第十九話
真っ白な空間で、輝く甲冑に身を包んだ騎士が、アシュロンの目の前に立っていた。その傍らには幼い少女が寄り添っている。
少女の顔はぼやけて見えない。それでも、アシュロンは彼らに対してある種の暖かさを感じた。
良く見れば、騎士の甲冑には、脇腹の部分に酷く抉られたような傷がついていた。かつてアシュロンが傷を負った部位と同じ箇所だった。
騎士が少女の背を促すように押すと、少女は戸惑いながらもアシュロンに歩み寄ってきた。
一瞬、アシュロンの意識が途切れ、再びアシュロンが気がつくと、白い空間に横たえられていた。
アシュロンは体中から体温が奪われるかのような寒さを感じた。
アシュロンを覗きこむように、幼い少女がアシュロンの顔の横にしゃがみ込んだ。その後ろには甲冑の騎士が立っていた。
これだけ近くにいるのに、アシュロンの目には、少女の顔は霞がかかったようにはっきりしない。
少女の手がアシュロンの額に触れた。その手は生きた人間のような温かみを感じさせず、まるで死人のような冷たさだった。
それでも、その手には労りの感情が込められていた。
アシュロンは自分の意識に何かが入り込むのを感じた。
硬く、冷たく、異質ななにかが。
だが、アシュロンは不快さを感じなかった。
少女の触れた冷たい手の平から、次第にアシュロンの体全体に熱が行き渡り始めた。それは不思議な感覚だった。
少女は満足したのか、しばらくしてその手を離した。
アシュロンは眼に力を込めて、少女の顔を見ようとした。
しかし、次第に、少女の顔の輪郭がニフィムの顔に変化していった。同時に、白い空間は景色を取り戻し、太陽の光が降り注いだ。
ニフィムがアシュロンの顔を覗きこんでいた。
「起きましたね」
アシュロンの瞳にニフィムの安堵するような表情が写った。
鬱蒼と茂る背の高い草がアシュロンとニフィムの周囲に広がっていた。
その湿原に、ぽつりと根を据えた低木の洞。そこにアシュロンは横たえられていた。低木からほど近い場所には、川が緩やかに流れていた。
川岸からは、ニフィムがアシュロンを引き摺りでもしたのだろうか、砂地が一条の線を描いていた。
アシュロンは体を起こそうとして、右足に走る激痛に呻いた。見れば、右足は添え木で固定されていた。どうやら、骨が折れているらしい。
「俺はどのくらい眠ってたんだ?」
アシュロンは崖を飛び降りた後、川の岩につかえていた木材に捕まったことまでは記憶していた。
「三日です」
ニフィムは指折り数えてアシュロンに教えた。
「三日も!それまで大丈夫だったのか?というより、ニフィムは怪我してないのか?」
アシュロンはニフィムの全身を見回した。
「僕は大丈夫でした。アシュロンさんが守ってくれたんですね」
ニフィムの衣服は汚れていたものの、怪我はしていないようだった。
「それにしても三日もどうやって?他に誰かいるのか?食べ物は?」
アシュロンが心配そうにニフィムに問いただした。
ニフィムは周囲を指差した。
二人の周囲には、なにかの種や派手な色をした果実が麻布の上に並べられ、低木の枝には小さな肉が干されていた。
「ニフィムがこれを?」
アシュロンの顔に疑問が浮かんだ。
「そうですよ。教わりました」
ニフィムの言葉を聞いて、アシュロンはニフィムについての評価を改めた。アシュロンはニフィムが北方異民族の中で、特別大事に育てられていた、箱入り息子の類だと考えていた。しかし、僻地でのニフィムの生存能力は、アシュロンの予想を上回るものだった。
「これもニフィムが?」
アシュロンは痛みを堪えて、右足に手を伸ばそうとして、痛みに呻いた。
「こうしないと足が曲がってくっついちゃうですよ」
ニフィムは部族のメディスンマンにでも教えを受けたのだろうか、骨折に際しての最低限の応急処置を施していた。
「そうか。助かったのか」
アシュロンは自分達がとりあえず窮地を脱したことを知り、痛みも忘れて笑った。
アシュロンは賭けに勝ったのだ。
湿原にぽつりと立つ低木。低木は高さがないのに、異様に幹が太く、見慣れない形の葉を傘のように広げていた。
そして、湿原のそこらじゅうからは、低い牛の鳴くような音が聞こえていた。
夕闇が迫る中、アシュロンは腰に添えつけていた袋から火打ち石を取り出し、仕切りに火花を散らしていた。火口は乾燥した枯草だ。
アシュロン達は周囲に木々がないため、川原にある潅木を集めて焚き火を行った。
枯葉が燃え、その炎が潅木に移ると、周囲の夕闇の中、その一帯にだけ新たな太陽が生まれた。
ニフィムは満足に動けないアシュロンに代わって、その焚き火に、枝に挿された小さな肉をかざし始めた。
「小さいからすぐ焼けますよ」
焚き火に照らされたニフィムの顔が、炎の揺らめきに伴って見え隠れした。
しばらくして、肉の焦げる匂いが辺りに漂い始めた。そして、ちりちりと鳴る脂の弾ける音が、周囲の生き物の鳴き声に混じった
はいどうぞ、という言葉と共に、アシュロンは差し出された小さな肉に齧りついた。
アシュロンは鳥か野鼠の肉だろうかと考えた。いや、それにしては生臭く、泥臭い。お世辞にもおいしいとはいえない味のはずだったが、アシュロンは瞬く間に三つ平らげた。
アシュロンとしてはこれでも遠慮したつもりだったが、ニフィムは目を丸くして驚いた。
