第二十二話
アシュロンは、真夜中に目を覚ました。
元は物置小屋だったのだろうか、多少黴臭い小屋だったが、仮の住まいとして、善意で提供されたにしては、綺麗な小屋だった。
地面には数枚の厚手の布が寝所として敷かれていた。その上で眠っていたアシュロンは、隣に寝ているはずのニフィムがいないことに気がついた。
アシュロンは、ニフィムが小用でも足しにいったのかと思った。しかし、しばらくしても、ニフィムが戻ってくる気配がないことを知ると、おもむろに立ち上がった。
ワルド湖南岸の村落は、帝国の大都市と異なり、日が落ちれば明かり一つない。おぼろげに道を照らすのは、月から放たれる優しい光だけだった。
アシュロンが小屋の外にでると、遠く、微かに歌声が響いていた。その歌声は、女にしては低く、男にしては高い、ボーイ・ソプラノといわれる音域の歌声だった。
アシュロンは歌声を頼りに、湖に向かって歩みを進めた。
歌は何時までも続いていた。それは、優しく赤子に語り掛けるような、子守唄のような、穏やかな旋律を奏でていた。帝国の言葉ではないのか、その意味まではアシュロンには分からなかったが、聞いていて、気持ちの良い歌だった。
湖のほとり、波打ち際で、ニフィムが歌っていた。アシュロンはニフィムに気がつくと、湖の砂浜に静かに腰を下ろした。
月明かりに照らされたニフィムは、湖の波打ち際で、歌いながら踊っていた。それは帝国の祭りで踊るような、胸の高鳴るリズムに乗った舞踊ではない。緩急がはっきりした、独特な舞だった。
湖の波が寄せては返す。そのたびにニフィムの裸足を濡らした。さざ波の奏でる波音すら、歌の一部であるかのようだった。
舞とともに歌うニフィムは、アシュロンの座っている砂浜にも顔を向けたが、アシュロンに気づく様子は無く、一身に歌舞を続けた。
ニフィムの額には大粒の汗が浮いており、舞の動きに合わせて、湖に散った。
果てしなく続くかと思われた歌舞も、とうとう終わりのようだった。ニフィムの歌声が止むと、ニフィムは両腕で、頭上に大きく円を描いた。そして、拳をすり合わせた腕を胸元まで下ろし、水に濡れるのも構わず、肩膝立ちになった。
最後に、ニフィムは湖に静かに頭を垂れた。
アシュロンは気の抜けた顔をしながら、ニフィムの行いを聞き眺めていたが、ゆっくりと立ち上がった。そして、尻についた砂を払うと、ニフィムに近づいて、その肩を叩いた。
アシュロンに肩を叩かれたニフィムは、素っ頓狂な声を上げて、膝立ちの状態から一気に飛び上がった。
「びっくりしました!」
ニフィムが珍しく怒っていた。幼い顔つきは、怒りの表情もどこか可愛げがあった。
「そんなに驚くとは思わなかった。すまん」
アシュロンは頭を下げて許しを乞うた。
「それにもしても、上手なもんだったよ」
アシュロンはニフィムの歌舞に対する感想を述べた。アシュロンは歌や踊りについて、教養があるわけではないが、ニフィムの歌舞は確かに、アシュロンの心を揺さぶった。
「許してあげます」
ニフィムはどうやら機嫌を取り戻してくれたようで、アシュロン褒め言葉に照れ笑いをした。
ニフィムは先ほどあれだけ踊りまわっていたのにも関わらず、大きな欠伸をして、眠たそうだ。
「どうしてこんな真夜中に抜け出したんだ。心配したんだぞ」
今度はアシュロンがニフィムの無断での行動を注意した。
「ごめんなさい。でも、声聞いたから」
ニフィムが申し訳なさそうに謝罪した。
「声?」
「はい。帝国には不思議な声が一杯ですね。ここも、そしてアシュロンさんも」
「俺の声?そんなにおかしいか?」
アシュロンの声はその体格に見合った野太い声だ。しかし、取り立てておかしな声という分けではなかった。
アシュロンが「あ、あー」と自分の声を確かめるように発声した。
ニフィムは微かに笑うと、腑に落ちない様子のアシュロンを置いて、砂浜を村の方向に向かって歩き出した。
「待て。俺も一緒に行くから」
アシュロンはニフィムの横に並ぶと、その手を繋いだ。
二人が去った後も、湖は絶えずその波を砂浜に寄せていた。いつまでも。そう、いつまでも。




