第七話
依頼対象の村へ繋がる道。森を縫うように続くその道を、アシュロンとリーティア、それに加えてカリヤを中心とした若い傭兵達が歩いていた。
全員、どこか緊張したように感覚を研ぎ澄ませていた。
何事もなければ良い。行商人も旅先で小さな怪我でもして、村に滞在しているだけだ。誰もがそう思いたかったが、気を抜くことはできなかった。
治安のよい帝国と違って、半島にはしばしば盗賊が現れる。大抵の場合、盗賊は他の都市国家から流れてくるようだった。
都市キリイタを離れてから、当初は賑やかだった傭兵達の話し声も、だんだんと口数が減っていた。
「話によればそろそろだな」
リーティアが皆に聞かせるように声を出した。
今の所、周囲におかしな気配はなかった。
一行がさらに歩みを進めると、道の両脇に茂る木々が切れ、視界が開けた。小さな畑が幾つか続き、その先に村の建物が見えた。
先頭を歩いていたアシュロンは、微かに漂う腐臭に眉を寄せた。そして、手を横に伸ばして全員に止まるように合図すると、腰に下げていたフレイルを掴んだ。
アシュロン以外の者達も腐臭に気がついたのか、武器を手にし、油断なく周囲を見回した。
傭兵達は慎重に村の広場に続く道を進んだ。今の所、村には生きている人間の気配は感じられなかった。
道の半ば、地面に倒れ伏している人影があった。
アシュロンは慎重な足取りを崩さずに、その人影に近づいた。一歩近づく度に、腐臭がその強さを増していた。
アシュロンの目に人影の全容が映った。
もとは人間の形をしていたのだろうか。それすら疑いたくなるような残骸がそこに残されていた。最早、残骸からは生前の性別すら分からない。
アシュロンは戦場でも目にすることのない凄惨な様子に、無意識に下唇を噛んだ。
アシュロンの横から、死体の様子に気づいたリーティアも眉間に皺を寄せた。
若い傭兵の数人は、腐臭と凄惨な死体に堪えきれなくなったのか、道端に屈み込んで嘔吐していた。
「なんなんスかこれ」
カリヤが声を震わせて呟いた。
「熊……か?」
リーティアが答えを求めて自問した。
アシュロンはリーティアの言葉を聞いて、その可能性を考慮した。冬眠の時期を逃した熊が、小さな村で猛威を振るう話は、アシュロンも伝え聞いたことがあった。
「とりあえず固まって村の中を調べるぞ」
アシュロンが言い聞かせるように提言した。
傭兵達は一団となって、村の建物を回っていった。
村の建物は木造ばかりで、幾つもの建物の入り口が大きく崩れていた。何か巨大な物によって粉砕されたかのようだった。
アシュロンは手近な建物に入った。
ムッとする匂いが鼻に痛い。入り口を一歩進んだだけで、外とは比べ物にならないような匂いが充満していた。
アシュロンの後に続いたカリヤが、何度も空えずいた挙句に、建物から飛び出していった。
アシュロンにもカリヤの行動が理解できた。
これは、あまりにも、ひどい。
部屋の壁中、天井に至るまで、どす黒い血痕が広がり、肉片が飛び散っていた。野生の生き物が獲物を食い殺したというよりも、わざわざ撒き散らしたとでもいう有様だった。
アシュロンですらこれ以上ここに留まりたくないと思うほど、異様な光景だった。
建物の外にあった死体は先ほど目にしたものだけで、他の全ては建物の中に同じような状態で散らかされていた。
全ての建物を調べ終えるころには日が沈みかけていた。そして、生きている者は誰一人いなかった。
傭兵達は、皆、沈んだ表情で村の広場に集まっていた。鼻が馬鹿になったのか、広場にいるだけなら誰もが匂いは気にならなくなっていた。
「人間じゃないだろうな」
アシュロンが確かめるように周囲に確認した。傭兵達は全員が全員、静かに頷いた。
「熊ぐらいしか思い浮かばない」
リーティアが自分の考えを確かめるように口にした。
「もう十分ッスよ。早く帰りましょう」
カリヤが焦った様子で、声を絞り出した。
死体、というより肉片をそのままにするのは気が引けたが、この村を一刻も早く離れたいという思いは全員に共通していた。
この時刻に村を離れれば森の中で夜を迎えることになる。それでも、村に留まるよりはましだろうと誰もが考えた。