「沢山たべますね」
ニフィムが笑いながら新しい肉を差し出した。
「ありがとう。このところ腹が減るんだ。今日は特にな。これでも、加減してるんだぞ?」
アシュロンは差し出された肉を手に取り、ニフィムに感謝の言葉を述べると、少しだけ笑った。笑える状況ではないかも知れないが、無言で貪るよりは良いだろう。
アシュロンがこの小さな肉を沢山食べられたのは、低木の枝に幾つもの肉が吊るされているのを確認したからだ。さすがに、アシュロンも食料が困窮している状況で大食いを発揮するつもりはない。現に、果物や木の実には殆ど手を出さなかった。
ふと、思い出したようにアシュロンは胸元を探った。小さな袋を引っ張り出し、そこから大きめな琥珀色の粒を選ぶと、ニフィムに手渡した。
「わあ。これ、あまいやつですね」
ニフィムは琥珀色の粒を受け取ると親指と人差し指でつまんで、アシュロンを透かし見ようとした。しかし、透明度の高くない蜂蜜飴を通しては、人らしき影が映りこむだけだった。
ニフィムは嬉しそうに蜂蜜飴を口に運ぶと、ほっこりとした表情を見せた。
「聞くのを忘れていたが、この肉いったいなんの肉なんだ?野鼠の巣でも見つけたのか?」
アシュロンは新たな肉に齧りつきながら、ニフィムに質問した。
ニフィムは最初、口をもごもごさせながら、首を傾げた。そして、アシュロンに待つようにと身振りで伝えると、焚き火から離れていった。
「おい、遠くに行くなよ」
アシュロンが注意した。
ニフィムは手を振って返事をしたあと、しばらく川原近くでごそごそと身動きした。そして、手に人の頭程ある丸い影を持って、焚き火に帰ってきた。
「これですよ」
ニフィムの差し出された手には、脇を抱えられた大きな蛙が、無様な様相で炎に照らし出されていた。
蛙が、低く響く、牛のような鳴き声で鳴くと、それに釣られて、アシュロンは口角を引きつらせた。
アシュロンは、大蛙の肉を低木の枝に吊るしながら、自分の体が蛙になってしまうのではないかと、馬鹿な想像をしていた。
アシュロンが意識を取り戻してから四日目。
アシュロンがあれだけ食べ尽くしたというのに、大蛙の泣き声は昨日の夜も響いていた。そして、今日もまた、水辺に行けば大蛙達はいくらでもいた。
大蛙達はこれまで天敵がいなかったのか、アシュロン達に気がついても、逃げるそぶりを見せなかった。そして、何処から来るのか、幾らでも沸いて出た。
アシュロンとニフィムはせっせとその大蛙たちを捌いては、低木の枝に吊るしていた。
低木に大量の肉が吊るされている様は、傍目からみれば、なんらかの呪いに見えた。
「これだけあれば人里に出るまで、食べ物の心配はないだろう」
蛙肉に飽き飽きしていたのだろう、アシュロンが苦い顔をしながら、吊るされた蛙肉を見回した。
「足大丈夫ですか?」
ニフィムがアシュロンに心配そうに目を向けた。
アシュロンの右足は鈍く響く鈍痛を発していたが、歩くだけなら問題ない程度まで回復していた。
「歩くだけならな」
「帝国の人は怪我の治りはやいですね」
ニフィムが感心したように、アシュロンの右足を眺めた。ニフィムがアシュロンの比較対象に選んだのは故郷の人々だ。アシュロンと彼らの大きな違いである点に着目した言葉だった。
アシュロンは内心、自身の治癒の早さに異常を感じていた。城塞で受けた傷も数日の内に治った。一度だけならそういうこともあるだろうと納得できるが、二度続けば、気味が悪い。
しかし、アシュロンはニフィムに自分の不安を悟らせないように、表面上は「すごいだろ?」などと冗談めかしていた。
翌朝、準備を整えた二人は低木の近くに立っていた。
アシュロンの背には潅木と葦で造った粗末な背負子が背負われ、ニフィムの背にも同じように粗末な背負子が背負われていた。
背負子には草編みの簡素な袋が幾つも入っており、そのなかには集めた食料が詰め込まれていた。その多くが、アシュロンがここ数日で大嫌いになった、日干しされた蛙肉であった。
水についても、元々アシュロンが携帯していた皮筒に加えて、湿原に原生していた筒状の植物を見つけたことにより、その問題は解消されていた。
「甘いの、ひとつだけもらえますか?」
ニフィムが出発前になって、遠慮がちにアシュロンにお願いをした。
「蜂蜜飴か?食べたいのか?」
アシュロンは胸元を探り、袋を取り出そうとすると、ニフィムが首を横に振った。
「お礼するのです」
ニフィムが当然といった様子であるのに対して、アシュロンの顔には疑問符が浮かんでいた。
アシュロンは、深く考えずに、ニフィムに蜂蜜飴を一粒手渡した。
ニフィムは低木の正面に立って、頭上に、両腕で大きく円を描いた。次いで、その腕を胸元まで下ろし、肩膝立ちになった。
ニフィムは頭を下げて、低木の根元に蜂蜜飴を優しく転がした。
「おまじないか?」
アシュロンがニフィムに問いかけたが、ニフィムは押し黙ったまま、姿勢を崩さなかった。
しばらくしてから、ニフィムは立ち上がった。
「おまじないではないです。お礼です」
アシュロンは異民族の慣習に詳しくないので、深く追求しなかった。
ニフィムは満足げな表情でアシュロンの手を掴むと「行きましょう」と言って、アシュロンの手を引いた。




