襲来2
しかし覚悟した痛みは、いつまでも訪れなかった。
「…?」
強く閉じた目を、恐る恐る開ける。
今まさに俺を飲み込もうとしていたモンスターは後方に頽れて、床に倒れている。
視線を上に向けると、深くフードを被った小柄な男が、モンスターと俺の間に立ちはだかっていた。
屈強な男というより、少年といった印象の、小柄な人間。
一本だけ携えたナイフの切っ先に、スマホのライトが鈍く反射していた。
彼は床を勢いよく蹴りだすと、前方にいるもう2体のモンスターの首元に飛び込んで、次々と切りつけた。
切り口から鈍色の液体が噴き出して、2体の獣が叫び声をあげる。
バタバタと5本ある肢で暴れるものの、すぐに動かなくなった。
呼吸一つ乱さない彼が、ゆっくりこちらを振り返った。
深く被ったフードに遮られて、顔はよく見えない。
助けてくれたのか。間一髪、彼のおかげで助かったのだ。
安心して、四肢に血が巡る感覚がする。
いまだに地面に這いつくばっている俺に、彼は手を差し伸べた。
しろくて小さい手だ。
自力では起き上がれそうもなかったので、ありがたくその手を握らせてもらう。
血が通っていないみたいに冷たいその感触。
強く引っ張り上げられて、ようやく俺は立ち上がる。
「あ、ありが…」
その言葉を遮るように、彼は再び俺の手を強く引いて、そして走り出した。
俺はされるがまま、一緒に走ることしかできない。
途中、窓やドアを今にも破ろうとする無数のモンスターの姿が見えて、心臓が止まりそうになった。
ざっと見ただけでも数十体、下手したら百体以上いそうな、異形の獣。
それらが脆いガラス窓に大量に押しかけて、校舎へ侵入しようとしている。
窓の外からは銃声と、爆発音が聞こえる。
大人数の男たちの鬼気迫る声と、時折闇をはらうような閃光。
軍がモンスターの討伐に来たのだ。
彼の持ち物であろう、無線機からは伝令の怒鳴り声が聞こえる。
停電でゲート停止、モンスターが次々に大学構内に侵入。現在も継続して湧き続けている!ゲートの前で止めろ、もう一体も入れるな!
廊下の突き当たり、一番奥の講義室に、少年は俺を投げ飛ばすみたいに放り込んだ。
机に背中が当たり、大きな音を立てる。
彼は入り口のドアを外から閉めると、俺を置いてまた駆け出して行った。
講義室のドアの小窓から、廊下の様子をうかがう。
彼が向かう先には、数え切れないほどのモンスターがいた。
すでに玄関扉は突破されている。そこから大量のモンスターがなだれ込んで、一直線に彼に向かっていった。
彼はナイフ一本で次々に小型モンスターを切りつけて、確実に数を減らしていく。
彼が通ったところは異形の獣の死骸の山になっていた。窓
の外でも、モンスターの数が減っていっている。
軍に子供がいるのか。少年を戦わせているのか。
そんな拒否感は、脳から抜け落ちていた。彼が戦う姿は、ただ、きれいだった。
「!」
刹那、彼の後方から、中型モンスターが彼に飛びつく。
体格に対して大きすぎる牙が、彼の左腕に嚙みついた。
俺は思わず息をのむ。しかし彼はそれを振り払うことはせず、腕を噛ませたまま、右手でナイフを獣の頭部に突き刺した。
ナイフを抜き去ると同時に、鈍色の飛沫が噴きあがる。
中型モンスターはその場に崩れ落ち、下顎をだらりと下げて、力尽きた。
息絶えた中型モンスターの口内から、ごとり、鈍い音を立てて、人間の腕が落ちる。
あまりにも非日常の光景に、彼の腕だと理解するのに時間がかかった。
彼は左肘から先を失ってもなお、立っていた。
いてもたってもいられなくて、俺は講義室の扉を開けた。
彼は強い、それは見ていればわかる。
それでも、こんな大けがを負ってしまったら、戦い続けるのは無理だ。
彼を、逃がさなければ。
転びそうになりながら講義室を飛び出す。
そこで初めて、扉のガラス越しではなく、直接見た彼に、出血がないことに気が付いた。
