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36.底抜けのコップ


 軽トラックに揺られて、流れる景色を見ていた。


 生き物の気配の感じられない、死の町。

 ぽつぽつと小さな雨粒が当たったかと思えば、直後、雷鳴とともに大粒の雫がフロントガラスを叩いた。

 低いエンジンの音と振動が体を揺らしていた。


 ハンドルを回しながら、ナグモ女史は静かに言う。


「……きみの反応は、正常な脳のはたらきだ。理不尽な出来事で生き残った人は、そのことで強い罪悪感を抱えることがある。この現象は名前もついている。『サバイバーズギルト』というんだ」


 言葉だけは聞いたことがあった。

 なんだっけ、昔、テロ事件に巻き込まれた人のケアを追うテレビかなんかで言っていた。

 それで、インタビューに答える医者は、なんて言ってたんだっけ。


「これは私の主観なんだが……トラウマを負った心は、穴の開いたコップのようなものだ。何をしても満たされなくて、騙し騙し、その都度なんとかするしかない」


 窓の外に小さな窪みが見えた。かつて、農業用水を貯めていた池か何かだろうか。

 役割を失ったそれは大きくひび割れて、そのひびに雨水が吸い込まれていく。

 その池が水を溜めることは、もう、ない。


「人間の脳なんて、欠陥だらけだ。生まれた時からそう決まっている。ただの脳の電気信号に、振り回される必要なんてない」


 脳を埋め尽くす感情も、心に刻まれたトラウマも、ただの電気信号だと言い放つ。

 その冷たさが、むしろ救いな気がした。


 理由は分からないが、ナグモ女史の言葉には、妙に説得力があった。

 「分かったように語るな」みたいな気持ちが湧かないことに、自分でも驚いている。


「……簡単に言いますね」


「一応、私なりに長いこと考えた結論ではある。万人に受け入れられるなんて、初めから思っていない」


 すべてに納得できるわけではない。それを本当の意味で受け入れるには、時間がかかりそうだとも思う。

 それでも、それが自分にとっての救いになってほしい。



 荒れた道路を上りきると、鉄の柵があらわれた。

 そのすぐそばに、塗装がところどころ剥がれた、古い看板がある。「また来らっしゃい 瑞白町」。


 立ち入り禁止区域を抜けて、穂積に戻ってきた。


 看板のすぐ下には3人の軍人が待ち構えていて、鉄の柵を素早く両側に寄せた。

 身体除染をするための簡易的なテントと、大層な軍事車両まで停まっている。


 ここで防護服を脱いで、除染を受ける。


 汚染されている可能性があるトラックはこの市境で保管する決まりになっていて、その後は軍の車両で大学まで送り届けられる。

 汚染物質を決して拡散させまいと、ナグモ女史自身が考えたシステムだ。


 ようやく防護服を脱げることに安堵する。

 重さや息苦しさもそうだが、実は先程からずっと、汗が背中にしみている。

 背中の傷は、日常生活を送るには申し分ないくらいには回復しているが、まだまだ完治とほど遠い状態だ。


 端的に言うと、背中が痛すぎる。


 除染装置のアタッチメントを座っている俺の体に当てながら、ナグモ女史は、そういえば、と話し始めた。


「さっきの話だが、モンスターの発生に関しての研究は、一時期かなり大規模に行われていたんだ。かなり昔の研究だから分からないが、もしかしたら、学内の論文検索システムで引っかかるかもしれない」


 論文検索システム。日ごろからお世話になっている。

 モンスターが何かに引き寄せられている。

 その仮説の根拠になり得る情報が得られるのか。


「当時の第一人者も、うちの大学の所属だ。……私が学生の頃から教授をやってるから、もうかなりのお年だが」


「……そうなんですか?」


「ああ。きみも講義を受けているだろう。ウダガワ教授だ」


 ウダガワ教授? 聞いたことがある。大学院生になって、今受けている講義はそう多くない。結構なお年の、モンスターの発生に詳しい教授……


「おじいちゃん先生!?」


 その衝撃に、思わずナグモ女史を見上げる。

 「おい、除染中に動くな」と、ナグモ女史は顔をしかめた。


 背中が曲がって、白髪だらけで、杖をついて、少人数の学生にむけてひたすらマニアックな話をしている、あのおじいちゃん先生に繋がった。


「学生はそんな風に呼んでいるのか。もっと敬え、あの方は名誉教授だぞ」


「いや、知ってますけど。え、そんな凄い人なんですか?」


「当然だ。教授になることでさえ苦労する世界で、名誉教授だぞ? 一体なんだと思ってる」


 素直に信じられない。あのおじいちゃん教授が。

 確かに話はおもしろい、名誉教授という称号も持っている。

 それに、明らかに定年を過ぎているのに大学に勤め続けている。


「まあ、今はそこまでお忙しいわけではないだろう。機会があるなら、話を聞いてみるといい」


 ナグモ女史は淡々と言う。


 分からないことだらけのこの世界で、もしかしたら、何かが分かるかもしれない。

 目の前にぶら下げられた「ご褒美」に、胸が高鳴るような心地がした。


 もしかしたら、8年前、瑞白に超大型モンスターが湧いた理由も、穂積に今でもモンスターが大量に出現する理由も、分かるのかもしれなかった。


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