研究室
講義室に向かうと、案の定、少女はいつもの特等席に座っていた。
時間になっても誰も来ない状況で、不安そうに瞳を揺らしていた彼女は、俺の姿をみて、少し表情をゆるめた。
「今日、休講だって」
意を決して、彼女に話しかける。突然話しかけられて、少女はまるい目を大きく見開いた。
「きゅ、うこう」
「先生が風邪ひいたらしい。今日は休みだ」
「そっか…」
彼女はこの状況に合点がいったような顔をしたあと、分かりやすく肩を落とした。
はじめて会った日と同じように、窓から日が差し込んでいる。
「……」
「……」
無言、静寂。気まずい空気が流れる。
話してもいいものなのか、思案する。
突然現れた名前も所属も知らない少女に、聞きたいことがたくさんある。意を決して俺は口を開いた。
「きみは、」
と、言いかけた言葉を遮るように彼女は立ち上がり、慌てて講義室を出ていった。
ぱたぱたと音を鳴らして走っていく。
いつもは気づかないうちに、静かに講義室を出て行ってしまう彼女が、今日はなりふり構わず走る姿を、俺は見送ることしかできない。
「は、速…」
あまりの速さに呆気にとられてしまった。
小さな講義室内で彼女はあっという間に加速して、廊下の向こうへ消えていく。
何かスポーツでもやっているのだろうか、人間離れしているとも思える速さだ。
「あ、」
ふと足元を見ると、ピンク色のハンカチが落ちていた。彼女のものだろうか、それを拾い上げる。
シンプルな無地の生地に、白い糸で刺繍がしてある。彼女の名前かもしれない。
「…す、い」
S、U、I——スイ。
それが彼女の名前だろうか。
相変わらず所属はわからないし、どこに届ければいいかも分からない。
学生課に届けるにしても、明らかに大学生より幼く見える彼女は、本当にこの学校の学生なのだろうか。
まあ、次の授業で届ければいいか。
俺はハンカチを畳んで、自分の研究室に持ち帰ることにした。
「戻りました」
乱雑に積まれた資料と実験データ。少しかび臭いような空気、各々の机にはパソコンがおかれている。
誰が書いたのか、「整理整頓」と手書きで書かれた張り紙は端のほうが破れていて、この乱雑な部屋を片付けようと思案した者がいたことがうかがえる。
その横には、菓子パンやカップラーメン、割り箸の束が備蓄されており、寝袋すら持ち込まれている。
『ナグモ研究室』、教授の指導のもと、現在3人の学生がモンスターの生態について学ぶ研究室である。
「珍しいな。講義か」
「まあ、休講でしたけど」
パソコンから目を離さず、背中で返事をしたのは、この研究室の長、ナグモ女史だ。
モンスターの生態、特に瑞白町の超大型モンスター、カグツチが出す有害物質についての研究をしている。
見た目は若く見えるが、日本へのモンスター襲来当初から、モンスターの生態について研究を続けている第一人者であるらしいため、結構な年なのかもしれない。
ナグモ女史は随分伸びてしまった前髪を乱暴にかきあげながら、俺のほうを振り返る。
「帰宅困難区域への立ち入り調査の許可が出たよ。来月の第三金曜日に行くからな」
「ああ、この間言ってたやつですか。朝からですか?」
「そうだ。バイト代は出すぞ」
「いい加減、正式に助手雇ってくださいよ…まあ、いいですけど」
瑞白町への立ち入り調査。
防護服の着用は必須で、帰ってきたあとも除染作業を受ける必要があり、一日拘束される。
本当に有害物質が除染できているのかと不安になったこともあるけれど、ナグモ女史に「除染装置は私が作ったんだ。信頼しないのは自由だが、世界にこれしかないから諦めろ」と生産者の顔をされた。
瑞白町各所の汚染値の測定、汚染された土壌のサンプルの採取。
世間で脚光を浴びるのは、エネルギー変換やHET活用など、金になる研究だけれど、ナグモ女史はいわば「後始末」の研究をしている。
そしてナグモ女史の指導のもと、俺も有害物質にほかの物質をぶつけて、その質的変化を研究している。
帰宅困難区域への立ち入りは厳しく制限されている。
カグツチの有害物質は、生身の人間が一定以上曝露すると、さまざまな内臓疾患や神経疾患を誘発することがわかっている。
また、持ち帰ってきたサンプルの管理方法も厳しく定められている。
防護壁と同じ素材でできた箱に二重にして入れて、鍵付きの棚に保管する。
