39.不条理
温まった体のまま、マリノの連絡先が入ったスマホを持って、自分の部屋に戻る。
ようやくスイの様子を探れることに安堵している。
手癖でリビングの電気のスイッチに触れるが、何も起こらない。
当然だ、電気が来ていない。
途中、床に転がっていたペットボトルを蹴り飛ばしたけれど、特に気にならなかった。
今はスイのことを尋ねるのが先だ。
真っ暗な部屋で、ベッドサイドの電池式の照明のスイッチを入れる。
何度目かの電気代未納のときに、応急処置で買った唯一の明かりだ。
脱ぎっぱなしの洋服が積み上がっているベッドに腰を下ろす。
そのままスマホを開き、今聞いたばかりのマリノの連絡先をタップしようとした矢先、木琴のメロディがスマホから鳴り出した。
通話だ。滅多に通話なんてかかってこないスマホを、思わず取り落としそうになる。
少なからず動揺した。
なんとかスマホを持ち直し、通話に出る。
「……はい」
『こんばんは、ゼンくん』
「あ、はい、こんばんは……」
マリノの声だ。今大丈夫だった? と、事後承諾で通話してきた。
時間としては大丈夫だが、電話してくるなら言ってほしい。
電話はものすごく苦手だ。せめて3回深呼吸する時間が欲しかった。
文句のような言葉が脳内に浮かぶが、すぐに自分が頼んで連絡させてもらったことを思いなおす。
それに、文字を長々と打つよりも、電話のほうが効率がいい。
「スイのことなんだが……」
『……やっぱりそうだよね』
「スイは、……どうしてる?」
通話の向こうで、マリノが少しの間、黙る。
その間で嫌な想像が掻き立てられて、心臓の底の方がざわざわする心地がした。
「やっぱり、何か悪い状況に……まさか、……スイの身に何か」
『いや! 再起不能なくらいに壊れたとか、亡くなったとか、そういうことではないよ。確かに今も修理中でラボから出てないけど……いつものことといえば、そうだから』
まあ、だからって良いってことじゃないけど……小さく消えそうな声で、マリノは言った。
『施設長が変わってから、スイは狩場に出っぱなしだよ。毎日毎日、1日に何度も……大きな修理も、この2週間でもう3回目。その修理も全然追いついてない。金属部分と配線だけ直したらすぐ出動してる』
いつもは精巧に、生身の人間と見まがうほどにリアルに貼られた人工皮膚。
鉛筆を握りしめた指先が白くなるような、血色の再現さえされている、おそらく最高級の技術の結晶。
豊かな表情を作り出し、指先ひとつまで不自然な箇所がひとつもないような——壊れて内部が露出するまで、普通の人間の少女であると疑いもなく信じていたような、そんなスイの身体。
『いつもはちゃんと人工皮膚を貼って、必要に応じてメンタルケアを受けて、休憩時間だってほかの兵士と同じように、しっかりとってた。でも……最近、本当におかしいよ』
戦場で傷ついて、最低限動けるだけの修理をして、再び戦場に向かう。
まるで人間として扱われていないような、非道な労働だ。
工学部棟の中で戦う彼女の姿が思い出される。
強く、美しかった。
躍るような動きと、魂から湧き上がる甲高い笑い声。内気で話すことが苦手な彼女の中の、不健全な狂気。
『修理中に寝てるみたいだけど……一睡もしないで出続ける日もあるし。もともと静かな子だけど、明らかに、前より喋らなくなってる。脳のデータだけは生身の体と同期してるから、寝ないとだめだし、精神的なストレスも普通の人間と同じだよ。ラボの先生も機械化人間の専門家として苦言は伝えてるんだけど、聞き入れられないみたい』
そんな彼女の精神的負荷は、察するに余りある。
モンスターを切ることだけを目的とするスイのあの姿は、人間離れしている。
泣いたり笑ったりする普通の少女は、自分の体格よりも大きなモンスターに立ち向かうときに、どれほどの恐怖を狂気でもって覆い隠しているのだろうか。
「……喋らなくなってるって……ヤバいんじゃないのか」
『ほんと、このままだとヤバい……今日の修理はさすがに……いつもよりもゆっくりやってるよ。材料が不足してますとか、深夜なので人員がいませんとか、適当なことを言って』
マリノは悲痛な声で言った。スイを休ませたいのに、これくらいしか、できることがない……。
イズミノ陸将の活躍によって、カサマツはじめ一般兵士は、随分と待遇が改善されたという。
急な時間外出勤も当たり前ではなくなり、十分な休息をとれるようになった。
では、その穴埋めは?
