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流転の戦士  作者: mituo
戦士と少年
18/40

第十七話

 アシュロンはニフィムを背に負ったまま、渓谷沿いの道を走っていた。街道のように整備された道ではなく、住民の往来によって、自然に踏み固められた類の道だった。アシュロンの周囲には、アシュロン同様、多くの人間が、その荷物さえ放り出して、走っていた。

 その後方からは、武器を手にした集団が、目を血走らせて追いかけていた。彼らは一様に粗末な衣服と小麦色の肌をしていた。


 アシュロンは自分達に降りかかってきた不幸を呪った。

 時折、アシュロンの後ろから悲鳴が聞こえてきた。

 悲鳴が響くたびに、背に負ったニフィムがビクリと震えた。アシュロンは自分の背中越しに、その震えを感じ取った。

 悲鳴は女の声だろうか。しかし、今のアシュロンに、その悲鳴に構うような余裕はなかった。

 体力の劣るものから順に、餌食になっていた。そして、この場にいる人間には、それを助ける余力のある者はいない。

 アシュロンは逃げ惑う者達のほぼ先頭に立っていた。周囲を共に逃げている者は、皆、働き盛りといった年齢の男が大半で、数は少ないが若い女も混じっていた。

 周囲の人間が息も切れ切れになっているのに対して、アシュロンの呼吸は僅かばかりの乱れを見せているだけだった。金棒を手にし、子供一人を背負っていることを考えれば、驚異的な体力だと言えるだろう。

 ニフィムはアシュロンの首に手を回してしがみついており、口を真一文字に結んで、目を瞑っていた。時折、その息遣いがアシュロンの首筋を撫でた。


 アシュロンの頭の中では、ニフィムを励ます言葉がグルグルと回っていたが、今はそれを声にする分の呼吸すら惜しかった。

 この道が何処に続いているのか、アシュロンには検討がつかなかった。どこかの村落にでも続いているのだろうか。それとも。


 また、悲鳴が聞こえた。今度は男の声だった。

 アシュロンが後ろを一瞥した。

 裕福な身なりをした中年の男が、背に剣を受けて転倒していた。切られた傷は、命に達するものではないだろうが、もはやこれ以上走ることは出来ないだろう。逃げられぬことを悟った男は、身に着けていた装飾品を奴隷に差し出して命乞いをした。しかし、奴隷の一人は、男の腕を、差し出された装飾品ごと剣で切り落とすと、その胸を突き刺した。

 奴隷達は血に酔っている、とアシュロンは判断した。

 彼らは最早、理性の箍が外れた獣だった。命乞いはするだけ無駄だろう。


 アシュロンは走る。今はそれしかできない。


 アシュロン達が走っている渓谷沿いの道は、今、右曲がりのカーブに差し掛かっていた。そして、アシュロンがカーブを曲がり切ると、アシュロンの視界が開けた。


 だが、アシュロンの視界の先には、断崖絶壁とその突端に建てられた小さな庵があるだけだった。

 アシュロンが諦めたようにその速度を落とすと、周囲の人間も道の終わりに気付いたのか、歩みを止めた。

 反乱奴隷の集団は、獲物を追い詰めたとでも思ったのだろう。アシュロン達を崖に追い立てるように包囲した。

 若い男が力なく膝をついた。自分達の最後を悟ったのか、周囲の何人かが、息も絶え絶えに嗚咽を漏らした。

 アシュロンは、長い間使われた痕跡のない、小さな庵を見た。そして、どうしてこんなことになってしまったのかと思った。





 時は一日を遡る。

 アシュロン達は南西方向の街道を、アルドニアを離れる人々の車列に混じって進んだ。そして、アルドニア南西の大都市には寄らず、帝国と目と鼻の先の距離にある、渓谷に架かる橋近くまでたどり着いていた。

