第二十話
背の高い草が何処までも続く湿原、アシュロン達はその湿原を川沿いに歩いていた。
アシュロン達が現在いる地点は、アルドニア自治領西方の湖沼地帯の外れであった。湖沼地帯は季節によってその様を変化させる。現在は草の生い茂った湿原であるが、このまま秋、そして冬を越え、雪解けの季節になれば、さらに西方の厳雪山脈から大量の水が湿原一帯に注ぎ込まれる。その水は、湿原を泥地に変容させ、各地に小さな湖を作り出すため、その特徴から湖沼地帯と呼ばれていた。
アシュロンは人里に出るため、南の帝国領に直進するのではなく、川沿いに西方向に向かって歩いていた。アシュロンは地理に詳しい分けではないが、湖沼地帯に存在する河川は、その全てがワルド湖に繋がっているはずだった。そして、ワルド湖には小さいながら帝国の入植地がある。
帝国はその性質から、街道を敷設できない場所には積極的に進出しようとしない。西方の砂漠しかり、厳雪山脈しかり、そして、この湖沼地帯も同じだった。
かつて、帝国が湖沼地帯の季節による変容を正確に把握していなかった頃、この地域を北部辺境に抜ける街道が敷設されたことがあった。
しかし、一年の後に、敷設した街道の全てが泥に飲み込まれたことを知った帝国は、落胆とともに湖沼地帯への進出を断念した。
今では、帝国が各地に用いた石造りの街道ではなく、泥濘対策を施された木造の浮き街道が、緊急時の連絡経路として残されているだけで、交通の便が非常に悪い土地だった。
そのような土地にも住み着く人間がいることに、人間の逞しさの一端感じられる。
アシュロンとニフィム、二人だけの時間が過ぎていく。
湿原に大型の獣が存在しなかったことは、二人にとって幸いだった。二人が目にしたのは、精々が野鼠の類の小型の獣で、それも道中の食事になった。
ニフィムの小さな体では、通常、アシュロンの健脚にはついてこれないだろう。しかし、アシュロンとて怪我のせいで万全ではなかった。アシュロンの右手には、自分の体を支えるために、潅木の杖が握られていた。そのため、二人の歩く速度は自然とゆったりとしたものになった。
湿原は、当初こそ、代わり映えがしない景色が続いていたが、注意して見れば、生命の息吹があるゆる場所に感じられた。
ニフィムが川沿いのに咲いていた黄色い花を摘むと、アシュロンの耳の横に挿した。
アシュロンの体躯と風貌からは、滑稽にしかならなかったが、その姿を目にするのは花を挿したニフィムだけなのだから、何の問題もない。
ニフィムは次いで、赤い花を自分の耳の横に挿した。
大人になりかけの少年は、その中性的な容姿も相まって、可憐な姿だった。
その姿は、一部の人間には絶大な効果を及ぼすに違いない。ただし、アシュロンは子供らしいな、としか思わなかったが。
ニフィムは川沿いを歩きながら周囲に目を凝らしていた。
そして、草地にしゃがみこむと、何かを捕まえた。
じゃがみこんだニフィムの手には、飛蝗が捕まえられていた。
「そんなもの捕まえてどうするんだ?」
アシュロンが問いかけた。
「これ焼いたらおいしいですよ」
ニフィムの手の中でジタバタと暴れる飛蝗は、己の運命の分岐に立っていた。
アシュロンは、ニフィムがこんがりと焼けた飛蝗を、頭から齧る様を想像した。
しかし、アシュロンが、さすがにそれは止めてくれと伝えた。
帝国の文化圏では、昆虫食は一般的ではないのだ。
ニフィムは残念そうな顔をしたが、手にしていた飛蝗を草地に放った。
アシュロンはここのところ続く食事に加えて、その行動を見て、ニフィムとの文化の違いを改めて実感した。
数日の旅を経て、二人はとうとう人里にたどり着くことができた。