全員が森の方角に意識を向けていると、突然、大きな音とともに、建物のそばにあった樽が不自然に倒れた。風など微塵も吹いていない。
傭兵達は驚いて、武器を手に倒れた樽に視線を集中させた。樽には蓋がされており、何が入っているのかは見えなかった。
しばらくの間、全員が樽を注視していた。
アシュロンはリーティアに目配せすると、油断なく樽に近づいた。そして、手にした盾で、樽を小突いた。
アシュロンに小突かれた樽からは何の反応もなかった。アシュロンが、今度は樽の蓋を取ろうと、樽を立て直して、フレイルの柄で叩いた。
衝撃によってずれた蓋の隙間から、アシュロンを見つめる二つの光が見えた。
子供だろうか。窮屈そうに樽に押し込まれた幼児は、自分の両手で口を押さえて、アシュロンを見つめていた。
アシュロンが若い傭兵達に手を貸すように言うと、カリヤが直剣を地面に置いて駆け寄った。
カリヤが両手で幼児の脇を掬うように抱き上げても、幼児は手の平で口を押さえ続けていた。
幼児は半島の人間らしく、幼いながら比較的彫りの浅い顔をしていた。顔色は悪く、頬が扱けているのが見て取れた。
「よこしな」
リーティアが曲刀を鞘に仕舞って、両の手をカリヤに向かって突き出した。
幼児を受け取ったリーティアはあやす様に抱きかかえると、その背を優しく擦った。
リーティアに抱きかかえられて尚、幼児は口を押さえ続けていた。ぎらぎらとしたその両目だけが、周囲を見回していた。
結局、傭兵達は、村の外れで野営を行うことにした。
得体の知れない相手がいるかもしれない中で、衰弱した幼児をお守しながら、森を突っ切る気持ちにはなれなかったのだろう。さりとて腐臭の漂う村の中には居たくないのだ。
村にあった端材で簡易な柵を設置し、鳴り子を張り巡らせると、傭兵達は疲れた表情で大きな焚き火の周囲に座り込んだ。そして、焚き火はそれ一つではなく、周囲に大小の焚き火が焚かれていた。暖を取る為ではない。獣を追い散らすためだ。
「アレは用意したか?」
アシュロンがカリヤに尋ねると、カリヤは地面に転がっていた木材を持ち示した。
何の変哲もない木材だったが、長さだけは身の丈の二倍はある。そして、その先端は鋭く尖らされていた。
巨体の獣に剣で立ち向かうのは難しい。そのことを考慮したアシュロンの提案だった。
もちろん、村の惨劇の原因は、既に遠く、森の中かもしれない。しかし、備えを怠る者は簡単に死んでしまうものだ。
リーティアは幼児に付きっ切りだった。リーティアは、なんとか幼児の両手を口元から離したものの、幼児は一行に喋る気配を見せなかった。それどころか、食べ物も水さえも口にしなかった。
幼児はリーティアにしがみ付きながら、周囲の暗闇を見つめていた。
カリヤが幼児を抱きかかえるリーティアを難しそうな表情で見つめていた。そして、何を思ったのか、麻袋から金属製のコップを取り出すと、湯を沸かし始めた。
取っ手をそのまま持つには熱いのだろう、器用に枝を使って焚き火に当てられた金属製のコップは、その中の水を見る間にお湯に変えた。
「白湯でも飲みたくなったのか?」
アシュロンが不思議そうに尋ねると、カリヤは静かに首を横に振った。そして、焼き固められたクラッカーを砕いて、お湯に溶き始めた。
小さく砕かれたクラッカーは次第に溶けていき、お湯は白く濁った汁になった。穀物本来の甘い匂いが、周囲に仄かに漂い始めた。
カリヤは最後の仕上げに、屋台で買った塩練されたラードを一掬い汁に溶け込ませた。そして、コップが冷めるまでしばらく待つと、それをリーティアに差し出した。
リーティアは優しく、そのコップを幼児の口元に持っていった。
匂いというものは、特別本能に訴えかける力が強いのかもしれない。幼児は戸惑ったものの、ゆっくりとコップに口をつけた。
丁度良い温かさになった汁が、幼児の喉を小さく鳴らした。
リーティアはその様子を見て、それまでの険しい表情を和らげ、微笑んだ。
傭兵達も、少しだけ安堵した。しかし、焚き火の爆ぜる音が大きく響くと、数人が体をビクつかた。
