31.病み上がり3
「おはようございます、先生」
その声ではっとする。入り口を見ると、ナグモ女史が寝起きを隠さない表情で立っていた。
しわしわの白衣を羽織って、気だるげに長い瞬きをする。
無理やり一つにくくられただけの髪が、あちこちに跳ねていた。
「……寝坊した」
「珍しいっすね。というか先生、普段が寝なさすぎなんですよ」
「睡眠中は研究ができないんだから、削るのは仕方ないだろう。……昔は眠らなくても3、4日は大丈夫だったんだが、駄目だな。年だ、年」
「死にますよ。若者でも3徹は死にます」
荷物を床に投げるように置いて、ナグモ女史はコーヒーメーカーに向かっていった。
徹夜上等のカフェイン中毒者の姿だ。
「……ナグモ女史って何歳なんだろう。普通に20代に見えるけど、貫禄ありすぎて40って言われても納得感ある」
「いや、日本にモンスターが湧き始めたときにはもう、研究者やってたらしいぞ、20代はあり得ない。実際、40ちょいってとこじゃないか? ……あの生活力の低さは5歳って言われても納得するけどな」
「あの見た目で40代は、さすがに時空歪みすぎだって。……謎すぎる、あの人」
サカイとキシが口元を隠しながら、何か言い合っている。
気になるのなら聞いてみればいいのに。
案外ナグモ女史なら、あっさり教えてくれるか、言いたくなければ適当に流すくらいで収めてくれるだろう。
失礼ながら、化粧っけゼロでしわしわの白衣スタイルで仕事をしている彼女が、自分の年齢を気にしているとは思えない。
この間なんてそのへんの輪ゴムで髪を縛っていたし。
キシが意を決したようにナグモ女史に声をかけた。
「先生って子供の頃、何が好きでした?」
「え、何だ急に」
「いや、気になって」
回りくどい質問だ。遠くから世代を割り出そうとしている。
ナグモ女史は淹れたてのコーヒーに口をつけてから、ゆっくり答えた。
「……つまらん子供だったと思うぞ。暇さえあれば勉強していたが……ああでも、ひょうきん族だけは、毎週観ていたな」
「ひょうきん族、……へぇ~そうなんすか~……」
番組名だけは聞いたことがあるが、いつ放送のどんな番組なのかはさっぱり分からない。一体いくつなんだ、この人。
スマホで番組を調べ、その放送時期をみる。
……は? え、この当時小学生とかってこと?
つまり下手したら、40どころか……。
驚きに震える一同を気にもせず、ナグモ女史は俺のほうを見た。
「あ、退院おめでとう」
今かよ。
「そういえばゼン。金曜日、瑞白の実地調査だからな。それまでに体調を整えるといい」
「えっ」
実地調査。急に言われて、一瞬呆けてしまう。
冷静に考えると、記憶の奥底に、そんなワードがあった気がする。
帰宅困難区域への立ち入り調査の許可が出たと、そう言っていた。
「来月の第三金曜日に行くからな」……考えて、ようやく思い出した。
「きみの退院が間に合ってよかった。心配していたんだ」
心配、というのは俺の身の話ではない。
研究に必要な立ち入り調査に、人員が間に合うかどうかの心配だ。
つまり、一番人の心がないのはこの人かもしれない。
病み上がりの体で、重たい防護服を着て、一日拘束される。
冬や夏でないだけまだマシかもしれないが、それにしても負担が大きすぎる。
バイト代は出る、そういう問題ではない。
「ブラックバイトすぎるでしょう……」
この女、人使いが荒すぎる。
これはパワハラとかアカハラとか、そういう類のものだ。
スイに会えないまま、時間だけが過ぎた。
俺は意味もなく早く登校し続けているが、やはりスイが俺のもとを訪れることはない。
何かトラブルが起きているのだろうか。
単純に、忙しくしているだけだといいが。
連絡をとる手段もない。
スイの連絡先は知らないし、普段どこに居るのかも分からない。
というか、多分スイはスマホを持っていない。
せめてマリノに連絡を、と思うが、マリノの連絡先も知らない。
初めて会ったとき、マリノはなんと言っていたか。
機械人間工学の研究室にいる、と言っていた。
普段自分がいるのは工学部棟の1号館であるが、案内図を見る限り、機械人間工学の研究室はこの棟には存在しない。
おそらく隣の、2号館にあるのだろう。
学部生のときに数回授業で訪れたことがあるが、どこに何があるのかは把握していない。
そういえば、と思い、年度初めにもらったシラバスを机から引っ張り出して、調べてみる。
授業を選択するための一覧表としてしか使ったことのない冊子だが、確か、研究室の所在地が載っていたはずだ。
機械人間工学の文字を探して目を通すが、すぐに落胆することになる。
「阿部研究室」「片山研究室」「佐々木研究室」「清水研究室」……教授の名前を冠した研究室の名前しか載っていない。
機械人間工学研究室の教授の名前を、俺は知らない。
「……」
完全に手詰まりだ。スイは今頃、どこで何をしているんだろうか。
その後、おじいちゃん先生の講義にも、スイは現れなかった。
ぽっかり空いた彼女の特等席。
周囲の学生もちらりとその席の様子をうかがうが、誰も何も言わない。
先週もいなかったよね、そう噂する声が耳に入るが、誰も詳細を知らないようだった。
もっとも、授業を飛ぶみたいなことは、大学生においては特段珍しいことではない。
だから、誰も詮索することはなかった。




