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万命炉のリリメリア  作者: 曇裡空子
一章 帰る場所のない少女
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視線の先

【主な登場人物】

リリメリア

旧帝都で見つかった記憶のない少女。調査隊と旅をしながら、言葉や感情や剣の扱いを少しずつ覚えていく。


隊長

調査隊を率いる男。大柄で声も大きく頼りになる。

リリメリアを発見物ではなく、保護すべき人として扱う。


アリア

調査隊の副隊長。口数は少ないが、周囲をよく見ている。

元近衛という経歴を持つが、王宮との関係にはどこか冷えたものがある。


ロイ

槍を使う調査隊員。

よく喋り、よく笑い、重くなりがちな場の空気を和ませる。


エルナ

金色の髪の魔術師。

真面目で手順やルールを重んじる。魔術や歴史に詳しい。


シエナ

調査隊の記録係。旧帝国語や古い記録を読み解く。


ミラ

調査隊の料理係。食事や包帯や日々の暮らしを支える人。

リリメリアは朝、剣のひびに気づいた。


宿の壁際に立てかけていた借り物の剣。


隊長から渡され、握り方を覚えた剣だ。

魔物を斬った日も、森を歩いた日も、訓練で手が痛くなった日も、その剣はリリメリアの手の中にあった。


けれど今は、刃の半ばに細い線が走っている。


魔術汚染の色はない。ただ長く使われた金属が、もう限界だと叫ぶようなひびだった。


リリメリアが指で触れようとした時、宿の外が騒がしくなった。


南井戸で、バルトが死んだ。


昨日、食堂に水桶を持ってきて、リリメリアの名前を呼び直してくれた男だ。


南井戸へ向かう道には、普段の町らしさがなかった。開いているはずの店の戸は半分だけ閉じ、軒先の桶には板が伏せられている。子供たちは井戸へ近づこうとして、母親に強く腕を引かれている。


