。
それなのに。母は悲痛な声で続けた。
「あかんねん。母ちゃんな、もう指に力が入らへん……」
重い音を立てて、延長コードが床に落ちる。
なんにもできひんようになってしまった。母の涙声だけは、耳の奥に、今でもこびりついている。
母の手を止めたのは、オレへの愛情なんかではなく、不治の病だった。
麻痺が進行した母は、心中の機会さえも奪われていたのだ。
部屋の入口から、どさっと重い音がする。
買い物から帰った父が、買い物袋を取り落とした音だ。
泣く母と、呆然と立ち尽くす息子。真っ暗で冷え切った部屋、足元に転がるしろい延長コード。
その異様な光景に父は一瞬目を見開いて、そしてこちらに走ってきた。
父ちゃん。オレは心の中で叫んだ。
父ちゃん、怖かった。父ちゃん、父ちゃん!
いつもオレのことを一番に考えてくれる父だ。
オレを抱きしめて、守ってほしかった。安心がほしかった。
そして、いまだ死を諦められずにすすり泣く母を説得してほしかった。
「父ちゃ、」
言いかけたオレの横を父は素通りした。え、と小さく息が漏れる。
父はまっすぐ母のところへ駆けつけて、母の身体を抱きしめた。
つらいなあ、ごめんなあ、父は母にだけ謝って、母だけを慰めていた。
まるで、ちっぽけなオレなんて見えていないみたいに。
そこからの記憶は、どう頑張っても思い出せない。
脳の中をぐちゃぐちゃに掻きまわされて、それ以来、オレはこの人をどこか他人のように見つめるようになる。
実際彼は、父である前に夫だった。妻の介護者だった。
それに気が付いてしまって、足元がガラガラと崩れていくような心地がした。