アシュロンとて、恐ろしかった。
早く朝が来て欲しい。誰もがそう思った。
アシュロンも太陽の光が無性に恋しくなって、不意に夜空を見上げた。
夜空に浮かぶ月は、三日月となって、怪しい光を大地に注いでいた。
傭兵達は眠れぬまでも、せめて横になることにした。
半数はそのまま起きて、見張りを続け、その間に半数が横になる。それを二交代で行って、朝を待つつもりだった。
アシュロンは、体を揺すられる振動で浅い眠りから目を覚ました。
アシュロンの目に、カリヤの不安そうな表情が写った。
「兄さん、村の方からなんかおかしな音がしてるッス」
カリヤは、警戒しているのか、できる限り小さな声で話した。
アシュロンは起き上がると、ゆっくりと村の方向に意識を集中させた。
それほど大きな音ではないが、何かが擦り合わさる奇妙な音が聞こえていた。それに加えて、金属を打ち鳴らしたような歪な音が断続的に聞こえた。
アシュロンは周囲の寒さにも関わらず、背中に汗が滲むのを感じた。確かに、何かが村の方向にいた。
アシュロンは何かの存在に確信を抱くと、眠りについていた者達を全員起こそうとした。しかし、リーティアに抱かれて眠っていた幼児は、既に目を開けており、両の手で口を押さえ、怯えのためか体を震わせ続けていた。
「あの音は、いったいなんだ?」
リーティアは幼児を毛布に包んで地面に横たえると、曲刀を引き抜いた。長袖から覗くリーティアの前腕には、鳥肌が立っていた。
聞くに堪えない音が次第に村から近づいてきていた。金属が打ち合わされるような音はまだ良いが、何かが擦りあわされるような音は、まるで金属板に爪でも立てているかのように、生理的に嫌悪感を催す音だった。
幾つも設置された焚き火のうち、一番外側の炎が、異様な影を暗闇の中に写し出した。
若い傭兵達が短く悲鳴を上げた。
リーティアは大きく息を吸い込んだ。
そして、アシュロンは言葉を失った。
なんだ、これは。
アシュロンの身の丈を越す化け物が、炎に照らされていた。
金属が打ちなれされるような音は、化け物の口顎が互いに噛み合う音だった。化け物は節くれ立った六本足の後ろ四本で体を支え、上体を反らして前の二本を擦り合わせていた。二本の前足が擦り合わされる度に、聞き苦しい音が周囲に響いた。
頭部には触覚と思しき二本の垂れ下がった角が生えており、四つの小さな赤い目と二つの大きな緑の目が、無感情に炎の光を反射していた。
化け物は一見すると巨大な蟻のようにも見えたが、その体には黒い体毛が生えており、細部も異なる点が多かった。
傭兵達は化け物を恐れとともに見つめていた。
アシュロン自身、このような生き物の話は聞いたことがなかった。しかし、世界は広く、深い。いまだに人間が出会ったこともない、この化け物のような生き物も、どこかに存在するのだろうか。いや、夢でなければ現に目の前に存在した。
アシュロンは化け物がいつ飛び掛って来ても良いように、円盾を掴む左手に握力を込めた。しかし、アシュロンの予想とは異なり、化け物は傭兵達に近づこうとしなかった。
化け物はどうやら焚き火の炎を嫌がっているようで、張り巡らされた鳴り子の外から、遠巻きに傭兵達を観察し続けた。その感情を映し出さない冷たい眼が、若い傭兵達を竦み上がらせた。
アシュロンはこの化け物が立ち去ってくれるように祈った。
出来ればこんな慮外の化け物は相手にしたくない。アシュロンはそう思いながら、じっと耐えていた。
経験を積んだ傭兵だけであれば、その恐怖に打ち勝って、化け物が立ち去るまで耐えることが出来たかもしれない。
しかし、一人の若い傭兵が、恐怖の余り、短絡的な思考によって、化け物を追い払おうとした。
若い傭兵は、地面に転がっていた木槍を担ぎ上げて投擲の姿勢をとった。アシュロンやリーティアがその様子に気づいていれば、止めることが出来ただろう。しかし、両者共に目の前の化け物から視線を外す余裕などなかった。
アシュロンの後方から、若い傭兵の投げた木槍が化け物に投げ放たれた。
アシュロンは目の前を飛んでいく木槍に気がつくと、舌打ちをして毒づいた。