南井戸の周りには町の人が集まっていた。


バルトは布をかけられて横たわっている。片手だけが布の外に出ていて、爪の下から羽毛のような白い結晶が伸びていた。


井戸の水は白く濁っている。


水門の警戒輪は鳴っておらず、封鎖の縄も破られていない。


エルナは井戸の縁に手をかざした。淡い光が水面の上で震え、形を保てずに散る。


「水門から漏れたなら、先に濁る井戸が他にあります」


シエナが記録帳を開く。


「南井戸だけが?」


「はい。ここは水門に一番近い井戸ではありません。途中の井戸が無事なのに、ここだけ濁るのはおかしい」


シエナが記録帳を開く。


「警戒輪は」


「鳴っていません」


「では、水が運んだのではなく」


シエナの筆が止まる。


「何かが水を選んだのかもしれません」


町人たちの間にざわめきが広がった。


誰かが桶を倒した。中は空だったが周りの者が一斉に足を引く。水という言葉だけが、もう怖がられているようだった。


リリメリアが顔を上げると誰かがこちらを見ている。


井戸ではなく、バルトでもなく、リリメリアの赤い瞳を見ている。


その視線は一つではなかった。


リリメリアが何か言う前に、アリアが半歩だけ前へ出た。リリメリアと町人たちの間に立つ。


「アリア?」


「見られている」


「何を?」


「お前を」


アリアは井戸ではなく、人の顔を見ていた。


「集団に見られている時は位置取りを考えろ」


「位置取り?」


「出口が見える場所にいろ。人の背中で道を塞がれるな」


「逃げるの?」


「逃げるためだけじゃない。逃げなくていいかを決めるためだ」


その時、町の北側から馬蹄の音がした。


王宮騎士団だった。


六人の騎士と二頭の荷馬。荷には封印用の板材と検水器、簡易結界杭が積まれている。


先頭の騎士が馬を降りた。


「王宮騎士団第三調査分隊、ガルド。報告を受けて来た。現場はここか」


隊長が頷く。


「南井戸だ。昨夜、井戸番が死んだ」


ガルドは舌打ちに近い音を鳴らした。


「進行が早いな。王都に報告が届く間にも悪くなっている」


「こちらもそう見ている」


ガルドの視線は井戸の縁、布の下に隠れた身体、白く濁った桶の順に移った。それから調査隊を眺め、アリアのところで止まる。


口元が嫌な形に曲がった。


「まだ生きていたのか」


アリアは、古い壁に打ち込まれた釘のように姿勢を変えなかった。


「王宮の影が、今は田舎町で井戸番か」


ロイが身構える。


井戸の縁で検査用の符を広げていたエルナの手も止まる。


ガルドは町人にも聞こえる声で笑った。


「昔はもっと似合う仕事をしていただろう。命じられた相手の部屋に入り、声を上げる前に黙らせ、朝には病死か事故に見せる。近衛の暗部の仕事をな」


アリアは答えない。


「表の近衛は王の前で剣を掲げる。裏の犬は命令があるまで吠えない。お前は後者だったな」


リリメリアはアリアを見た。


アリアは黙っている。


怒らない。言い返さない。


それが嫌だった。


アリアはいつもリリメリアの前に立つ。嫌な視線を向けられた時も、危ない物が近づいた時も。


そのアリアを、目の前の男は笑っている。


「お前に守られる子供も気の毒だな。守っているつもりで、いつか昔の癖が出るかもしれない。背中に立たれたら終わりだ」


リリメリアは走っていた。


小さな身体で騎士の懐に入る。拳を下から跳ね上げる。


狙ったのは顎だった。


けれど届かない。


首当てに当たり、鈍い音がして、拳に痛みが走った。


ガルドは一歩よろめき、すぐに顔を歪める。


「この小娘」


手がリリメリアへ伸びる。


その手首を、アリアが掴んでいた。


速かった。


誰も、いつ動いたのか分からない。


アリアはガルドの耳元で囁く。


「そこまで知っている相手を挑発するなんて、命知らずだな」


ガルドの笑っていた口元だけが残り、目の焦点が一瞬外れた。


「何を」


「私が何をしていたか知っているなら、何ができるかも分かるだろう」


アリアの指に力が入る。


「この子に触るな」


ガルドは手を引こうとしたが、動かない。


「次は手首では済ませない」


しばらくして、アリアは手を離した。


ガルドは手首を押さえて後ろへ下がる。さっきまでの笑みはもうなかった。


アリアはリリメリアの拳を取った。首当てに当たった指の皮が切れ、薄く血がにじんでいる。


「顔を狙うな」


「届かなかった」


「届かない場所を狙うからだ。身長差のある相手は足を狙え」


「足」


「膝を折れば、頭は勝手に下がる」


リリメリアはこくりと頷いた。


アリアは布を巻きながら続ける。


「それと、怒った時ほど周りを見ろ」


「周り」


「今、何人がお前を見ている」


リリメリアは顔を上げる。


町人。騎士。駐在。宿の主人。


みんながこちらを見ていた。


赤い目を。


騎士に殴りかかった小さな身体を。


それを庇ったアリアを。


「たくさん」


「そうだ」


アリアは布の端を結んだ。


「誰かのために動く時ほど、お前は目立つ。覚えておけ」


その後、宿へ戻ってから隊長はリリメリアの剣を見た。


朝よりひびが深く見えた。


「これはもう使えない。次に受ければ折れる」


リリメリアは剣を見る。


握り方を覚えた剣だ。


けれど、もう持ってはいけない。


「予備は?」


ロイが不安げに聞く。


エルナは首を横に振った。


「町にはありません。あってもリリの手に合うかは」


外では、王宮騎士団が井戸を封じるための板を運ぶ音が鳴り続けていた。宿の厨房でも水桶に布がかけられている。


隊長はしばらく黙った。


「王都までは無理をさせない」


その言葉を聞いても、皆不安そうだった。


リリメリアは少し考えてから顔を上げる。


「あの剣は?」


隊長の眉がわずかに寄った。


「どの剣だ」


「黒い剣」


沈黙が落ちる。


アリアがリリメリアを見る。


「あれに興味があるのか」


「うん」


「持ちたいのか」


「持ってみたい」


「理由は」


リリメリアは少し考えこむ。


「分からない」


アリアは隊長を見る。


「リリが自分で聞いた」


隊長は腕を組んだ。


「あれは危険性が分かっていない」


「うん」


「普通の武器じゃない」


「うん」


「嫌だと思ったらすぐ離せ」


「分かった」


黒い剣は荷の奥に包まれていた。


布を外しても、刃は黒いままだった。傷だらけなのに光を返さない。


リリメリアは柄に触れた。


温度がない。


重い。


身体には大きすぎるはずなのに、指が自然に場所を知っていた。


初めて持つ剣なのに、初めてではないようだった。


「重いか」


隊長が確認するように聞く。


「重い」


リリメリアは静かに答えた。


「でも、持てる」


アリアはリリメリアの手を見ていた。


「馴染んでいる」


隊長は何も言わなかった。


その夜は黒い剣を部屋へ持っていった。


寝台の横に置くと、部屋の中でそれだけが夜より黒く見えた。


眠ろうとして、リリメリアは窓際を見る。


猫がいた。


真っ白な猫だ。


大きくて、毛が長く、胸元も尾も雪の塊みたいにふくらんでいる。町で見る痩せた猫とは違う。水色の瞳だけが静かに開いていた。


その色を見た時、リリメリアは馬車の前と夢の中で会った白い女を少し思い出した。


窓は閉まっている。


扉も閉めた。


どこから入ったのか分からない。


「猫」


猫は鳴かなかった。


ただ、黒い剣とリリメリアを見ている。


リリメリアは近づいて、両手で猫を抱き上げた。


重い。


けれど猫は逃げなかった。特別に懐く様子もない。ただ、されるがまま腕の中に収まっている。


「あなたも、持てる」


猫は水色の瞳でリリメリアを見た。


それから小さく鳴いた。


「にゃあ」


リリメリアは黒い剣の横に猫を下ろした。


猫は丸くなる。真っ白な毛が、黒い剣のそばでふくらんだ。


リリメリアは布団に入る。


黒い剣は何も映さない。


猫は目を閉じている。

ここまでお読みいただきありがとうございます。


初執筆で設定だけ固めて文章を書いてます。


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感想もいただけると励みになります。


次回もよろしくお願いいたします。

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