アシュロンの見つけた人間は、川に漁仕掛けを施している最中で、川沿いを東から歩いてきたアシュロン達に気がつくと、怪訝な表情で二人を眺めた。
「あんれー。どっからきなすった?」
漁仕掛けを施していた男は、帝国の公用語を話していたが、非常に訛りのきつい言葉だった。
男から見れば、薄汚れた衣服を身にまとった二人は、明らかに不審者だった。アシュロン一人だけだったら男は逃げ出していたかもしれない。しかし、少年のニフィムが付き従っていたために、その警戒を和らげた。
アシュロンが男に事情を説明すると、男は「そりゃ、災難だったの」と言葉を紡いで、アシュロン達をワルド湖の南岸にある村落まで連れて行ってくれた。
ワルド湖の南岸には、草葺の家屋が、小さな村落を形成していた。
アシュロン達は、村の中でも、比較的大きな家屋に案内された。そこで二人を迎えてくれたのは、白髪交じりの初老の女だった。
「話は聞いたでな。えらい目におうたもんだ」
初老の女は二人をテーブルに座らせると、湯冷ましの水をコップに注ぎ、二人の前に置いた。
「それにしても奴隷がなあ、反乱とはなあ。ここは僻地だで、そったら便りが届くのは、ことが終わってからが多いもんで」
初老の女はその気性を表すかのように、のんびりとした口調でアシュロン達に語った。
「なあんもない村だども、好きなだけいてくれてええだよ。困ったときはお互いさまよ」
初老の女の示した好意にアシュロンとニフィムが顔を綻ばせた。
「この村に、役人か商人はいるか?」
「いんや。おらんね」
アシュロンはガルやナーニェなど、はぐれてしまった仲間達が気になっていた。彼らはあの橋を渡れただろうか、と。
そして、護衛の二人か陸運商会の二人が無事であるならば、軍や商会に連絡を届ければ、自分達の安否を伝えることができるだろう。
そのための連絡手段として、アシュロンは役人や商人が村に滞在しているかを聞いたのだ。
「だども、明日辺りに行商の兄ちゃんが来るはずだ」
初老の女は二人を安心させるように、優しげな表情を見せた。
アシュロンは村の広場にある木材に腰掛けてた。汚れて擦り切れた服は初老の女、どうやら村長らしい、に預けてある。村人と同じような服装をしたアシュロンは、一見すると村に溶け込んでいるように見えた。
服は、帝国で一般的な羊毛とは異なり、どうやら亜麻の一種で出来ているようで、袖を通すような着付けではなく、布を体に巻くような着付けのしかただった。
アシュロンの隣には、ニフィムも同じ服装で腰掛けていた。
アシュロンが周囲を見渡すと、村の広場では女達が忙しなく働いていた。
魚を捌いて干物にしている者。塩漬けにして樽に詰めているもの。籠一杯の二枚貝から身を救い出して鍋に放り込む者。皆がそれぞれの仕事に精を出していた。
早朝に湖で漁を終えた一部の男達は、昼前だというのに酒盛りを始めていた。
アシュロン達は長閑な風景を眺めながら、一時、不安を忘れていた。
そんなアシュロン達を物陰から見つめる集団がいた。
まだ、仕事の手伝いをするには小さすぎる子供達だ。
ある種の遊びなのだろうか、頻りにアシュロン達の様子を伺っては、アシュロンが見つめ返すと笑いながらと逃げていく。
母親達から、何か言い含められているのだろう、一定の距離を保って物珍しそうにしていた。
子供というのは好奇心の塊だ。だめと言われても、試してみたくなってしまう。
しばらくすると、そんな子供達の中から、一番年嵩の少年がおずおずと近づいてきた。ニフィムと同じ年頃だろうか、雰囲気としてはガキ大将といった感じだ。
少年はアシュロン達に近づくと、ポケットから小粒の赤い果物を無言で差し出した。