化け物は飛んでくる木槍を無感情に見つめたまま、それを払いのけることさえしなかった。そして、木槍が化け物の体に吸い込まれるかと思われたその時、予想外に硬い外皮がその木槍を弾いた。
表面上は、化け物に変化は見られなかった、しかし。
アシュロンは突然、強烈な耳鳴りに襲われた。他の者達も同じだったようで、耐え切れずに耳を塞ぐ者もいた。
それが、合図だったのだろうか、化け物が傭兵達に近づき始めた。もはや、化け物は、焚き火の炎など気にしていないように、ゆっくりと歩みを進めた。
周囲に張り巡らされた鳴り子が化け物に引っかかって、不吉に鳴り響いた。そして、化け物によって糸が引きちぎられると、鳴り子は地面でぶつかって最後に乾いた連続音を鳴らした。
この状況になって、アシュロンは覚悟を決めた。やるしかない、と。
「俺が正面を受け持つ! お前らは囲め!」
アシュロンの号令が響き渡ると、若い傭兵達が武器を手に、化け物を囲んだ。誰一人逃げ出す者がいなかった点は、誇っても良いだろう。
「正面がお前だけじゃ荷が重そうだな」
リーティアは大きな焚き火の近くに蹲る幼児を一瞥すると、曲刀を構えて、アシュロンの横に並んだ。
化け物はその巨体のせいなのだろうか、全体的な動きは鈍かった。しかし、前足だけは例外で、その速度は速く、特に、力は恐るべきものだった。
化け物がアシュロンに向かって前足を振るった。達人の振るう剣速に比べれば、速度は捕らえきれない程ではない。
アシュロンは化け物の前足を円盾で防いだ。そして、アシュロンはその重い一撃に体を吹き飛ばされそうになった。速度はそれほどでもないが、まるで鉄塊を叩き付けられたような衝撃だった。
見れば、円盾の前部はその威力を証明するかのように、凹んでいた。
アシュロンの足元では、衝撃を逃がしたためか、踵の部分に土が盛り上がっていた。
「受けるな。押しつぶされるぞ」
アシュロンはリーティアに注意を促した。
リーティアは端から、そのつもりはないとでも言いたげな様子で、化け物の体を曲刀で切り付けた。
曲刀は切ることと突くことに特化した作りの武器だ。直剣のように叩きつける訳ではない。対象を切る為に、衝撃の瞬間、曲刀を引く必要がある。リーティアはそれを息をする様に行った。それは長い修練の結果会得した技量だった。
しかし、化け物の外皮は硬く、僅かな傷をつけることしか出来なかった。
「こいつくそみたいに硬いぞ。刃が毀れそうだ」
リーティアは一撃を終えると、後ろ飛びにして、化け物との距離を空けた。
「横も硬いッス。木槍が折れちまうッス」
リーティアだけではなく、化け物の側面で木槍を突き出していたカリヤが悲痛な声を上げた。
若い傭兵達に腹部を突かれるのを嫌ったのか、化け物が向きを変えようとした。
しかし、アシュロンはそれを許すつもりは毛頭なかった。アシュロンは大きく息を吐き出すようにして、注意の逸れた化け物の前面にフレイルを叩き付けた。アシュロンの手には金属鎧でも殴ったかのような硬質な感触が伝わった。
化け物の外皮には大きな凹みがついた。しかし、どれほどの損害を受けているのか、化け物の様子からは分からない。
化け物は若い傭兵達に木槍で突かれて、煩わしそうにしていた。しかし、目の前のアシュロンが一番厄介な存在であると気がついたのか、怪しく光る二色の瞳でアシュロンを見つめた。
断続的に鳴らされる口顎の音が、嫌にアシュロンの耳についた。
状況は膠着していた。いや、少しずつ悪くなっていたかもしれない。
アシュロンとて人間だ。致命傷は負わないまでも、化け物の前面に立ち、繰り出される前足を相手取り続けては、疲労の蓄積は著しいものだった。
アシュロンは既に肩で息をしていた。肉体的な疲労だけではない。化け物の巨体を前に踏みとどまり続けるという精神的な疲労も重なっていた。
アシュロンが倒れれば、この化け物の正面に対峙できる者はいないだろう。アシュロンが何とか倒されずにいるのも、リーティアの補助があってこそだ。
リーティア一人でも、極短い時間であれ持たせることが出来るかもしれないが、避けきれなくなれば、それが最後だ。つまり、アシュロンが倒れるまえに、この化け物を打ち倒すしかなかった。
