大きすぎる言葉
【主な登場人物】
リリメリア
旧帝都で見つかった記憶のない少女。調査隊と旅をしながら、言葉や感情や剣の扱いを少しずつ覚えていく。
隊長
調査隊を率いる男。大柄で声も大きく頼りになる。
リリメリアを発見物ではなく、保護すべき人として扱う。
アリア
調査隊の副隊長。口数は少ないが、周囲をよく見ている。
元近衛という経歴を持つが、王宮との関係にはどこか冷えたものがある。
ロイ
槍を使う調査隊員。
よく喋り、よく笑い、重くなりがちな場の空気を和ませる。
エルナ
金色の髪の魔術師。
真面目で手順やルールを重んじる。魔術や歴史に詳しい。
シエナ
調査隊の記録係。旧帝国語や古い記録を読み解く。
ミラ
調査隊の料理係。食事や包帯や日々の暮らしを支える人。
リリメリアは夢を見た。
そこは旧帝都の教会跡。
屋根は落ち、祭壇は割れ、床石の隙間から白い花と淡く赤い花が咲いている。けれど風はなく、花は揺れない。
崩れた壁の向こうには、折れた塔がいくつも並んでいた。空は夜でも朝でもなく、灰を薄く溶かしたような色をしている。
黒い剣が、祭壇の前に置かれていた。
鞘はない。傷だらけの刃は、夢の中でも光を返さない。
そのそばに、白い女が立っていた。
白い服。長い銀髪。水色の瞳。
前に会った時と同じように綺麗で、同じように人の温度がなかった。
そこにいるのに、そこにいない。
夜が人の形を覚えてしまったような女だった。
女はリリメリアの手を見た。
「剣は握れるようになった?」
前にも聞かれた言葉だった。
リリメリアは自分の手を見る。
昨日、その手は酒場で皿を運んだ。その前の日は米を研ぎ、豆腐を崩さないように混ぜた。
薪を抱え、器を受け取り、地図の上の小石を動かした。
剣を握った日もある。魔物を斬った日もある。
けれど、その手は剣だけのものではなかった。
「あなたの言った通りにはならなかった」
白い女は少しだけ首を傾ける。
「何が?」
「大事なものは、斬らなかった」
女はリリメリアを見た。
怒らない。笑わない。驚きもしない。
ただ、夢の奥まで見通すように静かだった。
「今日は、ね」
「明日も斬らない」
リリメリアはハッキリと言った。
女は黒い剣へ視線を落とす。
「そう願うなら、持っていくといい」
「剣を?」
「剣も。斬らないと決めたことも」
「決めたことも、持てるの?」
「大事に持っておかないとすぐ落としちゃうよ」
リリメリアがもう一度自分の手を見た時、夢から覚めていた。
ここは教会跡ではない。旧帝都でもない。
調査隊のみんなが王都へ戻る途中で泊まっている、小さな町の宿だった。
リリメリアは布団の中で、自分の手をもう一度見た。
手は震えていない。それが良いことなのか悪いことなのか、まだ分からない。
朝食の後、宿の食堂には地図が広げられていた。
昨日の酒場は町の通り沿いにある店でここからは遠い。
それでもリリメリアの耳には、あの男の声が少し残っていた。
偉大なる旅の英雄や王様や古代の竜。
人食いの魔女や白い天使。
どれも大きな言葉だ。
エルナは地図の端を整えながら、リリメリアを手招きした。
「王都へ戻る前に、最低限の歴史を覚えておきましょう」
「歴史」
「今いる場所と、これから行く場所。それから、あなたが見つかった場所のことです」
食堂の端で水を飲んでいたロイが、あからさまに嫌な顔をした。
「歴史の授業か。候補兵時代を思い出すな。俺は三回寝た」
「四回です」
エルナは即答した。
「よく覚えてるな」
「ロイが机に額をぶつけた回数です」
ロイは椅子の背に手をかけたまま、リリメリアに片目をつぶる。
「リリ、眠くなったら俺を呼べ。逃げる手伝いくらいはしてやる」
「寝ない」
「偉いな。俺よりずっと見込みがある」
ロイは口元をにやつかせたまま食堂から出ていった。
エルナは何も言わず、地図の上に小石を三つ置く。
「ここが今いる町です。ここが王都。そして、ここが旧帝都です」
三つ目の小石は、地図の端に近い場所へ置かれた。
「旧帝都と王都は、違うの?」
「違います。旧帝都は、かつて世界を支配した統一帝国の中心でした。王都は、今この国の中心です」
