37.情報収集
長い身体除染からようやく解放され、俺は研究室へと戻ってきていた。
デスクに座り、パソコンを論文検索ネットワークに繋げる。
この大学の教授や学生であれば誰でも使用可能な、ネット上に公開されている大部分の論文が閲覧できるシステムだ。
検索窓に教授の名前を打ち込む。「宇田川博史」。
おじいちゃん先生の名前だ。
そしてはじき出された検索結果に、俺は息を飲む。
「……ない」
画面に表示された論文は、全部で12本。そのうちすべてが誰かとの共著で、何人かの名前の一番最後に彼の名前が載っている。
試しにひとつクリックして、ざっと目を通す。
「……博論だな、これ」
筆頭著者に名前がない上に、「宇田川研究室」という単語が出てきている。
どうやら論文の著者は博士課程の学生で、宇田川教授は監修の立場だ。
それに、引用が0件であるというのも、おそらくこれが名の知れた研究ではなく、埋もれていった研究か、そもそも学生の論文であるということだろう。
とにかく、その内容は求めているようなものではない。
モンスターが一直線に何かに向かっている理由に迫るような、そんな論文ではないことは分かる。
「あれ、ゼン。今日は戻ってこないんじゃなかったの」
背後から声をかけられて、はっとする。
振り返るとそこにはキシがいた。
ポケットにスマホが入っている以外は手ぶらで、入り口に佇んでいる。
「いや、そのつもりだったんだが……調べものがあって」
「そう、頑張るねぇ。俺は忘れ物取りに来ただけ。充電器忘れたの」
キシはデスクのコンセントから充電器を引っこ抜くと、コードをぐるっと巻いてポケットに突っ込んだ。
「キシ、すまんがちょっと見てくれ」
「え?」
パソコンを示すと、キシは身を乗り出して画面をのぞき込んだ。
「なにこれ」
「うちの大学の名誉教授の論文なんだが……そもそも数が少ないし、見た感じ全部学生の論文なんだ。名誉教授の論文がひとつも引っかからない上に引用もゼロなんて、そんなことあり得るか?」
「いやあ、ないでしょ普通。システムエラーかなんかじゃない? ほかの先生でも検索したら」
キシに言われるがまま、検索窓に「南雲冴子」と入力してみる。
「……うわぁ」
検索結果、192件。
そのうちおおむね半分が、彼女が筆頭著者である。
これは誰かの補助ではなく、彼女が研究のメインとなっている証拠だ。
そして引用が3万回を超えている。
世界中の研究者が彼女の論文を引用し、研究の基としている。
「システムは別に、普通ってことだな」
「うん、そうみたい。てかやばいね、引用3万って見たことないよ……」
さすがにナグモ女史の結果は例外中の例外だ。
彼女が天才だと持て囃される理由はここにあるのだ。
比べる相手を間違えている感はあるが、とにかく、名誉教授ともあろう人物の論文がここまで少なく、引用もされていないというのは、ありえない話なのである。
どう考えても、おかしすぎる。
「じゃあ……論文がネットに公開されてないってことじゃないかなぁ」
キシは神妙な面持ちのまま、いつもの間延びした口調で言う。
「……紙、か」
Web上で論文が閲覧できるようになったのは、ここ20年の話だ。
それまでは当然、紙媒体で論文を読むしかなかったという。
欲しい論文があれば直接かけあって、別刷りのものを郵送してもらう。
そんなアナログな時代を経て、今ではコンマ数秒で目当ての論文にアクセスできる時代になった。
おじいちゃん先生は、おそらく70代か、それ以上だ。
バリバリの現役だった年代と照らし合わせると、論文が紙で発表されていることに違和感はない。
「え、……郵送してもらう感じ?」
「いや。学内にいるだろうから、直接かけあってみる」
「あ、そっか。うちの大学の先生か、その人」
それでもアナログな方法なことに変わりはないが、郵送よりはマシだ。
アポをとって、直接話を聞きに行けばいい。
幸いなことに、おじいちゃん先生のメールアドレスは知っている。
以前、休講のお知らせが送られてきている。
また脚を動かす必要が出てきた。
なんだかどっと疲れて、そのまま机に突っ伏す。
「ゼン、また泊まるつもり?」
「いや、さすがに今日は寮に帰りたかったが……急に疲れた」
頭が重い。体も重い。なんか背中もずっと痛い。
「いや、今日は帰りなよ」
「めんどい……」
「帰った方がいいって。鏡見てみなよ」
「え?」
なんで急に鏡? 疑問に思いながらポケットからスマホを取り出す。
手鏡なんていうアイテムは持っていないので、スマホのインカメで自分の姿を確認する。
「……」
顔に張り付いた前髪と、不自然なほどの光を放つ鼻と頬。
そこには油でギトギトの成人男性の姿があった。
「現地調査で汗かいたんじゃないの」
「……」
「いや分かるよ。誰だってそうなるでしょ、多分。なんかごめん」
「……謝らないでくれ……」
身なりを気にしないほうであることは自覚しているが、さすがにこれは酷い。
見る者に不快感を与えるレベルだ。
さすがに今日は寮に戻って、シャワーを浴びなければいけない。
「……研究室に風呂があればいいのにね」
「ああ。本当に……食べ物も寝る場所もあって、風呂だけがないからな、ここ」
「風呂まであったら住んじゃうのにね」
「家賃も浮くしなぁ……」
疲れすぎて、中身のない会話しかできなくなってしまった。
今日はさすがに帰ろう。
脳裏には退院時に厳しい看護師から強く言われた、「しばらく患部を清潔に保って、毎日軟膏で処置してくださいね」との言葉が思い出されていた。
やりたいこと、やらなきゃいけないことが多すぎる。人生、時間が足りない。