アシュロンが浅い息で呼吸を整えようとしていると、化け物の前足が再度振り払われた。
アシュロンは避けれないことを悟って、円盾を構えて歯を食いしばった。
鉄門に破城槌でも叩き付けたかのような轟音が響いた。それと同時に、アシュロンの左手小指が小さく亀裂音を鳴らした。
アシュロンは次第に強まっていく小指の鈍痛を感じながら、それでも、渾身の力でフレイルを叩き付けた。
化け物の外皮は当初の滑らかな曲線ではなく、何度も叩きつけられたためか、酷く凸凹になっていた。
「どうすりゃいい。どうすりゃ殺せるんだ」
喋る余裕もないアシュロンの近くで、リーティアが焦りを滲ませていた。
化け物の影になってアシュロンには見えなかったが、若い傭兵達も疲れ果てていた。直剣を叩きつけても、木槍で突いても化け物はびくともしなかった。既に折れた木槍の残骸が化け物の周囲に散らばっていた。
カリヤが手にした最後の木槍を握りながら、周囲に視線を泳がせていた。そして、何事か決意すると化け物から離れて走り出した。
アシュロンはその様子をちらと見咎めて、カリヤが逃げ出したと思った。戦って勝てない相手から逃げ出すことも、生き残るためには必要なことだ。臆病者のそしりを受けても生きていればこそなのかもしれない。
アシュロンはカリヤに対して抗議の声を上げさえしなかった。そんな余裕はない。今しも、化け物の前足が迫っていたのだ。
アシュロンは響く小指の鈍痛に顔を顰めながらも、円盾を握り締めた。この尋常でない戦いに付き合ってくれた円盾も、すでに大きく歪んでいた。
アシュロンは片側の前足をなんとか回避したものの、もう一方は避けられない。体力が十全であれば、避けられただろうが、疲労がそれを妨げた。
アシュロンは再度、円盾で受けようとした。しかし、小指の骨折のせいか握力が足りなかった。衝撃を受け切れなかった円盾は、大きくアシュロンの手から弾かれると、宙を舞って地面に落ちた。
アシュロンは、ここに来て、腕に括り付けるタイプの盾を選ばなかったことを後悔した。それは余りにも理不尽な感情だったが、状況がアシュロンにそのような不可思議な思考をさせた。
アシュロンの思考とは別に、化け物は戸惑いも見せず前足でアシュロンの胸元をなぎ払おうとした。
アシュロンは咄嗟に左手でその前足を掴んだ。
刺々しく、硬い前足は、いったい何で出来ているのだろう。
金属のような冷たさではなく、生き物の持つ温かさを、一瞬アシュロンは手の平に感じた気がした。それは錯覚だったかもしれない。化け物の前足の無数に突起よって、アシュロンの皮膚が裂け、滲み出た血潮の温かさを感じただけだったのだろうか。
リーティアが化け物の注意を逸らせようと、曲刀を何度も繰り出していたが、化け物は気にした様子も無く、アシュロンに体重をかけた。
化け物は残った前足で、さらにアシュロンの首元を狙った。
アシュロンは咄嗟に手にしていたフレイルを手放すと、繰り出された前足を右手で掴んだ。
まるで、大人が子供に圧し掛かるような格好で、化け物がアシュロンを押しつぶそうとした。
アシュロンの腕が悲鳴を上げていた。いや、腕だけではない、アシュロンの背筋は今にも張り裂けそうで、背骨は重圧に耐えかねて軋んでいた。
通常、大きな力を出す時は息を吐き出す。さらに大きな力を必要とするなら大声をだす。それらは体に過度な負担をかけないようにするためだ。しかし、それですら足りない時、人はどうするのか。息を止めて歯を食いしばり、腹の底に力を入れるのだ。
アシュロンは自分の歯を己の力で噛み砕かんばかりに噛み締めて、化け物の力に耐えた。
ぎりぎりと圧し掛かる化け物の、光の無い眼が、自らの勝利を確信したかのようにきらめいた。
しかし、アシュロンは耐えた。アシュロンの顔は高潮し、額には血管が浮き上がっていたが、それでも耐えた。
数分に渡る力のせめぎ合いの後、終にアシュロンの筋肉が限界を迎えた。意志の力ではどうにもならない肉体の限界だった。