「中心は、何度も変わる?」
「変わります。人がいなくなれば、そこは中心ではなくなります」
リリメリアは三つ目の小石へ指を伸ばしかけて、途中で止めた。
旧帝都には人がいない。塔は折れ、門だけが立ったまま残り、灰の積もった道には足音も話し声も戻らない。その死んだ街の教会跡で、自分は見つかった。
「旧帝都は、死んだ中心」
そう言うと、エルナは少しだけ目を伏せた。
「そう言っても、間違いではありません」
「王都は、今の中心」
「はい」
「みんなが戻る場所?」
「はい。調査隊が報告を持ち帰る場所でもあります」
戻る場所。
リリメリアには、まだその言葉が少し遠い。
けれど地図の上なら、今いる町から王都へ線を引ける。旧帝都も、王都も、戻る場所も、少しだけ置き場所ができた。
「では、白災について」
エルナは地図の上に手を添えた。その手つきは、魔術式を確認する時に似ていた。
「白災は八百年前に起きた大災厄です。統一帝国はそれによって滅びました。多くの都市が失われ、人も記録も技術も消えました」
「全部?」
「全部ではありません」
横から声がした。
シエナが記録帳と紙束を抱えて通りかかったところだった。
「全部消えていたら、私たちは白災という名前も知りません」
エルナは少し困った顔をする。
「シエナ。今はリリに教えているところです。難しくしないでください」
「簡単にすると、間違ったまま覚えることがあります」
シエナは真面目な顔でそう言った。
エルナは一度口を閉じる。
「……それは、そうです」
シエナは机の横に立ち、地図を覗き込む。
「白災で統一帝国は滅びた。そう言っても大きくは間違いではありません。ただ、白災の前から帝国が無傷だったわけではないようです。戦争、魔術汚染、天使被害、都市の喪失。断片記録を見る限り、帝国はいくつもの傷を重ねて滅びへ向かった可能性があります」
「滅びにも、順番がある?」
リリメリアが聞くと、エルナが頷いた。
「あります。歴史は順番を間違えると意味が変わります。先に何があって、後に何が起きたのか。そこを間違えると、原因と結果が入れ替わります」
「魔術みたい」
「そうです。魔術も手順を間違えれば失敗します。歴史も同じです」
「白災があって、還夜暦が始まった」
リリメリアは聞き覚えのある言い方を口にした。
エルナは首を横に振る。
「それだけでは正確ではありません」
「違うの?」
「白災が終わり、夜が戻った。だから還夜暦です。白災が始まった年ではなく、夜が戻った後の数え方です」
リリメリアは窓の外を見た。
今は朝で、食堂の床には淡い光が落ちている。夜はここにない。けれど夜は今日も来る。
「夜は、なくなっていたの?」
「そう記録されています」
シエナは紙束の端を揃えながら答えた。
「ただし、どの範囲で、どれほどの期間だったかは記録によって差があります。白災末期の記録は欠損が多いので」
「分からないところもある」
「はい。分からないところもあります」
リリメリアは頷いた。
それはもう知っている。分からないところも、分からないから書く。
「旧帝都の人は、悪い人だったの?」
その問いは、自然に口から出た。
エルナはすぐには答えなかった。
「分かりません」
「滅びたのに?」
「滅びたことと、悪かったことは同じではありません」
リリメリアはその言葉をゆっくり飲み込んだ。
滅びたから悪かったわけではない。悪かったから滅びたとも、まだ決められない。
「じゃあ、王都はいい人?」
エルナは困ったような顔をした。
「国を、いい人や悪い人で分けるのは難しいです」
「人は?」
エルナは少し黙った。
「……人も、たぶん」
シエナは何も言わなかった。ただ、記録帳を抱える手に少し力が入った。
「王都には、王立白災観測所があります」
エルナは話を戻す。
「白災、旧帝国遺物、天使性反応、魔術汚染。そういったものを観測し、記録し、照合する機関です」
「エルナは行ったことある?」
「一度だけ。旧帝都へ出る前の報告会で、隊長たちと同席しました。そこに獣人の若い所長がいました」
「獣人」