サンプルを直接取り出して研究する際も、簡易的な防護エプロンとゴーグルの着用が義務付けられている。
瑞白町では、ナグモ女史の助手のような形で同行することになる。
今まで三度現地調査に同行したが、重い防護服に身を包んで、ずっと歩きっぱなし。
夏は暑すぎて死ぬかと思ったし、冬は積雪で見えにくくなっていた用水路を踏み抜いてしまい、死ぬかと思った。
幸い耕作放棄地で水流はなかったから、命拾いした。
まあ代わりに、普通のアルバイトの3倍ほどの時給を得られるわけだが。
学生の身なので、基本的にいつも金はない。
自席に座る。
パソコンの横にはエナジードリンクの空き缶で塔が立っている。乱雑に置かれた過去の実験データの束は、ギリギリのバランスで積みあがっている。
「ちょっとゼン、お前のこっちのデスクにも侵攻してきてる」
「ああ、ごめん。片付ける」
「お前のそれは片付けじゃなくて『移動』だよ。いい加減缶も捨てろよな」
向かいのデスクを使っている同級生、サカイは不満を漏らす。
俺はデスクがどれほど散らかっていようがあまり気にならないが、せめてカップラーメンの汁だけはその日のうちに捨てることを約束させられている。
「ナグモ先生も、せめて弁当の殻は洗ってくださいね」
「どうせ捨てるものを、わざわざ洗うなんて非効率だろうに」
「効率の話なんてしてないんですよ。なんで二人とも平気なんですか」
有害物質の除染の第一人者のくせに、日常の空間は不衛生でも構わない。
はたからみたら完全に矛盾しているが、研究の時間を少しでも多くとるために効率的に日常を送るのは、合理的であると思う。
しかしナグモ女史もまた、あまりにもコーヒーのカップを洗わないので、紙コップでコーヒーを飲むことをサカイによって強制されている。
「あなたたちに任せたら、この部屋腐海になりますよ」
「さすがにそれまでには片付けるさ」
そう言うナグモ女史の声には、感情がこもっていないように思えた。
この人は本当に腐海の中でも研究を続けそうである。
俺のほうは、学生寮の自室はさすがに、ギリギリ腐海ではない。
「戻りましたぁ」
間延びしたあいさつをしながら、もう一人の学生、キシが研究室に入ってくる。
「教授、実験データが一応揃ったんですけど…。Slackに投げたので見てください」
「お、ご苦労様」
教授は慣れた様子でチャットツールを開くと、画面いっぱいの数字の羅列を上から読み込んでいく。
…途中まで見て、呆れたようにキシのほうを振り返った。
「…これはさすがに、見事に外れ値だらけだな」
「お話にならないって感じですねぇ!」
「開き直るんじゃない。原因はなんだ?」
「たぶんチップの差し込みが甘かったんですかねえ。苦手なんですよねぇ、液体の扱い」
「原因が分かっているのならいい。次からはしっかり手元に集中しなさい。このデータは一応もらっておくよ」
ナグモ女史は冷静に告げると、またパソコンの画面に体を向けた。
キシは肩を落としながら、すごすごと自席に戻ってくる。
「俺の徹夜がぁ…」
「仕方ないよ。あるあるだろ、手元狂うの。ゼンはそういうのないの?」
「学部生の頃は何度もあった。修士になってからは無いが」
「ゼンはそうだよな」
実験は外れ値との戦いだ。
しかしどれほど難しい実験でも、データがとれるまで繰り返せば100%にできる。
幸いにもある程度の研究設備と資金、時間と体力があるので、落ち込んでいる時間がもったいない。
1回目が駄目なら、すぐに2回目にとりかかる。100回やっても駄目なら、101回やるしかない。
100万回目で成功するなら、100万回やるべきだろう。
「できるまでやり続ければいい。簡単なことだ」
俺の言葉に二人はため息をつく。
「分かっちゃいるけどさぁ、みんながお前みたいに脳筋じゃないんだよ」
「うわ、見てこれ、昨日の履歴。怖…この人、1日で42回も修正してる」
研究のバージョン管理ツールの画面には、昼から朝方までの俺の更新記録が表示されている。
昨日は42回、集中力の調子がよかったので、朝方まで夢中でシミュレーションを続けていた。
「あの機械を扱うのは集中力が要るから。できそうなときにまとめてやった方が効率がいい。それに、途中からかなり楽しかったぞ」
本心からの笑顔でそう答えると、二人は呆れた顔をした。
「寝たほうがいいよ、それ」




