視線の先
【主な登場人物】
リリメリア
旧帝都で見つかった記憶のない少女。調査隊と旅をしながら、言葉や感情や剣の扱いを少しずつ覚えていく。
隊長
調査隊を率いる男。大柄で声も大きく頼りになる。
リリメリアを発見物ではなく、保護すべき人として扱う。
アリア
調査隊の副隊長。口数は少ないが、周囲をよく見ている。
元近衛という経歴を持つが、王宮との関係にはどこか冷えたものがある。
ロイ
槍を使う調査隊員。
よく喋り、よく笑い、重くなりがちな場の空気を和ませる。
エルナ
金色の髪の魔術師。
真面目で手順やルールを重んじる。魔術や歴史に詳しい。
シエナ
調査隊の記録係。旧帝国語や古い記録を読み解く。
ミラ
調査隊の料理係。食事や包帯や日々の暮らしを支える人。
リリメリアは朝、剣のひびに気づいた。
宿の壁際に立てかけていた借り物の剣。
隊長から渡され、握り方を覚えた剣だ。
魔物を斬った日も、森を歩いた日も、訓練で手が痛くなった日も、その剣はリリメリアの手の中にあった。
けれど今は、刃の半ばに細い線が走っている。
魔術汚染の色はない。ただ長く使われた金属が、もう限界だと叫ぶようなひびだった。
リリメリアが指で触れようとした時、宿の外が騒がしくなった。
南井戸で、バルトが死んだ。
昨日、食堂に水桶を持ってきて、リリメリアの名前を呼び直してくれた男だ。
南井戸へ向かう道には、普段の町らしさがなかった。開いているはずの店の戸は半分だけ閉じ、軒先の桶には板が伏せられている。子供たちは井戸へ近づこうとして、母親に強く腕を引かれている。
南井戸の周りには町の人が集まっていた。
バルトは布をかけられて横たわっている。片手だけが布の外に出ていて、爪の下から羽毛のような白い結晶が伸びていた。
井戸の水は白く濁っている。
水門の警戒輪は鳴っておらず、封鎖の縄も破られていない。
エルナは井戸の縁に手をかざした。淡い光が水面の上で震え、形を保てずに散る。
「水門から漏れたなら、先に濁る井戸が他にあります」
シエナが記録帳を開く。
「南井戸だけが?」
「はい。ここは水門に一番近い井戸ではありません。途中の井戸が無事なのに、ここだけ濁るのはおかしい」
シエナが記録帳を開く。
「警戒輪は」
「鳴っていません」
「では、水が運んだのではなく」
シエナの筆が止まる。
「何かが水を選んだのかもしれません」
町人たちの間にざわめきが広がった。
誰かが桶を倒した。中は空だったが周りの者が一斉に足を引く。水という言葉だけが、もう怖がられているようだった。
リリメリアが顔を上げると誰かがこちらを見ている。
井戸ではなく、バルトでもなく、リリメリアの赤い瞳を見ている。
その視線は一つではなかった。
リリメリアが何か言う前に、アリアが半歩だけ前へ出た。リリメリアと町人たちの間に立つ。
「アリア?」
「見られている」
「何を?」
「お前を」
アリアは井戸ではなく、人の顔を見ていた。
「集団に見られている時は位置取りを考えろ」
「位置取り?」
「出口が見える場所にいろ。人の背中で道を塞がれるな」
「逃げるの?」
「逃げるためだけじゃない。逃げなくていいかを決めるためだ」
その時、町の北側から馬蹄の音がした。
王宮騎士団だった。
六人の騎士と二頭の荷馬。荷には封印用の板材と検水器、簡易結界杭が積まれている。
先頭の騎士が馬を降りた。
「王宮騎士団第三調査分隊、ガルド。報告を受けて来た。現場はここか」
隊長が頷く。
「南井戸だ。昨夜、井戸番が死んだ」
ガルドは舌打ちに近い音を鳴らした。
「進行が早いな。王都に報告が届く間にも悪くなっている」
「こちらもそう見ている」
ガルドの視線は井戸の縁、布の下に隠れた身体、白く濁った桶の順に移った。それから調査隊を眺め、アリアのところで止まる。
口元が嫌な形に曲がった。
「まだ生きていたのか」
アリアは、古い壁に打ち込まれた釘のように姿勢を変えなかった。
「王宮の影が、今は田舎町で井戸番か」
ロイが身構える。
井戸の縁で検査用の符を広げていたエルナの手も止まる。
ガルドは町人にも聞こえる声で笑った。
「昔はもっと似合う仕事をしていただろう。命じられた相手の部屋に入り、声を上げる前に黙らせ、朝には病死か事故に見せる。近衛の暗部の仕事をな」
アリアは答えない。
「表の近衛は王の前で剣を掲げる。裏の犬は命令があるまで吠えない。お前は後者だったな」
リリメリアはアリアを見た。
アリアは黙っている。
怒らない。言い返さない。
それが嫌だった。
アリアはいつもリリメリアの前に立つ。嫌な視線を向けられた時も、危ない物が近づいた時も。
そのアリアを、目の前の男は笑っている。