 しかし、アシュロン一行はここで立ち往生していた。


 「どうしたんですかね」


 ジュドーが心配そうに、一行に進まなくなった車列を眺めていた。

 御者台に座るアシュロンとガルも、どうしたものかと頭を悩ませていた。

 そこに、先だって、前方を調べに行かせたアーランとガンツが戻ってきた。


 「この先の橋で、大きな馬車の車軸が壊れたようです。それが橋を塞いでしまっていて、どうにもならないみたいですね」


 ガルは口を開けて「は?」と声を出した。


 「んなもん、さっさと退かせばいいだろうが」


 ガルはそれが当然だと言わんばかりのきつい語調で、アーランに問い正した。アーランは状況を伝えただけで、馬車の故障は彼のせいではないのだが、ガルは自身の苛立ちをぶつけてしまった。


 「それがどうやら故障した馬車は、公用馬車みたいなんです。それも黒の」


 アーランが悩ましそうな表情を見せた。


 「本当に黒か?自治領主、いや、アルドニア総督あたりか?」


 アシュロンはアーランの言葉で状況を理解した。

 帝国の貴賓が移動する際、それが公的な理由であれば、公用馬車を用いる。公用馬車は木造の箱馬車で、その色によって、乗客の大まかな階級を示していた。例えば、白は皇族、黒は大貴族や大臣級の高級官僚と決まっていた。


 「お前ら軍令書はもってるんだろ?それで何とかできないのか?」


 ガルがアーランとガンツに提案したが、ガンツがむっつりとした表情で首を横に振った。


 「だめでした。護衛兵が橋自体を封鎖してるんです。軍令書を向こうの隊長に見せたのですが、困り顔で断られました」


 アーランが肩を落とした。


 「くそ。埒が明かねえ。見に行ってくる。お前らは子守りをしててくれ」


 ガルは御者台から飛び降りた。


 「俺も行く」


 アシュロンもガルを追いかけた。



 アシュロンとガルが橋の袂に赴くと、武装した帝国の正規兵が橋を封鎖していた。橋の中央付近には、大きな黒い箱馬車が傾いていた。橋の幅一杯に広がる大きな馬車は、人一人程度が通れる隙間を残して、道を塞いでいた。

 橋の中央では、でっぷりと太った男が何やら大声を上げていた。よく見れば闘技場の貴賓席に座っていた男だった。


 「早く修理の技師を呼べ!」


 太った男は仕切りに技師を呼べと護衛隊長に詰め寄っていた。


 「総督様、それは無理な注文というものです。技師を呼んで修理するにしても、最低でも二、三日はかかります」


 太った男はどうやらアルドニアの総督らしかった。そして、護衛隊長は困り顔で総督を宥めた。


 「それで構わんと言っておるだろうが!」


 総督は青筋を立てながら、怒鳴った。


 「しかし、それまで橋を封鎖せよとは、あの車列をそのままにするおつもりですか?荷物だけなら私どもが運び出します」


 護衛隊長が橋の前に集まり出した人々と、その後方に続く車列を指差し、総督に妥協案を申し出た。


 「ならん!この馬車の荷物には触れるな!」


 「ですが」


 尚も護衛隊長が言い募ろうとしたものの、総督は聞き入れる様子を見せなかった。それどころか、護衛隊長に向かって脅しかけた。


 「わかっておるのか?私は帝国貴族にして、アルドニア総督のモナフォンだぞ?私の命に従えぬのなら、お前のような兵卒は辺境に送りとばすぞ!」


 モナフォン総督が語気を荒げて、護衛隊長を叱り飛ばした。


 「それに、帝国の公用馬車は帝国そのものだ。それを置き去りにして、その責任がお前に取れるのか!」


 責任が取れるのかと問われれば、護衛隊長にとっては無理な話だった。しぶしぶといった様子で、技師を手配する旨を了承すると、傾いた馬車から離れようとしないモナフォン総督をそのままに、橋の袂に歩き出した。

 護衛隊長は橋を封鎖する護衛兵の一人に何やら言い含めると、むっつりとした表情で、橋の欄干にもたれかかった。


 「見込みはなさそうだな」


 ガルが落胆を隠さずに言った。

 周囲でアシュロン達同様、事態の推移を伺っていた人々も、抗議の声ひとつ上げられず、一様に沈んだ表情で橋を離れた。





 状況が一変したのは、その日の深夜、日も落ちて随分たった頃だった。

 先日から降り続いた雨は止んでいたが、空は分厚い雲に覆われて、星一つ見せることはなかった。

 ニフィムとナーニェを馬車に寝かせて、アシュロン達はその周囲で野営を行っていた。

 アシュロン達だけではない、街道に連なる車列の全てが、そのままの状態で野営を行った。



 アシュロンはメナドと共に、深夜の見張りを行っていた。彼らはこのまま、明け方まで見張りを続ける予定だった。

 アシュロン達が待機している街道は、アルドニア自治領を囲む山に向かって、緩やかな坂を描いていた。そのため、太陽の下であれば、遠く北東方向に続く車列を、眼下に収めることができただろう。今は、野営の焚き火が点々と街道沿いに続いていた。