急な時間外出勤があったのは、十分な人員を確保するためだ。
兵士の安全と、この国のエネルギーの根幹にかかわることだから、決して手薄にすることは許されない。
現場の無理でなんとか維持されてきたHETシステムで、現場が無理をしなくなった。
その皺寄せはどこにくるのか。
——それは、たった一人で数十人のはたらきをする、ただ一人の少女だ。
「……そんなのは、おかしいだろう」
『おかしいよ。おかしいけど、どうにもできない。HETはそうやって維持されてる』
その言葉が心臓に突き刺さる。
今自分が生きているのはHETのおかげだ。
特待生として自分が優遇されているのも、研究ができているのも、HETによって日本が豊かになったからだ。
自分が普段食べているもの、普段着ているもの、当たり前に消費する電気や生活上必要なエネルギー。
深刻な搾取によって得たものを消費して、自分たちは豊かな生活を手に入れた。
たとえプランテーションで過酷な労働を強いられる子供の存在を知っても、世界からチョコレートが無くならないように。
「このままだと……スイはどうなる」
『最悪の場合、精神に異常をきたして、二度と元のようには動けなくなるよ。生身の人間で言う、精神の病気……脳と同期している以上、機械化人間になっても、なる人はなるからね。もしスイの精神が壊れずに動き続けられたとすれば、今みたいな状況がずっと続くだけ。……スイの生身の心臓が止まるまで』
日本人の平均寿命は、女性であれば87年。
彼女の心臓が自然に止まるまで、順当にいけばおそらく、あと70年超。
もちろん生身の健康状態にもよるだろうが——永遠とも思える長い時間、戦場に身を置くことになる。
この国の豊かな暮らしのために。スイの命が尽きるまで。
『……どうしたらいいんだろう……』
電話の向こうの声は震えていた。
修理に時間がかかるふりをして、少しでも長くスイを休ませて。それでも、何も解決しない。
スイが壊れるまで、あるいは死ぬまで。
スイひとりが搾取され続け、この国が恩恵を受け続ける構図は変わらない。
何ができるのだろう。何もできないのか。
スイを救うために、俺は何をするべきなんだろう——
「……」
何も思い浮かばない。俺はどうすればいいんだ。
いつか聞かれた、スイの言葉が脳内に反響する。
——善いことって、なに?
あのとき、明確に答えられなかった。そして今も、それは変わらない。
スイにとって善いこととはなんだろう。
スイを救いたい。こんな過酷な状況に身を置く彼女を、助け出したい。
HETの恩恵を受けながら生きている。それでも。
一人の人間が犠牲になり続ける社会なんて、クソ以外の何物でもない。
それだけは確信していた。
ポロン、軽快な音が耳元で鳴った。通話が切れた音だ。
慌ててスマホを見る。電源ボタンを押しても、真っ暗な画面のまま反応しない。
「……クソ」
スマホの充電が切れた。大きなため息をつく。
この気持ちには覚えがある。
無力感。自分ではどうにもできない何かに襲われて、雁字搦めになって、体が動かない。
体が泥のようにベッドに沈んだ。背中がちりちりと痛むのも相まって、どっと気だるさが押し寄せる。
どこかのタイミングで壊れてしまうか、死んでしまうまで戦い続けるスイ。
それに裏打ちされた豊かな暮らし。
いろいろなことが脳内をぐるぐる回る。その思考を睡魔が飲み込んでいった。




