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万命炉のリリメリア  作者: 曇裡空子
一章 帰る場所のない少女
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9/19

物ではない

【主な登場人物】

リリメリア

旧帝都で見つかった記憶のない少女。調査隊と旅をしながら、言葉や感情や剣の扱いを少しずつ覚えていく。


隊長

調査隊を率いる男。大柄で声も大きく頼りになる。

リリメリアを発見物ではなく、保護すべき人として扱う。


アリア

調査隊の副隊長。口数は少ないが、周囲をよく見ている。

元近衛という経歴を持つが、王宮との関係にはどこか冷えたものがある。


ロイ

槍を使う調査隊員。

よく喋り、よく笑い、重くなりがちな場の空気を和ませる。


エルナ

金色の髪の魔術師。

真面目で手順やルールを重んじる。魔術や歴史に詳しい。


シエナ

調査隊の記録係。旧帝国語や古い記録を読み解く。


ミラ

調査隊の料理係。食事や包帯や日々の暮らしを支える人。

朝、リリメリアは白い猫を抱えて食堂へ下りた。


南井戸が封鎖されてから、宿に泊まっていた商人の何人かは夜明け前に町を出たらしい。残った人たちも、水差しにはほとんど手をつけていない。


卓の上の水差しには、布がかけられていた。


厨房の奥では、ミラが湯を沸かしている。いつもより鍋の音が大きく聞こえた。


水が大きな音を立てているのではない。


食堂が静かすぎるのだと少し遅れて気づいた。


食堂へ入ると、ロイが最初に気づいた。


「リリ」


「うん」


「それは?」


ロイはリリメリアの腕の中をまじまじと見る。


真っ白な猫がいた。


大きくて、毛が長く、胸元も尾も雪の塊のようにふくらんでいる。水色の瞳だけが静かに開いていて、食堂の人たちを順番に見ていた。


「拾った」


「どこで」


「部屋」


「部屋で拾うな」


「いた」


「それは拾ったじゃなくて、侵入されたって言うんだよ」


猫はロイを見た。


「にゃあ」


ロイが一歩引く。


「なんか返事したな」


「猫だから」


「猫は返事の内容まで分かってそうな顔をしない」


アリアは入口近くの席から猫を見ていた。


「宿の猫ではないな」


「分かるの?」


「この宿の猫なら、あの厨房に近づかないはずがない」


ミラが鍋をかき混ぜながら振り返る。


「たしかにね。うちの残り物を狙わない猫は珍しいよ」


エルナは猫の毛並みを見て、少し困った顔をした。


「路地の猫には見えませんね」


「飼い猫か?」


ロイが聞く。


「それにしては首輪がありません。けれど汚れもない」


エルナは真面目な顔のまま続けた。


「少なくとも、昨日まで町の外を歩いていた猫には見えません」


白い猫はリリメリアの腕の中で動かない。


特別に甘える様子もなく、逃げる様子もない。


ただ、抱かれている。


シエナが記録帳を開きかけた。


「旧導水施設異常後、リリさんの部屋に白色長毛の猫が出現。水色の瞳。侵入経路不明」


「書くの?」


リリメリアが聞く。


「書きます」


「猫も?」


「変ですから」


「変は、だいたい褒め言葉」


「はい。だいたい褒め言葉です」


ロイは椅子にもたれて笑った。


その笑いで、食堂の空気が少しだけ戻った。


隊長は窓の外を見ていた。


南井戸の方角ではない。町の通り全体を見るような目だった。


「今日は外に出るな」


隊長は窓の外から目を離さないまま言った。


命令というより、すでに決めたことを置く声だった。


リリメリアは猫を抱えたまま頷く。


「分かった」


「特に一人では出るな。井戸にも水門にも近づくな」


「うん」


「猫もだ」


リリメリアは白い猫を見る。


猫は水色の瞳を半分だけ伏せた。


「にゃあ」


「分かったって」


ロイが勝手に訳した。


その時、宿の扉が開いた。


冷えた朝の空気と一緒に、旅外套を羽織った女が入ってきた。


「水除け札、井戸守りの鈴、魔除け布。白い粉を払う刷毛もあるよ。今の町にはぴったりの品揃え」


明るい声だった。


朝の食堂には似合わないほど、軽い。


女は髪を左右で結び、大きな鞄を背負っている。鞄の口からは細い札や布袋や小瓶がいくつも覗いていた。


顔には笑みがある。


商人の愛想に見えなくもない。だが困っている相手を見つけた事を楽しむような笑みに感じられた。


ロイが眉を上げる。


「朝からずいぶん怪しいな」


「怪しい時に怪しいものを売るのが商売でしょ」


女は悪びれずに言った。


「水が怖い町に水除け札。需要と供給、完璧」


「効くのか?」


「効くよ」


女は迷わず答えた。


「貼れば水が怖くなくなる」


「それは水除けじゃなくて気休めじゃないか」


「気が休まるなら効果ありっしょ」