 「このところ厄介事ばかりな気がする」


 アシュロンが焚き火に木切れを放りこみながら、メナドに愚痴を零した。


 「そうですね。私も同じ気持ちです」


 メナドは癖なのだろうか、薄くなった頭部を撫でながら、パイプの煙を吐き出した。


 「陸運商会もたまったもんじゃないだろうな。奴隷反乱なんて」


 「この自治領を通れないとなると、北部辺境はほとんど孤立ですからね。運送業の私達も、ある程度の安全が確保できない状況では仕事もできません」


 メナドが普段の温和な様子と異なり、難しい顔を見せた。


 「あっちはどうなんだ。ほら、あの湖沼地域。道は繋がってるんだろ?」


 アシュロンは帝国の地図を頭に思い浮かべた。

 アルドニア自治領の西に広がる湖沼地帯。東端をアルドニアの山々、西端を厳雪山脈に接する地域で、帝国から北部辺境に至るもう一つの地域だった。


 「私は昔、北西部辺境に行く仕事であの地域を通ったことがありますよ。あそこは通行できないことはないんですけどねえ」


 メナドが少しの間をおいた後、言葉を続けた。


 「やはり、整備された街道の有る無しは運行速度に大きな違いが出ますからね。これにも影響するのですよ」


 メナドは左手の親指と人差し指で大きく輪を作った。


 「昔っていうとどのくらいだ?」


 アシュロンが質問した。


 「あれはまだ、私がジュドーのような御者をしていた頃ですね。毛皮製品を扱う商会に依頼されて、厳雪山脈方面の辺境に荷物を運ぶ仕事でした」


 「なんでまた毛皮なんてものを」


 商売の機微を知らないアシュロンは、メナドに言った。


 「知らないのですか?北部辺境の毛皮は品質が良いのですよ?それに厳雪山脈はとても寒いですから、需要があるのでしょう」


 メナドはパイプを逆さまにして、左手で優しく数度叩いた。パイプの先端から、燃え尽きたタバコの灰が、焚き火に落ちていった。


 「それにしてもこれからどうなるだろうな」


 アシュロンは含みを込めた言葉を紡いだ。橋は何時ごろ通行できるだろうか。奴隷反乱はどうなるだろうか。すぐには答えの出ない問いがアシュロンの胸を駆け巡った。


 「わかりませんね。私達も先が見えないせいで、仕事の遣り繰りが大変でしたよ。今日には、支店の仲間達も都市を離れる頃でしょうね」


 メナドが街道の北東を見つめながら呟いた。

 そして、メナドはある異変に気がついた。



 メナドの視線の先、車列の篝火が続くアルドニアの街道。その幾つかの分岐の先の一つで、大きな炎が燃え上がっている様子が、微かに見て取れた。

 その炎の出所はアルドニア南西の都市。それは、闘技場を有する都市の一つだった。

 異変に気付いたメナドと同じく、周囲も気付き始めたのか、静かだった野営の列に、ざわめきが起こった。

 アシュロンもメナドの言葉で異変に気付いた。そして、手早く他の者を起こした。


 一同が不安と共に見つめるなかで、炎は、まるで街道の車列が導火線であるかのように、街道に従って、広がっていった。

 それは炎が自ら燃え広がっていたわけではない。松明を手にした反乱奴隷が、馬車を襲いながら都市の外に広がっていたのだ。

 アルドニア南西の都市から、アシュロン達の下まで、一日かからない距離しかなかった。

 その現実を認識した時、アシュロンは戦慄を覚えた。





 「馬車はどうするんですか?」


 ジュドーが困惑とともにメナドに聞いた。


 「捨てなさい。命だけで十分です」


 メナドは商人に似合わない決断を瞬時に下した。

 ジュドーは馬車を名残惜しそうに見つめたものの、諦めたのか、繋いでいた馬を離してやった。