アシュロンとニフィムが受け取ると、少年は身振りで食べる動作をしてみせる、食べろということだろうか。
ニフィムは用心深そうに果物を調べていた。
アシュロンは好意?に甘えて、果物を齧った。果物の皮は分厚く、種は大きい。果肉自体はやわらかいが非常に少ない。
しかし、それよりも………。
「すっぱっ!」
アシュロンが果物の酸っぱさに驚いて声を挙げると、少年は笑いながら逃げ出していった。子供達も皆、笑いながら逃げていく。
アシュロンは悪戯をしかけられはしたものの、悪い気はしなかった。ああいった年頃の少年は往々にしてこんなものだ。
それに、アシュロンが説教するまでもなく、少年は、アシュロンの声に気がついた母親に、耳を引っ張られながら消えていった。
一方ニフィムは、悪戯を仕掛けられたことに、頬を膨らませて憤慨していた。
昼前になると、村長の話していた行商の青年が村を訪れた。朴訥な雰囲気をその身にまとう青年は、アシュロンの頼みを快く引き受けてくれた。
「陸運商会でしたら、私の知り合いもいますよ。すぐに連絡できるでしょう」
青年は人好きのする笑顔を見せた。
「どのくらいで届く?」
「正確にはわかりませんが、商会に伝えるだけなら五日もあれば十分ですね」
アシュロンが一仕事終えた安堵とともに、大きく息を吸い込むと、後ろから声がかけられた。
「昼餉の支度ができたでな。あんちゃんらもおいでや」
中年の村人がアシュロン達を食事に誘ってくれた。もちろん、行商の青年も一緒だ。
村の広場には大なべが据えられており、鍋には魚や貝がふんだんに煮込まれていた。それは潮汁のようなものだった。
ワルド湖はどういった自然の働きなのか、塩水湖だった。それも、極端に塩分濃度が高いわけでもなく、海水とほとんど同じ濃度の湖だった。そして、豊富な栄養は、湖に住む多くの生物に、恵みとなって行き渡っていた。
しかし、そのかわり、季節のめぐりによって流れ出す湖の水は、周囲を耕作に適さない土地にしていた。
アシュロンはどんぶりに盛られた汁を啜った。魚介の旨みが凝縮された汁を口に含むと、その芳醇な香りが、アシュロンの鼻から抜けていった。その味はアシュロンに遠い故郷を思い出させた。
アシュロンが思い出に耽っていると、隣のニフィムがぎこちない様子で汁を啜っていた。どうやら、磯の香りが強すぎて、ニフィムの口には合わないようだった。
「あんちゃんら、これはいけるか?」
村の男が、酒のつまみにしていた小鉢を差し出した。中身は生臭い匂いを放つ、赤茶色の何かだった。
ニフィムがぶるぶると首を振るって、顔を背けた。
しかし、アシュロンは指でそれを摘むと口に入れた。とても塩辛い。だが、それに伴って何とも言えぬ滋味が舌にひろがった。アシュロンが口にした食べ物は、魚の腸を塩漬けにした珍味だった。
アシュロンはその味に、酒が欲しくなった。
ニフィムはその様子を有り得ないといった表情で見ていた。
アシュロンが躊躇わずに食べたことに、村人達も驚いた。
「へー。よその人間は大抵が嫌がるもんだがね」
「あんたの出身は海辺の漁村かなんかかね?」
村人達の投げかけた問いに、アシュロンは「まあな」といって明瞭な回答を避けた。
「なんにせよ、これを食うたら酒じゃろ」
村人の一人が酒盃をアシュロンに差し出した。酒盃には、白く濁った液体が満たされており、酒精の匂いがした。
村人達の「遠慮せんと」「ほれほれ」などといった声に押されて、アシュロンは酒盃を傾けた。その酒の味は甘く、どろりとしていた。
アシュロンは甘さに対して、思いのほか強い酒精に咽そうになった。
村人達はその様子を見て笑った。




