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少女


 誰もいない、校舎の外れの講義室。

 30人ほどの学生が座れる座席、ホワイトボードが壁に2枚付いている程度の、小さな部屋だ。


 大学院生になってからは研究室にこもりきりになっており、ほとんど講義を受ける必要もなくなっているが、週に何度かは、研究に幅が出そうな授業をとっている。


 必修でもなく、おじいちゃん先生が延々とマニアックな話をしているような授業だ。


 はじめは10人程度の学生がいたように思うが、必要最低限の単位数をとるのが目的の学生には合わなかったのだろう、少しずつ人数が減っていき、今では数人の学生のみが受講する。


 講義が始まるまで30分ほど余裕がある。

 まだ誰も来ていない講義室で、暖房をつけ、研究データの整理をする。この時間が意外と集中できるため、習慣のようになっている。



 いつものようにノートパソコンと筆記用具を抱え、講義室に入る。

 と、今日は珍しく先約が居た。


 少女だ。

 講義室の後ろのほうの端の席で、少女が机に突っ伏して眠っている。


 小さな講義室に疎らに座る生徒はもう顔を覚えてしまっているが、見慣れないその少女に、俺は思わず目を開く。


 暖房もつけずに冷え込む講義室で、色素の薄いベージュの髪が、窓から差し込んだ光で透き通っていた。

 静かに、少女が眠っている。


 あまりにも熟睡しているように見えるので、起こすのは忍びないような気もした。


 暖房のスイッチを入れて、音を立てないように、ゆっくりと席に向かう。


 数人の学生たちが座る席はいつもなんとなく決まっていて、俺はいつも後方の右側の席に座っている。

 つまり、ひとつ開けて隣の席になる。


 俺が近くに座ってパソコンを開いても、少女が起きることはなかった。


 そのまま10分、20分と時間が経過したが、少女は物音ひとつ立てず、静かに眠り続けている。

 本当に生きているのか不安になって少女を見るが、かすかに肩が上下しているのが見えたので、再度パソコンの画面に目を落とした。


 ぱらぱらと生徒が集まってくる。

 生徒はそれぞれ少女に気づいて、一瞬ぎょっとしたような顔をするが、誰も少女に声をかけることはなかった。

 各々が、なんとなく決まった席につく。


 講義の開始時間になっても眠り続ける少女に、顔は知っているが話したことのない男子学生たちが、「えっこれ誰も起こさないの」みたいな空気を醸し出すが、誰も話しかける勇気がない。


 俺は陰気な男であることを自覚しているが、悲しいことにこの講義室に集まった生徒たちは、全員俺と同じようなタイプの人間であるらしかった。



 そうこうしているうちに、腰の曲がった白髪の教授が、杖をつきながら入ってきた。

 教授は座席を一瞥し、異様な少女の存在に気付いた様子だったが、特に気にも留めずに講義を開始した。



「…モンスターは局地的に発生し、何か目的地があるかのように、一直線に走っていく。ただ、その目的地は、誰にも分かっていない…というのは、皆さんが知っている通りですな。…ただ、モンスターが向かう先には必ず人間の居住地があり、そして、半数にあたる事例で、その日に生まれたばかりの赤子が死んでいるというのが、私どもの研究で示されておるわけです」


 配布された手元の試料には、いかにも老人が作ったらしい視認性の悪いグラフが記載されている。


 犠牲者が数百人とされる場所で新生児が死ぬことは確率的に不思議ではないが、犠牲者が1桁の比較的被害が軽い地域でも、必ずその日に生まれた赤子が亡くなっている。


「確認できたのが半数ですから断言はできないわけですが、紛争地帯などで立ち入れない場所だったり、発展途上国で個人の特定が困難な場合以外では、すべてのケースで、必ず、その日に生まれた赤子がモンスターの被害にあって死んでいるということは、はっきりと言えるわけです」


 すっかり背が丸くなっている老いた教授は、どうやら数年前まで生粋のフィールドワーカーだったらしい。

 定年はとうに超えているような年齢で、名誉教授なんていう称号を得ている老人による、好き放題のマニアックな授業。


 最初に聞いたときはまるで陰謀論のようだと半ば聞き流していたが、教授の持つその称号が、その話の説得力を増しているように思えた。

 人間は押しなべて、権力に弱い。


「まあ、損傷が激しかったり、埋葬されていたりで、死体が残っていない場所も多かったもんですから。この論は一般的には、根拠の薄い話として扱われているわけですがね」


 異国の研究者に大切な我が子の死体を見せろというのは、なかなか受け入れられない話である。

 特に、もともと赤子が死ぬのが珍しくない国の多くは、赤子の死と土着の宗教が強く結びつけられているため、十分なサンプルを得ることが難しいのだと、教授は語った。


 