 ジュドーの様子を見たガンツが、無言で、これまで騎乗してきた軍馬の鞍を外した。


 「馬を捨てるのかい?」


 アーランが咎めるようにガンツに問い立てた。

 ガンツは無言で、周囲を走り出した群集を顎で示した。この混乱の中を騎馬で進むのは、自殺行為だった。

 アーランは諦めたように大きくため息をついた。


 「この馬は軍のものなんだけど、始末書ですむのかな?」


 アーランはぶつくさと文句を言いながら、馬の鞍を外してやった。


 「もたもたするな。置いてくぞ」


 ガルが焦った様子で、片手をポケットに突っ込んだまま、声を荒げた。



 アシュロン達は最低限の荷物を手にすると、橋の袂に向かった。

 橋の袂では状況の変化にも関わらず、兵士が橋の封鎖を続けていた。

 群集が殺気立った様子で、その周囲に集っていた。なにかの拍子に、今にも爆発しそうな雰囲気だった。

 そして、封鎖を続ける兵士達の後ろで、モナフォン総督と護衛隊長が口論を繰り返していた。


 「あなたには見えないのですか!あの彼方に迫りくる炎の列が!」


 護衛隊長が次第に自分達に近づきつつある、導火線の如き炎を指差した。


 「わかっておる!わかっておる!」


 モナフォン総督も緊迫した様子で口論を繰り返していた。


 「では、あの馬車を直ちに橋から落とす許可をください」


 「荷物はどうなる?」


 モナフォン総督が不安げな表情を浮かべた。


 「そのまま落とします」


 護衛隊長が冷酷に言い放った。


 「それだけはならん!ええい、この際お前達でもよい、荷を対岸に運び出せ!」


 「こんな状況でなにを……」


 護衛隊長は絶句した。


 「荷を運べ。これだけは譲れんぞ」


 モナフォン総督はそう言うと、議論は終わったという様子で、橋の対岸に向かって歩き出した。


 「一刻だけ、あなたの要望を聞き入れましょう。その後は知りません」


 護衛隊長はモナフォン総督の背に向かって声を上げた。

 そして、護衛隊長は、殺気立つ群集に、一刻後に、橋の封鎖を開放すると伝え、橋の袂に一本の蝋燭を置いた。

 群集は納得しきれない者が大半だったが、護衛隊長の言にどうにか不満を抑えた。

 人々は自らの運命を左右する蝋燭の炎を、あらゆる感情とともに見つめていた。





 蝋燭がその灯心を半分程まで減らした。その頃には橋の袂に集う群衆は、数十人しかいない総督の護衛兵では、帝国の威光を盾にしても、抑えることが難しくなっていた。

 その様は、今にも零れそうな杯に、後から後から酒を注ぎこんでいるようなものだった。杯の大きさは普段はとてつもない大きさだが、今このときは、酷く小さくなっているようだった。

 生きるか死ぬかの瀬戸際になれば、帝国の威光も霞んで見えるに違いない。


 アシュロン達も集団の後方で、橋の封鎖が解けるのを待ち構えていた。

 肩がぶつかりあうような混雑のなかで、アシュロン達はナーニェとニフィムを囲むようにしていた。


 その時、集団の後方で悲鳴が上がり始めた。

 反乱奴隷がたどり着くには、幾らなんでも早すぎるとアシュロンは思った。

 アシュロンは、闘技場のある都市とこの橋の袂までの距離を、徒歩による時間換算で見積もっていた。それを裏切ったのは、馬車の車列が有する馬と騎乗能力を持った反乱奴隷の存在だった。


 きっかけがあれば、この群集を抑えることは護衛兵達にはできない。遠く響く悲鳴と群集の逃走への意志が、この時をもって橋の封鎖を決壊させた。

 職務に忠実な護衛兵の一人は、若い男に引き倒され、それに続く群集に足蹴にされた。護衛兵の中には剣を抜いた者もいたが、一度放たれた矢は、もはや元に戻ることはなかった。