エルナが女の手元の札を一枚取った。


「この術式、途中で切れています」


「よく分かるね」


女は大袈裟に驚く。


「分かります。これでは魔除けにも水除けにもなりません」


「途中まで効く型」


「途中で切れているだけです」


「じゃあ半額にしようか」


「詐欺です」


「言い方きついなあ」


女は少しも傷ついた様子を見せない。


今度は小さな鈴を取り出す。


「じゃあ、こっち。井戸守りの鈴。井戸に悪いものが近づくと鳴る」


アリアが鈴を見た。


「鳴るのか」


「鳴るよ」


「どうやって」


女は鈴を軽く振った。


ちりん、と乾いた音がした。


アリアは表情を変えない。


「振れば鳴る鈴だ」


「そうとも言う」


「井戸守りではない」


「名前は大事だよ。紐つけた鉄片より井戸守りの鈴の方が売れそうでしょ」


女は勝手に近くの卓へ布を広げた。


その上に小瓶が並ぶ。


中には透明な粉や乾いた草、灰色の石片が入っている。


シエナがその一つを見て、眉を寄せた。


「これ、ただの乾燥草では?」


「よく眠れる草だよ」


「薬効は」


「眠い時に嗅ぐと眠くなる!」


「それは草の効果ではなく、眠いからでは?」


「細かいなあ」


隊長が立ち上がった。


それだけで、食堂の空気が少し変わる。


「荷をしまえ」


女は隊長を見上げてニヤニヤ笑う。


「怖い顔」


「商売は外でやれ」


「外だと寒いし、人が少ないんだよね」


「ここでも売れない」


「まだ分からないでしょ。そこの槍のお兄さんとか、意外と買うかも」


「買わねえよ」


ロイが即座に言う。


女は残念そうに肩を落とした。


その仕草だけは大げさで、芝居じみていた。


「じゃあ、白い猫ちゃんの首輪とか」


リリメリアは猫を少し強く抱えた。


猫は嫌がらない。


女は鞄の中から細い首輪を取り出した。


黒い革紐に、小さな飾りが一つついている。鈴のようにも見えたが、中に舌はなく、振っても音は鳴らなかった。


「猫の居場所が分かる魔術首輪。迷子になっても安心」


エルナが首輪を見た。


「魔力反応がありません」


「今は眠ってるのかな」


「魔術が眠るという表現は聞いたことがありません」


「じゃあ照れてる」


「嘘をつかないでください」


「固いなあ」


女は笑って、首輪をリリメリアへ差し出した。


「これはおまけ。無料」


「どうして?」


「白い猫に白い首はつまんないでしょ。目印がいる」


リリメリアは首輪を見る。


「付けても痛くない?」


「痛かったら猫が嫌がるよ」


リリメリアは白い猫を見た。


猫は水色の瞳で首輪を見て、それから女を見た。


逃げない。


リリメリアはそっと首輪をつけた。


白い毛の中に、黒い線が一本だけ沈む。小さな飾りは鳴らなかった。


「似合うじゃん」


女は満足そうに言った。


「これで迷子にならない」


「本当に居場所が分かる?」


「あんたが見つけたいと思えば、たぶん見つかるよ」


「それは魔術?」


「気持ち」


エルナが深くため息をついた。


「やはり魔術ではありません」


「でも今ちょっと安心したでしょ」


女はにこにこしている。


リリメリアは猫を抱え直した。


「ありがとう」


「どういたしまして。初回無料ってやつ」


隊長の視線が女へ向く。


「しまえ」


今度は短かった。


女はその声を聞いて、ようやく布の端を持った。


「はいはい。怖い町の怖い宿は商売に向かないね」


「不安につけ込むな」


女の手が一瞬だけ止まった。


本当に一瞬だった。


すぐに笑う。


「いいこと言う」


「出ていけ」


「はいはい」


女が鞄を閉じかけた時、宿の扉がもう一度開いた。


王宮騎士団だった。


昨日、南井戸へ来たガルドを含む数人が食堂へ入ってくる。鎧の金具が朝の光を受け、食堂の床に硬い影を落とした。


女は出ていく足を止めた。


閉じかけた鞄を胸の前に抱え、わざとらしく邪魔にならない壁際へ寄る。面白そうなものが始まったので見物する顔だった。


ガルドは食堂を見回し、隊長の前で止まる。


「旧導水施設および南井戸の件で確認がある」


「詰所で話したはずだ」


「追加だ」


ガルドの視線がリリメリアへ向いた。


リリメリアは白い猫を抱えたまま、隊長の後ろにいた。


猫の水色の瞳が、騎士団を静かに見ている。


「王都への報告書に不備がある。旧帝都で発見された対象について、現在の管理状況が曖昧だ」


隊長の表情は変わらなかった。


「発見物の目録ならシエナがまとめている」


「発見物だけではない」


ガルドは大声で言った。


「旧帝都で発見された記憶のない少女。赤い瞳。種族不明。王都での正式な検分が必要だ」


ミラの手が、布巾を握った。


ロイの口元から笑みがなくなる。


エルナが何か言いかけたが、隊長が先に口を開く。