リーティア同様、若い傭兵達も懸命に直剣を叩き付けていたが、化け物はアシュロンを押しつぶすことにのみ注力していた。
アシュロンが短く呼吸を継ぐたびに、少しづつ、少しづつ、アシュロンは押し込まれていった。
しかし、化け物がアシュロンにのみ注力して、圧し掛かるように頭部を下げたのを、リーティアは見逃さなかった。リーティアは飛び掛りざま、曲刀で化け物の頭部、特に垂れ下がった触角らしき箇所に切り付けた。
リーティアの狙い過たず、化け物の触覚は根元近くから切り取られた。
それまで、どれだけ殴りつけたり、切りつけても痛痒を感じている様を見せなかった化け物が、大きく仰け反った。
アシュロンは凄まじい重圧から開放され、そのまま地面に仰向けに倒れた。そして、強烈な耳鳴りを再度感じた。どうやら、この耳鳴りの原因は化け物が発生させているらしい。
アシュロンは頭の痛くなりそうな耳鳴りよりも、自分の手足に力が入らないことに焦った。一時的とは言え、余りに過剰な負荷をかけられたアシュロンの体が、意思に反して動くことすら拒否しているようだった。
アシュロンは辛うじて動く首を動かして、化け物に目を向けた。化け物はどうやら痛みに悶えているようだが、アシュロン達がこれだけ戦って、たった一本の触覚らしき部位しか切り落としていない。
アシュロンが諦めかけたそのとき、アシュロンの目の前を何かが横切った。それが何だったのかアシュロンには最初分からなかった。
周囲に陶器の割れる音と液体が飛び散る音が響いた。そして、カリヤが雄たけびと共に、地面に倒れたアシュロンを踏み越えていった。
化け物は頭部を中心に飛び散った液体をどうにか自分の体から取り除こうと、前足で激しく頭部を擦った。飛び散った液体は熱せられて溶けたラードだった。
熱せられたラードは化け物の体表を火傷させ、さらに化け物を覆う体毛に染みこんでいった。
雄たけびを上げたカリヤの手には、木槍が握られていた。そして、その先端には油染みた布が巻きつけられ、大きな炎が燃えていた。カリヤはよほど慌てていたのだろうか、滴る油がカリヤの手元まで垂れており、今にも木槍自体が燃え上がりそうだった。
カリヤが炎の槍を化け物に突き出した。
動物性の油や植物性の油は石油から分留された油とは異なり、それ単体では簡単に燃え上がらない。しかし、予め熱せられた油が、それ自体燃えやすい生物の体毛に絡み合った場合どうなるか。
その結果はカリヤが突き出した槍の先端から、炎が瞬く間に、化け物に燃え移ったことを見れば明らかだった。
アシュロンは燃え上がる化け物を見て、最初から炎を利用する戦い方が出来ていれば、幾分ましに戦えたのではないかと思った。
しかし、このことでアシュロンを責めるのは酷だろう。異様な状況で異形に相対した際に、咄嗟の機転を働かせることは恐ろしく難しい。誰しもが狭まった視野に陥り、慣れ親しんだ自らの力に頼りがちだ。
アシュロンもリーティアも己の力を信じて生き残ってきた。しかし、経験の浅いカリヤはまだ自分の力を信じ切っていない。もちろんカリヤが機転の利く人間であることも確かだ。しかし、力がないことが創意と工夫によって強さに繋がることもある。というより、それこそが他の生き物にない人間の持つ強さだと言えるのかも知れない。
炎の勢いが増すにつれて、酷い耳鳴りが化け物を囲む傭兵達を襲った。それは、化け物が上げる断末魔だった。
カリヤは炎に悶える化け物に幾度も槍を突き出した。槍自体に炎が燃え広がって、カリヤ自身の手を焼こうとも、カリヤは突き出すことを止めなかった。
アシュロンはカリヤの所作を見つめながら、一時でもカリヤが逃げ出したと思った自分を恥じた。
「もう槍を離せ!」
リーティアが怒鳴ると、カリヤはようやく木槍を手放した。木槍を握っていた手は酷く焼け爛れていた。
化け物は炎に包まれて暴れ出すかに思われたが、地面に大きな音を立てて倒れた。無意味に思われた傭兵達の戦いも、どうやら化け物にある程度の損害を与えていたようだ。
しばらくの間、傭兵達は言葉もなく、炎を上げて燃える化け物を見つめていた。
煙を上げて燃え上がる化け物からは、いつしか、香ばしい海老の焼き物のような香りが漂い始めた。