 護衛隊長はその様子を察知して、馬車の荷を運び出していた護衛兵に、馬車を橋から落とすよう命令した。先頭にいた群衆も、馬車を退かさなければ、容易に橋を渡れないことを悟って、兵士達に協力した。


 護衛隊長は自分に出来る限りのことをしていたようで、木造の欄干は、馬車の付近が一部取り壊されていた。

 橋の対岸から、モナフォン総督が何事か叫んでいたが、群集と護衛兵の誰一人としてその言葉に耳を傾ける者はいなかった。

 馬車が後ろ側を背にして、橋を落ちていくとき、その荷物の一部が、零れ出した。人々の持つ松明の火に照らされたそれは、眩い黄金の光を反射していた。



 遮るもののなくなった橋を群集が怒涛の勢いで渡り始めた。群集の奏でる、地に響く騒音は、木造の橋がその重みに悲鳴を上げていることを覆い隠した。

 アシュロン達は一塊でいたはずが、人波に揉まれて、互いを見失っていた。

 アシュロンは前に押し出されながらも、ナーニェとニフィムを探していた。そして、声の限りニフィムの名前を呼ぶナーニェを見つけた。


 「ニフィムはどうした?」


 「手を、この手を繋いでいたはずなのに」


 ナーニェが泣きそうな目でアシュロンを見た。

 ナーニェが手を離してしまったのは、この群集の中では無理もない。アシュロンでさえ、身動きが取れないのだ。


 「俺が探す。お前は先に行くんだ」


 アシュロンがナーニェに緊迫した口調で諭した。


 「でも!」


 言い募ろうとするナーニェの手をもう一人の傭兵が掴んだ。そう、ガルだ。


 「お前は来い。とりあえず、橋を渡るんだ。大丈夫、ニフィムも近くにいるはずだ」


 ガルは有無を言わせぬ様子でナーニェの手を引っ張った。そして、自分の体で守るように、前に抱えこんだ。

 ガルは一瞬、アシュロンに目配せをした。

 アシュロンは無言で頷いた。

 アシュロンはその場で、力の限り人の流れに抗い、ニフィムの名を呼んだ。しかし、聞こえるのは人々の悲鳴や怒声ばかりだ。


 すでに先に抜けたのだろうか。アシュロンがそう考えた矢先、人波の中に、透き通るような白い肌の腕が上がった。

 アシュロンは、懸命に、流れの中を、その白い腕に向かって進んだ。

 そして、ついに、その腕を掴むと、ニフィムを抱きかかえた。

 ニフィムはその小さな背で、群集の只中に押しやられたためか、酷く呼吸を乱していた。そして、ニフィムはアシュロンにしがみついた。


 ニフィムがアシュロンにしがみつくと同時に、橋が大きく音を立てた。それは、群集が奏でる騒音にも限らず、酷く軋むような、鈍い、嫌な音だった。


 瞬間、アシュロンの前面、橋の中央部が崩落を始めた。


「止まれ!橋が落ちるぞ!止まれ!」


 アシュロンは山々を震えさせるかのような声を、腹のそこから絞り出した。事態に気がついた群集も同様に叫びを上げた。

 それでも、立ち止まることの出来なかった群集が、闇の中に、悲鳴と共に、幾人も吸い込まれていった。


 一方、ガルは崩落の最中、猿を思わせるような常人離れした動きで、ナーニェを脇に抱えたまま、欄干に飛び乗った。そして、対岸に向かって、欄干の上を走り出した。ガルが幸運だったのは、公用馬車を落とすために取り壊された欄干とは反対側に飛び乗ったことだった。


