12.訪問者
いつものようにパソコンに向き合っていると、研究室の扉がノックされた。
ここを訪れる人は滅多にいないし、サカイもキシも、律儀にノックをして入ってくるようなことはしない。
不審に思いはしたが、無視するわけにもいかず、座席を立って扉を開ける。
そこには、あの少女、スイが立っていた。
「あ、きみは……」
声をかけると、俯いたまま、スイはびくりと体を震わせる。
俺の視線より少し低い位置に、スイのつむじが見える。髪が顔にかかっていて、表情はよく見えない。
手を後ろで組んで、不安そうに重心をぶらぶらさせていた。
「……」
「……」
沈黙。壁掛け時計がきっちりと1秒を刻む音だけが響いていた。
スイの不安、緊張感がこちらにも伝わってくるようで、なぜか俺も押し黙ってしまう。
重い空気を破ったのは、スイの震える声だった。
「ハンカチ、戻ってきた……」
確かに、スイの後ろ手の中には、ピンク色のハンカチが握られていた。
確かめるみたいに、刺繡のざらざらした部分を指でなぞっている。
「……無事に戻ってよかった」
なるほど、それをわざわざ伝えに来たのか。
研究室は工学部棟の中でも奥まったところにある。
すぐそばで研究用のサンプルという名の、一般的には危険物と呼ばれるものが保管してあるから、人通りが極端に少ない場所に設けられている。
だから、スイはわざわざこの場所に、ハンカチが戻ったと言うためだけに来たのだ。
そしてスイはパーカーのポケットから、俺が渡したメモ用紙を取り出した。
ハンカチと一緒にマリノに手渡した、補講の予定が書いてあるメモ用紙。
几帳面に四つに畳まれた小さな紙を、おずおずと広げる。
「……これ、なんて書いてあるの……?」
「え?」
「これ」とは、何のことだ? と一瞬思うが、すぐにメモ用紙の内容であると思い直す。それ以外に考えられない。
ただ、いくら走り書きの文字とはいえ、読めないほどだろうか。
字が綺麗だと褒められたことはないし、小学校時代から、「もっと丁寧に書きましょう」との教師の評価は変わらなかったが、このメモに関しては、人に見せる前提で、読める程度で書いたつもりだ。
スイの表情は相変わらず見えない。
「これ、字だよね。字、わたし、わからない……」
「……え、」
字、わたし、わからない。つまり文字が分からない。スイは確かにそう言った。
このご時世、そんなことがあり得るだろうか。
識字率がほぼ100%といわれるこの国で、少女は字が分からないと言った。
海外暮らしが長いとか? いや、それなら「日本語が分からない」と言うはずだ。少なくとも、スイは文字を知らない。
それか、何かの事情があって、不登校だったとか? それでも、数字とひらがなくらいであれば、今どき未就学児でも理解しているはずだ。
どうして、と言いかけたが、その瞬間に脳裏によぎる。
例えば貧困とか、特殊な家庭環境とか、何らかの障害があるとか。そういったセンシティブな可能性だって当然考えられることで、それを、目の前の少女に尋ねる気にはならなかった。
「えーっと、この間、授業休みになったから、今週の木曜日に補講があるんだ」
一旦、内容だけ伝えることにした。
「ホコウ?」
「休んだ分の振り替えで授業があるんだ、場所はいつもと同じ」
スイの視線は、変わらずメモ用紙に落とされている。言われた内容とメモを見比べているようだった。
しばらく押し黙ったあと、スイはゆっくり、口を開いた。
「……あなた、ゼン、は、字が書けるの……?」
「まあ、人並みには……」
最近はパソコンかスマホでの入力ばかりで、一部の漢字を忘れかけているという感覚はあるが。
字が書けるか書けないかと言われれば、生活に支障がない程度には、まあ。
「……」
スイは再び押し黙る。
メモ用紙の下になっているハンカチを、再び指でなぞっている。桃色の爪が小刻みに震えていた。
怯える少女を眼前に、なんだか俺が悪いことをしているような気分になる。
どういう事情か分からないが、スイは文字に興味があるのかもしれない。
講義のあと、ホワイトボードを綺麗にしている俺を射貫くように、じっと見つめる姿が思い浮かんだ。
もしかしてあれは、俺の背中ではなく、ホワイトボードの文字を見ていた?
「よかったら教えようか、字」
そう言ったのは完全に出来心だった。
文字に興味がある、というのは俺の予想でしかない。断られるかもしれないとも思った。
それでも、スイははじかれたように顔を上げた。
「いいの……!?」
——ばちり、深い緑色の瞳と、目が合った。
はじめてそれを見たときも思ったが、不思議なくらい綺麗だ。
本物を見たことはないけれど、きっと宝石はこんなふうに輝くのだと思った。
液晶だけが光っている、薄暗い研究室の中で。スイの瞳がきらきらと輝いていた。
教授の話を、食べるみたいに聞き入るスイの姿が思い浮かんだ。
知らないことがある、それを知りたい。
その感情には心当たりがある。自分もずっと、そうだ。