床に転がっている前腕からも、彼の肘の断面からも、出血がない。
かわりに、本物と見まがうほどに滑らかな人工皮膚が千切れ、金属のパーツと銅の配線が露出していた。
その光景に、息を呑む——彼は、機械化人間だ。
「…あはは、」
彼は、床に転がった自分の前腕のパーツを見ながら、高く笑った。
「あははははは!」
心底楽しくてたまらない、そんな笑い声。
彼は再び走り出すと、片手で次々とモンスターを切り裂いていった。
その声を聞いて、まさか、と思う。俺は、「それ」を知っている気がした。
いや、でも、まさか。そんな、ありえない。
無数のモンスターが彼に向かっていくけれど、彼はそれを避けることさえしない。
脚を噛まれようが、頭を殴られようが、お構いなしに切り続ける。
モンスターが減っていく。それに合わせて、彼の身体はどんどんボロボロになっていった。
噛まれた皮膚はめくれ上がり、金属の冷たい質感がのぞいていた。それでも、彼は止まらない。
子供のような笑い声を上げて、自分の身体よりも大きなモンスターも、足元めがけて視覚から飛び込んでくる小型モンスターも、鮮やかに処理していく。
まるで踊っているようだと思った。
その度に噴きあがる液体を拭うこともせず、彼は踊り続ける。
そうして視界を埋め尽くすほど大量にいたモンスターは、死骸の山となっていた。
彼は一体の大型モンスターの前に立ちはだかった。
校舎内に侵入した中でひときわ大きなそれは、姿は熊に似ているものの、現実ではありえない大きさと、それを覆う緑色の体毛をしている。
窓や教室の扉を次々破壊するパワーを持ちながら、動きが遅いように見えた。
少年は地面を蹴りこんで、大型の首元に飛び込んでいく。
そしてナイフを突き立てるが——
摩耗したナイフは、モンスターの皮膚を裂くことはなく、継ぎ目のところから二つに折れた。
モンスターが頭を振りかぶって、少年の右脚に噛みつく。
そのまま彼の大腿を引きちぎって、床に放り投げた。
がちゃん!音を立ててパーツが散る。
彼の小さな体は吹き飛ばされ、その拍子に、少年の顔を覆っていたフードが脱げた。
ああ、と思った。
その顔を、俺は知っている。暗くて顔ははっきり見えなくても、それでも、わかる。
笑い声を聞いて、もしかして、いやあり得ないと、一度は否定した可能性。
彼——いや、「彼女」は地面に倒れたまま、片方の手足を失ってもなお、それでも壊れたおもちゃのように笑い続けている。
「…スイ!」
気づけば俺はスイと大型の間に飛び込んで、スイの身体を覆っていた。
機械化人間といえど、心臓部、基幹部が破壊されたら終わりだ。
スイの機械の心臓を守りたかった。彼女がこれ以上傷つくのを見たくなかった。
どうかしていた。俺は激しく後悔した。
戦い方が美しいから、なんだっていうんだ。
強いからなんだ。機械化人間だからなんだ。
こんな子供に、戦わせてしまった。
驚いたように開いたスイの目が、まっすぐ俺を見た。
宝石のような輝き。うつくしい濃緑。
翡翠の瞳がこぼれそうなほど見開いて、小さく揺れた。
ゼン。彼女は小さく、俺の名前を呼んだ。
「…ごめん、スイ」
絞りだした声は、情けなく震えていた。
——瞬間、灼けるような痛みが、背中を襲った。
文字がわからない少女。
自分の名前さえ書けずに、それでも学ぶことが楽しくて仕方がないと、むさぼるように講義を聞いていた。
彼女がはじめて書いた文字。少女と、俺の名前。
少女は、チョコレートを食べなかった。食べられなかった。機械化人間だから。
事情は分からない。どうして、こんなところにいるのか。どうして、戦っているのか。
どうして、自分を傷つけるような戦い方をするのか。
分からない。なにもかも、分からないことだらけだ。
ブラックアウトする意識の中、一発の発砲音だけが、遠く聞こえた。