「お前に守られる子供も気の毒だな。守っているつもりで、いつか昔の癖が出るかもしれない。背中に立たれたら終わりだ」
リリメリアは走っていた。
小さな身体で騎士の懐に入る。拳を下から跳ね上げる。
狙ったのは顎だった。
けれど届かない。
首当てに当たり、鈍い音がして、拳に痛みが走った。
ガルドは一歩よろめき、すぐに顔を歪める。
「この小娘」
手がリリメリアへ伸びる。
その手首を、アリアが掴んでいた。
速かった。
誰も、いつ動いたのか分からない。
アリアはガルドの耳元で囁く。
「そこまで知っている相手を挑発するなんて、命知らずだな」
ガルドの笑っていた口元だけが残り、目の焦点が一瞬外れた。
「何を」
「私が何をしていたか知っているなら、何ができるかも分かるだろう」
アリアの指に力が入る。
「この子に触るな」
ガルドは手を引こうとしたが、動かない。
「次は手首では済ませない」
しばらくして、アリアは手を離した。
ガルドは手首を押さえて後ろへ下がる。さっきまでの笑みはもうなかった。
アリアはリリメリアの拳を取った。首当てに当たった指の皮が切れ、薄く血がにじんでいる。
「顔を狙うな」
「届かなかった」
「届かない場所を狙うからだ。身長差のある相手は足を狙え」
「足」
「膝を折れば、頭は勝手に下がる」
リリメリアはこくりと頷いた。
アリアは布を巻きながら続ける。
「それと、怒った時ほど周りを見ろ」
「周り」
「今、何人がお前を見ている」
リリメリアは顔を上げる。
町人。騎士。駐在。宿の主人。
みんながこちらを見ていた。
赤い目を。
騎士に殴りかかった小さな身体を。
それを庇ったアリアを。
「たくさん」
「そうだ」
アリアは布の端を結んだ。
「誰かのために動く時ほど、お前は目立つ。覚えておけ」
その後、宿へ戻ってから隊長はリリメリアの剣を見た。
朝よりひびが深く見えた。
「これはもう使えない。次に受ければ折れる」
リリメリアは剣を見る。
握り方を覚えた剣だ。
けれど、もう持ってはいけない。
「予備は?」
ロイが不安げに聞く。
エルナは首を横に振った。
「町にはありません。あってもリリの手に合うかは」
外では、王宮騎士団が井戸を封じるための板を運ぶ音が鳴り続けていた。宿の厨房でも水桶に布がかけられている。
隊長はしばらく黙った。
「王都までは無理をさせない」
その言葉を聞いても、皆不安そうだった。
リリメリアは少し考えてから顔を上げる。
「あの剣は?」
隊長の眉がわずかに寄った。
「どの剣だ」
「黒い剣」
沈黙が落ちる。
アリアがリリメリアを見る。
「あれに興味があるのか」
「うん」
「持ちたいのか」
「持ってみたい」
「理由は」
リリメリアは少し考えこむ。
「分からない」
アリアは隊長を見る。
「リリが自分で聞いた」
隊長は腕を組んだ。
「あれは危険性が分かっていない」
「うん」
「普通の武器じゃない」
「うん」
「嫌だと思ったらすぐ離せ」
「分かった」
黒い剣は荷の奥に包まれていた。
布を外しても、刃は黒いままだった。傷だらけなのに光を返さない。
リリメリアは柄に触れた。
温度がない。
重い。
身体には大きすぎるはずなのに、指が自然に場所を知っていた。
初めて持つ剣なのに、初めてではないようだった。
「重いか」
隊長が確認するように聞く。
「重い」
リリメリアは静かに答えた。
「でも、持てる」
アリアはリリメリアの手を見ていた。
「馴染んでいる」
隊長は何も言わなかった。
その夜は黒い剣を部屋へ持っていった。
寝台の横に置くと、部屋の中でそれだけが夜より黒く見えた。
眠ろうとして、リリメリアは窓際を見る。
猫がいた。
真っ白な猫だ。
大きくて、毛が長く、胸元も尾も雪の塊みたいにふくらんでいる。町で見る痩せた猫とは違う。水色の瞳だけが静かに開いていた。
その色を見た時、リリメリアは馬車の前と夢の中で会った白い女を少し思い出した。
窓は閉まっている。
扉も閉めた。
どこから入ったのか分からない。
「猫」
猫は鳴かなかった。
ただ、黒い剣とリリメリアを見ている。
リリメリアは近づいて、両手で猫を抱き上げた。
重い。
けれど猫は逃げなかった。特別に懐く様子もない。ただ、されるがまま腕の中に収まっている。
「あなたも、持てる」
猫は水色の瞳でリリメリアを見た。
それから小さく鳴いた。
「にゃあ」
リリメリアは黒い剣の横に猫を下ろした。
猫は丸くなる。真っ白な毛が、黒い剣のそばでふくらんだ。
リリメリアは布団に入る。
黒い剣は何も映さない。
猫は目を閉じている。
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