「こいつ、うまそうな海老みたいな匂いがしやがる」
アシュロンは鼻をくすぐる場違いな匂いに、大口を開けて笑い出した。今だけは体の痛みを感じていないかのようだった。
アシュロンに釣られるように、全員が笑い出した。
アシュロンの力なくば、化け物を引き付けられなかっただろう。若い傭兵達の勇気なくば、アシュロンは容易く打ち負けていたであろう。リーティアの技なくば、アシュロンは最後に押し潰されていたであろう。そして、カリヤの機転なくば、全員が屍を晒していたでだろう。
燃え上がる化け物の残骸を囲んで傭兵達の笑い声が夜空に響き渡った。
傭兵団の執務室で、ノモスの前にアシュロンとリーティアが並び立っていた。
ノモスの執務室は相変わらず埃っぽい。
アシュロンは部屋を眺め回しながら、人間の住める場所じゃないと、心の中で嘆息した。そのアシュロンの腕には包帯が巻かれ、小指には添え木が当てられ、見るからに痛々しい有様だった。
二人を前にしたノモスは、いつにも増して困ったような表情を浮かべていた。
「本当なのか?」
ノモスが不審げな表情で言葉を口にした。
「私らが嘘ついてどうなるんだい?村はそのままだから、人をやればわかることだろうに」
リーティアが呆れたように声を上げた。
二人が村での顛末をノモスに説明した結果が、現在の状況だった。
確かに、アシュロンでさえ、今思い返しても夢だったのではないかと思うこともある。しかし、腕に残る痛みは本物だった。
「それで、連れてきた子供はどうした?」
ノモスがどうにか話を進めようと、二人の言葉が真実である前提で質問した。
「キリイタの孤児院に預けた。なにか問題でもあるのか?」
アシュロンは不思議そうな表情をした。
「幼児とは言え証人だからな。依頼報告を上げるにしても、証人の有り無しで相手の印象も相当変わってくるだろうからな」
ノモスが悩ましげな表情を浮かべた。
村で助けた幼児は今だ言葉を発しない。五、六才ぐらいなので喋れない年齢ではないはずだった。精神的な衝撃が強すぎて、言葉を失ってしまったのだろうか。
「報告は団長の仕事だろ?どうにかうまいことやってくれよ」
リーティアは幼児を案じたのか、細かいことはノモスに任せる魂胆らしかった。
アシュロンとリーティアはそれで仕事は終わったとでもいった様子で、早々に部屋を後にした。
残されたノモスは椅子に深く腰掛けると、酒で喉を潤わせた。ノモスはぼんやりと天井を見つめた。
「化け物ねえ……」
ノモスは誰に聞かせるでもなく呟いた。
「俺は化け物なんかより、人間の方がよっぽど恐ろしいよ」
埃っぽい部屋にノモスの声だけが空しく響いた。
その年の冬、都市キリイタでは、アシュロン達の活躍が一時、傭兵達の間で噂された。しかし、化け物の新たな出没情報や続報がないことから、噂は次第に立ち消えていった。
傭兵の中には、若いカリヤ達が話の発信源だったこともあって、ほら話だと決め付ける者もいた。アシュロンとリーティアが積極的に話を広めなかったことも、ほら話だとされる要因の一つだった。
人々は見たことも聞いたことも無い化け物の話よりも、間近に迫るであろう大きな戦いに興味を移していった。
今年の冬は余りにも戦が少ない。それは傭兵の誰しもが実感していることだった。
本来、半島地域の冬は戦いの頻度が多くなる、もしくは戦いが激しくなる季節だった。
半島の、特に独立派の兵達は臨時徴兵される者ばかりである。その多くは農業従事者であり、農繁期に徴兵など基本的にできない。一部の野菜を覗けば、冬は大部分の人間にとって農閑期となる。それは、つまるところ冬ならば徴兵が行い易くなるということだった。
半島地域の気候についても、半島の冬は大陸の北部のように、雪が降るような寒さにはならない。
農閑期による兵力の充実と比較的穏やかな気候の要素が合わさって、例年、半島の冬は血なまぐさく、賑やかになる。
しかし、今年は例年とは異なる様相を呈していた。
静かで、穏やかな冬。半島に住まう誰もが、それが嵐の前の静けさであると理解していた。