「狐耳の方です。少し変わっていました。眠そうで、飲み物に砂糖をかなり入れる方でした」
「すごい人?」
「すごい人です」
エルナが言うより先に、シエナが答えた。
「旧帝国語、考古学、魔術史、白災反応。その全てを一人でつなげて考える方です。あれほど広く読める研究者を、私は他に知りません」
エルナも頷いた。
「こちらの報告書を一度読んだだけで、隊長が言い忘れた箇所を指摘しました。私たちが三日かけて整理した異常地点の並びを、紙一枚でつなげてしまった」
「怖い人?」
「少し」
エルナは正直に答えた。
「人を見るというより、世界の仕組みを見ているような目をしていました」
シエナは少し考える。
「けれど、冷たいだけの方ではないと思います。会議で誰かが、帝国の遺跡で見つかったものをまとめて遺物と呼んだ時、その言葉を嫌がりました」
「個体」
「生き物かもしれないものを、最初から物のように呼べば、物としてしか見えなくなる。そういう意味だったのだと思います」
リリメリアは地図の上の小石を見たまま、しばらく動かなかった。
自分は発見物として記録された。
けれどミラは物ではないと言った。隊長も、発見物ではないと何度も言った。
言葉を間違えると、見るものまで間違える。
その時、食堂の入口から水桶を持った男が顔を出した。
宿の裏手の井戸番だった。
名をバルトという。昼と夜に井戸から水を汲み、水桶を宿や近くの店へ運んでいる。
「勉強か。偉いな、お嬢ちゃん」
リリメリアは顔を上げる。
「リリメリア」
「ん?」
「お嬢ちゃんじゃない。リリメリア」
バルトは少し驚いたあと、歯を見せて笑った。
「そうか。じゃあリリメリア。頑張れよ」
「うん」
バルトは水桶を厨房の前へ置き、手を振って出ていった。
エルナは地図の小石を片付ける。
「今日はここまでにしましょう」
「まだ覚える言葉はある?」
「とてもたくさん」
「じゃあ、明日も覚える」
エルナは少しだけ笑った。
「はい。明日も覚えましょう」
夕方、リリメリアは宿の厨房でミラの手伝いをした。
鍋の中では豆と野菜が煮えている。今日は辛い料理ではない。透明な湯気に、塩と肉の匂いが混じっていた。
「今日は勉強だったんだって?」
「うん。歴史は難しい」
リリメリアは切った根菜を皿へ移す。
「でも、夕飯は分かる」
ミラは器を並べながら笑った。
「難しい言葉は全部覚えなくてもいいよ。リリが食べて、眠って、明日も起きる。それだけでも昨日の続きで、明日の前になる」
「昨日の続き」
「そう。リリは今日もちゃんと続いてる」
自分はどこから来たのか知らない。
けれど昨日の自分はいる。今日の自分もいる。明日も起きるなら、たぶん続きになる。
「それなら、分かる」
リリメリアが言うと、ミラは満足そうに頷いた。
その夜、町の南井戸では、バルトが桶を下ろしていた。
旧導水施設の水門からは離れている。
封鎖の縄も、灰色の警戒輪もここからは見えない。
南井戸は町の者が毎日使う場所だった。朝には女たちが水を汲み、昼には子供が覗き込み、夕方には宿の者が桶を抱えてくる。
バルトは欠伸をしながら縄を引いた。
桶が水に触れる音がした。
けれど、その音は少し遅れて聞こえた。
「何だ」
引き上げた桶の中で、水が白く濁っていた。
月明かりを受けた水面に、羽毛のような白い粉が浮いている。
灰かと思った。
指で掬おうとする。
冷たい。
そう思った時には、指先の感覚が消えていた。
バルトは声を出そうとした。
喉から漏れたのは、水を含んだような音だけだった。
水のない場所で、また何かが落ちる音がした。
翌朝、バルトは井戸のそばで見つかった。
息はない。
片手は桶の縁を掴んだまま白く固まり、爪の下から羽毛状の結晶が伸びていた。
井戸の水面には、薄い白い粉が浮いている。
水門の警戒輪は鳴っていなかった。
封鎖の縄も破られていなかった。
水は、封鎖した場所から流れてきたのではなかった。
何かが、人の暮らす場所の底に、白い返答を落としていた。
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