 しばらくして、少女は目を覚ました。


 眠そうな目蓋を1回、2回と擦り、色素の薄い睫毛の下から、宝石のような深緑色がのぞいた。

 そしてきょろりと周囲を見渡し、講義を続ける教授をじっと眺めている。


 少女はそのまま、出ていくわけでもなく、ただ講義を聞いていた。


 筆記用具もノートも持っておらず、彼女のぶんまで一応配られた資料には目もくれず、教授の言葉に、じっと耳を傾けている。


 はじめは何も分かっていなさそうな顔をしていたが、話が進むにつれて、少しずつ少女の姿勢が前のめりになっていく。

 話を続ける教授を食い入るように見つめながら、まるで一言たりとも聞き逃さないようにするみたいに、真剣に耳を傾けていた。


(おお、なぜか彼女にぶっ刺さっている)


 一見胡散臭いようにみえる授業だが、この教授の話は素直におもしろい。

 俺はフィールドワークに全く出ないことはないが、大半の時間を研究室で機械に向き合うことに当てているため、制約の中で現地で研究をしていた教授の話は興味深く感じていた。


 マニアックな内容だが、一部の生徒の間で評判がよい。


 教授の話を聞く少女は、真剣そのものだった。


 大きめのパーカーに細いズボンを合わせた、ラフな格好をしている、小柄な少女だ。

 まるくくりっとした深緑の瞳は宝石のような輝きを放ち、ベージュの髪が肩にかかっている。

 顔立ちはどこか幼く、中学生か高校生くらいに思える。


 普段は教授の話に注意を払うばかりで、周囲のことなど見えなくなってしまう性分であるが、この時は半ば身を出すようにして真剣に話を聞いている少女が、ちらちらと気になった。



 どうして、この大学にいるのだろう。


 工学部・防衛学部・医学部という構成の大学で、圧倒的に男子生徒が多数を占めているが、少数とはいえ女子学生はもちろん存在している。

 それでも、こんな子を構内で見たことはない。


 大学生に比べて明らかに幼く、一般的にかわいいと言われそうな顔をしている。このような見た目の子がいれば目立ちそうなものなのに。


 気づけば九十分の授業は終了していた。

 教授が教科書を閉じて、ゆっくりとした動作で講義室をあとにする。生徒たちもぱらぱらと講義室を出ていき、俺と少女だけが残された。


 教授から初回の授業で頼まれて以来、ホワイトボードを綺麗にするのは自分の仕事になってしまった。

 老いて腰が曲がった教授のかわりに、クリーナーを滑らせる。


 その間、少女はじっと座って、俺の背中を見つめていた。

 俺は少女のほうを見ていなかったけれど、嫌というほど視線を感じた。


「……」


 互いに話しかけるわけでもなく、視線があうわけでもなく。ただ、同じ空間にふたりでいた。

 ホワイトボードに書かれている最後の一文字を消し終わり、いよいよ振り返らないといけなくなる。


 意を決して後ろを振り返る。いつの間にか誰もいなくなっていた講義室を呆然と見渡した。


 一切の足音も立てず、まるで野良猫のようにいつの間にか消えていた少女。


 窓から光が差し込む、晴れた日の午後だった。

 その次の講義から、見慣れた学生たちの顔の中に、一人の少女が加わった。



 その少女は、相変わらずいつも後ろの席を特等席にして、前のめりで講義を聞いていた。

 筆記用具もノートも持たずに、体ひとつで教授のゆっくりとした話を受け止めている。


 雪解けをもたらす春のやわらかな光が、少女の薄い色の髪を照らしている。

 彼女がまたたくたびに、大きな瞳がきらきらと輝いていた。


 板書をするでもなく、ただ食い入るように教授の話に耳を傾けて、それをきっちり90分間続けている。


 何が彼女にそこまで刺さっているのかは知らないが、教授のマニアックな話を、誰よりも集中しながら真剣に聞いていた。

 そして板書を消す俺の背中を穴が開きそうなくらい見つめて、いつの間にかいなくなっている。


 学生の中でも、彼女は目立っていた。

 話しかけてもいいものなのか、思案しているような学生もいたが、誰も彼女に話しかけることはしなかった。

 コミュニケーションスキルの低い男子学生の空間にありがちな、みんなで同じくらい女子と距離をとろう、みたいな、不思議な距離感だけがあった。


 それに彼女は、姿勢だけは誰よりも真面目だった。

 示し合わせたわけではないが、きっと全員が、彼女の学びを邪魔してはいけないと思った。少なくとも、俺は強くそう思っていた。


 そんなことを考えているうちに、彼女が講義室に現れはじめて、1か月が経っていた。



 スマホに一通のメールが届く。


 表題は『休講のお知らせ』——おじいちゃん先生が、風邪をひいてしまったらしい。今日の講義は休みになる。


 すでに講義の開始時間は迫っていた。

 準備を終えて、講義室に向かおうとしていたところだ。


 筆記用具とノートパソコンを机に置いて、急に開いてしまった時間をどう使おうか思案していると、彼女の顔が思い浮かんだ。


 正式に受講しているわけではなさそうな少女には、きっとこのメールは届いていない。

 あの少女は、多分、授業に来ている。


 授業を受けるのが楽しみで仕方がないような顔をした少女が、講義室にぽつんと座っている。

 その姿を想像して、ちりりと胸が痛んだ心地がした。


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