「リリメリアは保護対象だ。発見物ではない」


食堂の中が静かになる。


外の通りで、誰かが戸を閉める音だけがした。


ガルドは眉を上げる。


「記録上は旧帝都で発見された対象だ」


「記録の書き方が間違っているなら直す」


「王都の判断を待て」


「王都が判断する前に、俺が言う」


隊長はガルドを睨みつける。


「剣や金属板は発見物だ。箱に入れ、封をして、目録に書く。必要なら王都へ出す」


そこで一度言葉を切った。


「だがリリメリアは違う」


リリメリアは隊長の背中を見ていた。


大きな背中だ。


五年前、旧帝都で見つかった時から何度も見てきた背中だ。


魔物の前でも、知らない人の前でも、王都の話をする時でも、その背中はいつもリリメリアの前にあった。


「彼女は調査隊の保護下にある」


ガルドが苛立ちながら言う。


「つまり、お前たちの管理下だろう」


「違う」


「言葉遊びだ」


「違う」


隊長の声は荒くなかった。


だから余計に、食堂の中でよく通った。


「人は荷物じゃない。目録に入れるな」


ガルドの頬がわずかに動いた。


「王宮騎士団に逆らうつもりか」


「人を物として扱えと言われたら、逆らう」


ロイが口を閉じた。


いつもの軽口が、ここでは出てこなかった。


エルナの手が震えている。


シエナは記録帳を開いていたが、筆はまだ紙に触れていなかった。


アリアだけが、入口の横にいる女を一瞬見た。


女は何も言わない。


売り物の札を指先でいじりながら、隊長とガルドのやり取りを見ながらにやにやしていた。相手の言葉の底を覗き込んで、どこまで沈むか測っているような笑い方だった。


ガルドはしばらく隊長を睨んだ。


「この件は上に報告する」


「そうしろ」


「後悔するぞ」


「報告書にそう書くのか」


ロイが肩を揺らした。


ガルドの目がそちらへ向く。


隊長がすぐに遮った。


「話が終わったなら出ていけ。ここは宿だ」


「調査は続ける」


「好きにしろ。ただし、うちの隊員に勝手に触れるな」


その言葉に、昨日の南井戸でアリアに手首を掴まれたことを思い出したのか、ガルドの顔がわずかに強張った。


騎士団は何も言わずに踵を返した。


扉が開き、冷たい朝の空気が入る。


騎士たちは出ていった。


食堂には、まだ女が残っている。


隊長が振り向く。


「お前もだ」


「はいはい」


女は鞄を背負った。


女は扉へ向かう。


その途中で、一度だけ隊長を見た。


「ふうん」


それだけだった。


隊長は眉を寄せる。


「何だ」


「別に」


女は笑った。


「商売にならない宿だなって思っただけ」


「なら二度と来るな」


「それはどうかな」


女は片手をひらひら振った。


リリメリアは思わず聞いた。


「名前は?」


女は扉の前で振り返った。


「いくらで買う?」


「お金はない」


「じゃあ、また今度」


「名前、買うものなの?」


「売れたら面白いでしょ」


そう言って、女は朝の通りへ出ていった。


扉が閉まる。


しばらく誰も話さなかった。


ロイが最初に口を開いた。


「何だったんだ、あれ」


エルナはまだ閉じた扉を見ていた。


「少なくとも、まともな行商人ではありません」


「それは最初から分かる」


シエナが記録帳に小さく書き込む。


「不審な行商人。水除け札などを販売。効能なし、または不明。騎士団とのやり取りを観察後、退去」


「それも書くのか」


ロイが呆れたように言う。


「変ですから」


シエナはいつものように答えた。


リリメリアは白い猫を見る。


猫は女が出ていった扉を、まだ見ていた。


「知ってるの?」


リリメリアが小さく聞く。


猫は答えない。


ただ一度だけ、尾を揺らした。


食堂の外では、騎士団の鎧の音が遠ざかっていく。


その少し先で、女は宿の軒下を出たところだった。


朝の通りには、伏せられた桶が並んでいる。


水を避ける町の中で、彼女だけが軽い足取りで歩いていた。


けれど、南井戸の方から風が来た瞬間、その足が止まる。


白い粉が一粒、石畳の上を転がった。


女は笑みを消した。


ほんの一瞬だけ、目の奥に露骨な不快が浮かぶ。


「……いるじゃん」


誰に言うでもなく、女は呟いた。


すぐにいつもの笑顔に戻る。


鞄を背負い直し、何も見なかったように歩き出した。


だがその足は、町の出口ではなく、南井戸から少し離れた路地へ向いていた。

ここまでお読みいただきありがとうございます。


初執筆で設定だけ固めて文章を書いてます。


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次回もよろしくお願いいたします。

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