 「ニフィムが」


 「黙れ!舌噛むぞ!」


 ガルはナーニェの言葉を途中で遮った。そして、自分でナーニェに忠告しておきながら、自身は崩れかけた欄干を、超人的な平衡感覚で走りながら、叫ぶ。


 「俺は! こんなところで! 死ぬつもりは! ねえぞ!」


 ガルの叫びが対岸の闇に消えた後、アシュロンは呆然と、視線の先に広がる、崩落した橋を見つめた。

 アシュロンはニフィムを抱く手に知らず、力を込めていた。





 そして、時は前後する。

 アシュロンとニフィム、そして、逃げ惑っていた人々は渓谷の突端に追い詰められていた。

 反乱奴隷はどの程度の数がいるだろうか。見える限りでは、百人は越えていない。

 アシュロンは右手に握っていた金棒を強く握りこんだ。

 戦うことは選択肢の一つだった。アシュロンがその力を発揮すれば、十数人を相手取ることができるはずだ。

 しかし、それはアシュロンが一人だった場合である。

 アシュロンが戦えば、相手に大きな被害を与えられるだろうが、恐らく囲まれた末に命を落とす。アシュロンは優れた戦士ではあったが、物語のような英雄ではないのだ。

 そして、アシュロンの命が尽きれば、自ずとニフィムの運命も定まる。


 アシュロンは、長く続く戦働きの中で、自分の死と常に向き合ってきた。終わりの時が訪れたとしても、ああそうか、と思うだけのはずだった。

 しかし、今はその大きな背に背負う者がいた。怯えて、震えるニフィムは、泣き言一つ言わずに、アシュロンにしがみ付いていた。



 アシュロンが進退窮まった様子で、決断しかねていると、崖に追い詰められていた一人の男が、足を滑らせて、崖下に転落した。

 男は、落下の途上、悲鳴とともに岩肌にぶつかりながら、最後に乾いた音を立てた。

 反乱奴隷はその様を面白がったのか、アシュロン達を崖に追い落とそうと範囲を狭めてきた。奴隷達の目に宿る狂気の色は、下卑た笑いと共に、追い詰められた人々を恐怖させた。

 また一人、足を踏みはずした若い女が崖を転げ落ちていった。アシュロンが最後にその若い女を見たとき、女はきょとんとした表情のまま、崖下に消えた。


 アシュロンは崖下をちらと覗き込んだ。崖下には、アシュロン達が立ち往生していた橋から、渓谷が続いていた。そして、その川幅は崖下の直下には届いておらず、川原の上に、二つの捩れた人形が横たわっていた。

 川の流れは緩やかで、水面は、既に上りきった太陽の光を反射していた。しかし、その川底は崖の上からは見えなかった。


 アシュロンは一縷の望みを、その川の深さに託した。そして、飛び降りることを決意した。尋常な度胸ではない。恐らくアシュロン自身、怪我を負うことになるだろう。悪くすれば二人とも死ぬかもしれない。それでも、アシュロンが、少年が少しでも生き残れる可能性を模索した上での決断だった。


 「なにがあっても手を離すなよ。そして、合図をしたら、大きく息を吸い込め」


 アシュロンが小声でニフィムに語りかけると、ニフィムはしがみ付く出にさらに力を込めた。



 アシュロンが意を決して、雄たけびを上げた。

 反乱奴隷達は馬鹿ではないようで、アシュロンの雄たけびを聞くと、狭めていた包囲を広げた。奴隷達にしてみても、アシュロンは厄介に見えていたのだろう。

 アシュロンは雄たけびと共に、最も前に出ていた反乱奴隷の男に走り寄ると、金棒で頭部を殴り飛ばした。

 どれほどの力があれば可能なのだろうか、男の頭部はボールのようにその首から離れ、砕け散った。

 反乱奴隷の一部が怯えを見せたが、残りの者はアシュロンに切りかかろうとした。


 「すまん」


 アシュロンは何に対して呟いたのか、手にしていた金棒を迫りくる一団に投擲して、怯ませた。そして、訪れた小さな隙の間にニフィムを前に抱え込んで反転すると、崖に向かって、全力で走り出した。


 ここまでアシュロン共々逃げてきた人々の戸惑う横顔が、アシュロンの視界を後ろに流れていった。彼らを助ける術はアシュロンにはない。そもそも、飛び降りて無事な保証もない。

 アシュロン自分を奮い立たせていた。恐れるな。恐れによって、速度を落とせば、川に届かず川原に落ちる。そのことを認識していたアシュロンは、高所からの落下に対する本能的な恐れを、驚くべき自制心で押さえ込んだ。


 そして、崖から飛び出した。


 それは、遠目に見れば、太陽の影になって、まるで子を抱いた父が、そのまま天に召されようとする宗教画のような光景だった。

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