第十五話
闘技場での戦いが始まった。
奴隷達は戸惑いを見せていたが、奴隷の中でも一際体格の良い男が、島嶼連合の言葉で奴隷達に指示を出し始めた。どうやら俄か作りの隊伍を作って、数の利を生かそうとしているようだ。
剣闘士達はその様子を舞台の中央から眺めるだけで、自分達から手を出す様子は見て取れない。
体格の良い奴隷が大きな声を出すと、怯えていただけの奴隷達の顔に覇気が宿った。座して死を待つのではなく、生きるために戦う。それは、あらゆる生物の持つ、原初の理の一つだった。
一方的な戦いでは、観客の興も削がれてしまう。長い歴史を有するアルドニアの闘技場は、抜かりのない匙加減を心得ているようだった。
体格の良い奴隷が先頭に立って走り出すと、他の奴隷達も中央に走り出した。
剣闘士達も奴隷達の方向に走り出しながら、五人組一つ、二人組二つに分かれると、それぞれ奴隷達とぶつかった。剣闘士のうち、残りの一人である天狼はゆったりとした足取りを崩さなかった。
小規模な集団戦が舞台の各所で行われていた。体格の良い奴隷が中心となって、五人組の剣闘士を潰して戦いの流れを取ろうと、半数以上の奴隷で彼らを囲んだ。二人組の剣闘士に対しては、どうやら時間稼ぎをするつもりらしく、同数の奴隷が消極的に相対しており、天狼に対しては、警戒したのか、残った数人が対峙した。
戦いは苛烈だった。
剣闘士の一人が振るったメイスが、奴隷の頭を横殴りにしたため、地面には割れた柘榴の実が転がった。
また、短槍の剣闘士が踊るようにその槍を振るい、奴隷の剣を弾き、その喉を貫いた。
奴隷が一人、また一人と倒れるたびに、観客は歓声を上げた。
ある男は口角に泡を飛ばしながら何事か叫んでいた。ある女は悲鳴と共に手で顔を覆いながらも、指の隙間からつぶさに戦いの推移を見つめていた。
特に、貴賓席に座っていたでっぷりと太った男は、顔を真っ赤にして、興奮しながら叫んでいた。その醜く歪んだ表情は、見るものに怖気を催すだろう。
しかし、誰も彼もが興奮に顔を赤くし、血に酔いしれていたわけではない。中には不快そうな顔を浮かべて、早々に席を立つ者もいたし。顔を伏せて、戦いを見ないようにしていた者もいた。
そんな中、ガルは落ち着いた様子で天狼の動きに注目した。
天狼は四人の奴隷を相手取りながら、優雅な演武を見せていた。もちろん、相手は彼を殺すつもりで切りかかっていた。だが、天狼はそれをいなし、かわし、身軽に動き回り、四人の奴隷を翻弄した。
ガルはその様子を見て、天狼は遊んでいる、と思った。おそらく、天狼にしてみれば、簡単に殺してしまうと、観客が楽しめないとでも考えているのだろう。
奴隷達は徐々に数を減らしていたが、とうとう剣闘士側にも犠牲者がでた。五人組の一人が奴隷達に引き倒されて、体格の良い奴隷が剣を突き刺したのだ。剣を深く差し込まれた剣闘士は、狼を模った兜の口から血を零すと、動かなくなった。
体格の良い奴隷が雄たけびをあげた。
観客からは落胆の声が挙がった。
しかし、奴隷達の戦いもそこまでだった。二つの二人組の剣闘士は、それぞれの相手を倒してしまっていたし、五人組を囲んでいた奴隷達もその数を半分以上減らしていた。
天狼も頃合とでも思ったのだろうか、囲んでいた奴隷が切りかかるたびに、手控えしていた反撃を行った。そして、瞬く間に四人を切り伏せた。
事ここに至って、奴隷達の僅かな戦意も吹き消されてしまったようだ。武器を放り投げて慈悲を請うもの。舞台の壁際に走りよって、観客席によじ登ろうとするもの。門の前に逃げて、何事か叫ぶ者。
