29.病み上がり1
試料を機械にかけて実験を開始する。
ふう、と息を吐いて、試料の変化に視線を固定させた。
意識が実験に没頭していき、1秒を刻む時計の針、回り続ける機械のファンの音が少しずつ遠くなる。
薄暗い部屋、機械の中の試料だけがLEDで照らされている。
物質が少しずつ変化していく光景を脳に焼き付けていく。
すべて観察し、すべて記憶する。
そしてしばらくすると、機械の動作が、自然に止まる。
「……あ゛ー……」
喉の奥から自然と声が漏れた。久しぶりの、脳が焼ける感覚。
脳焼き器、の名に恥じない高い負荷を感じ、なんともいえない感情が湧いてくる。
有り体に言えば、研究に戻ってこられた喜び。
大げさに言えば、生きていることへの実感。
入院中は実験がない分楽ではあったものの、やはり脳への刺激が足りなかった。
身動きをとるたびにちりちりと背中を焼く痛みが刺激といえは刺激だが、当然そんなものでは喜べない。何も嬉しくない。
怪我をする前は淡々と実験をしていた。
しかしそれを一時的に取り上げられて、脳への負荷がいかにありがたかったかを思い知った。
なくなって分かるありがたみというやつか。
以前から薄々感じてはいたが、この脳焼きの作業には中毒性がある。
あの事件から3週間が経過し、俺は退屈な入院生活からようやく解放された。
ふと時計を見ると、時刻はぴったり朝の8時半を回っていた。
ちょうどそのとき、実験室の扉が開く。振り返ると、そこにはキシがいた。
「ゼンだ! 久しぶりじゃん、もう大丈夫なの?」
扉を開いて俺を見るなり、キシは驚いたような声を上げた。
大学院に入ってからほぼ毎日顔を合わせていたためか、3週間姿をみなかったことで、随分久しぶりのような感じがする。
「問題ない。……動くとまだ背中に違和感があるが、もともとそんなに動き回るほうでもないから」
「よかったね。見た感じ、入院の前より元気なんじゃない? いつもより顔色がいい気がする」
言われてみれば、そんな感じがした。今朝顔を洗ったときの違和感はそれだ。
万年消えないと思い込んでいた目の下のクマが消え、窪んでいた頬が少し目立たなくなっていた。
徹夜や暴食が当たり前の生活から、けが人らしく6時起床9時就寝のタイムスケジュールに無理やり矯正させられた上、完璧に栄養が計算された健康的な食事が一日に三度与えられていたことが理由だろう。
「で、退院してまずやることが実験?」
「ああ。中断した実験がずっと気がかりだったから」
「相変わらずだねえ。初日からそんなに飛ばさなくてもいいんじゃない?」
「いや、別に無理してるわけじゃない。むしろ、久しぶりに脳焼き器を使ったから、なんか生き返った感じがする」
「うっわ……」
ドン引きしていることを隠さないキシの顔が見えるが、仕方ない。事実だからだ。
そこにサカイが登校してきて、俺を見るなり「うわ、ゼンだ」と短く言った。
「『うわ』って何だよ。来ちゃ悪いのか」
「いや、びっくりしただけだって」
サカイは言いながら、カバンを机の横に置いた。
キシはまず初めに俺の体を気遣ってくれた。サカイにも見習ってほしい。
そんなことを考えていると、キシは俺を指さして、サカイに告げ口する。
「この人、久しぶりに脳を焼いて喜んでるよ」
「ヤバ、病気じゃん?」
前言撤回。キシもサカイも俺への扱いがひどい。入院中もあんまり連絡くれなかったし。
「……まあ、今回はほんのちょっと、お前の気持ちもわかるかもしれない。今回の件で工学部棟がかなり壊れたから、10日間は立ち入れなかったし。最初は実験しなくていいから楽だと思ってたけど、最後のほうはさすがに焦ってきたわ、これ修論間に合うのか? って」
「10日はデカいよねぇ」
「一応人が入れるようにはなったけど、まだ修繕工事はしてるし。あれ、けっこう音するよな」
「わかる。仕方ないけど、まあまあ気が散るよね」
確かに、久しぶりに訪れた工学部棟には、いたるところにカラーコーンが立てられていた。
一応割れたガラスはすべて張り替えられ、散乱した瓦礫は撤去されたようだったが、未だに壁や床には小さな傷やひびが残っていた。
幸いにも建て替えるレベルではないようだが、修繕にはまだしばらく時間がかかるだろう。