砂被りの席にいた観客達は、そういった者に対して食べかけの果物を投げつけたり、飲みかけの酒を上から浴びせたりした。そして、それ以外の席にいた者も罵声や野次をとばした。
そこからは淡々と奴隷が殺されていくだけだった。中には、剣闘士ではなく、闘技場の係員に槍で殺された者もいた。
しかし、最後に残った体格の良い奴隷だけは、一人になっても戦意を失っていなかった。
舞台の中央、剣闘士達が輪を作るようにして囲んだ中で、天狼と体格の良い奴隷が向き合っていた。天狼以外の剣闘士達は手を出すつもりがないようだった。
体格の良い奴隷が大振りの大上段を天狼に放った。しかし、天狼は剣に角度をつけて、流れるようにその力を逃がした。次に、体格の良い奴隷は体勢を立て直して、横薙ぎの一閃を放った。天狼は重力を感じさせない跳躍で回避した。
天狼は、今度は自分の番と言わんばかりに、縦横の連撃を男に放った。男はどうにかそれらを防いだ。
天狼の挙動は奴隷の男を試すようで、放たれる斬撃には勢いが感じられない。もちろん、対応しなければ切り殺されてしまうような攻撃ではあるが、気迫が感じられないのだ。
観客はそれまでの喚声とは打って変わって、凪いだ水面のような静けさの中、戦いを見守っていた。
だが、二人の戦いはそれほど長くは続かなかった。
すでに、奴隷の男は肩で息をするほど疲弊していた。息一つ乱さない天狼は、男の疲れを見て取った。そして、男が一歩踏み出した隙を突いて、瞬時に組み付くと、出足払いの要領で地面に引き倒した。
奴隷の男は硬い砂地に叩きつけられたために、手にしていた剣を取りこぼしてしまった。 天狼は、その剣を男から蹴り離すと、長剣を奴隷の男の喉元に突きつけた。
それまで静かにしていた観客が一斉に声を上げた。
「殺せ!」「殺せ!」「殺せ!」
これまでで一番大きい合唱が闘技場中に響き渡った。いや、これは恐らく闘技場の外にも聞こえているだろう。
天狼が剣の刀身を奴隷の男に向けたまま、大きく掲げた。そして、男の喉元に突き立てた。いや遠目には突きたてたように見えた。
しかし、天狼は観客の声には従わなかった。
奴隷の男に突きつけられていた剣は、闘技場の砂地に深く刺さっているだけだった。
天狼は観客席を大きく見回すと、興味もなさそうに舞台の通用門に歩き出した。
観客席からは賛否両論が巻き起こった。熱狂的な一団は、仕切りにブーイングをしていた。一方で、多くの女性達や単なる観光客は、歓声を挙げ、天狼の慈悲を褒め称えた。
ガルの近くにいた老人が声を挙げた。
「これは珍しい。久しぶりに目にしたぞ」
ガル達は一様に疑問に思ったのか、老人に目を向けた。
老人はその視線を感じたのか講釈をたれ始めた。
「天狼はな、ときおり眼鏡に適った者を殺さないことがある。そして、その者を自らの戦士団に引き入れるのだ。ほれ、見てみろ」
老人に言われてガル達が視線を舞台に戻すと、剣闘士が奴隷を助け起こそうとしていた。奴隷は状況を把握しきれていないのだろう、腰が抜けたようで立ち上がれない様子だった。
「でも、あの奴隷は島嶼連合の人間だぞ?」
ガルが当然の疑問を口にした。
「なにを言っておるか。天狼だとて、元は島嶼出身の剣奴なのだぞ?」
老人の言葉がガルの胸に染み込むまで、しばらくの間が訪れた。
ガルは老人の言葉を聞いて、闘技場の通用門に歩いていく天狼を見つめた。
天狼の顔は、狼を模した兜が覆い隠しており、ガルが伺い知ることはできなかった。
異国の地で同郷の者と殺し合いをさせられる者達。その兜の下で、彼らは一体どんな表情を浮かべているのだろう。
闘技場の黒い砂が風に吹かれて空に舞い上がった。それは、真新しい生贄を得た闘技場が、歓喜の咆哮を挙げているかのようだった。




