酒場に英雄がやってきた
【主な登場人物】
リリメリア
旧帝都で見つかった記憶のない少女。調査隊と旅をしながら、言葉や感情や剣の扱いを少しずつ覚えていく。
隊長
調査隊を率いる男。大柄で声も大きく頼りになる。
リリメリアを発見物ではなく、保護すべき人として扱う。
アリア
調査隊の副隊長。口数は少ないが、周囲をよく見ている。
元近衛という経歴を持つが、王宮との関係にはどこか冷えたものがある。
ロイ
槍を使う調査隊員。
よく喋り、よく笑い、重くなりがちな場の空気を和ませる。
エルナ
金色の髪の魔術師。
真面目で手順やルールを重んじる。魔術や歴史に詳しい。
シエナ
調査隊の記録係。旧帝国語や古い記録を読み解く。
ミラ
調査隊の料理係。食事や包帯や日々の暮らしを支える人。
夕方になる前から、宿の酒場は騒がしい。
ロイとアリアとエルナ、それからリリメリアは、少し早い夕食を取るつもりで席についていた。
旧導水施設の封鎖で、町では見回りが増えている。
その分、酒場の手が足りない。
水門の周りには近づくなと伝えたせいで、逆に何があったのか聞きに来る客も増えていた。
店主は厨房と客席の間で何度も足を止め、ついに調査隊の席へ困った顔を向ける。
「悪いが、少し手を貸してくれないか。今日だけでいい」
「よし」
ロイが真っ先に立ち上がる。
「調査隊の出番だな」
エルナが顔を上げた。
「調査隊は酒場の人員ではありません」
「似たようなもんだろ。人に話を聞く。物を運ぶ。危ないものを落とさない」
「似ていません」
そう言いながらも、エルナはもう袖を留め直している。
リリメリアも椅子から降りた。
「何をすればいい?」
「まずは皿だな」
ロイが空の皿を二枚持たせてくる。
「落とすな。割るな。分からなかったら笑っとけ」
「最後のは、仕事なの?」
「仕事だ。何も分からなくても笑顔ならそれで良い」
リリメリアは皿を持ったまま、少し笑ってみる。
ロイは満足そうに頷いた。
「よし。今のは、何も分かってないけど害はなさそうな顔だ」
「褒めてる?」
「酒場では褒めてる」
「酒場以外では?」
「言わない方がいい」
「じゃあ、褒めてない」
「鋭くなったな」
エルナは二人の横を通り過ぎながら、客席の数を数えている。
「ロイさん。笑っていればいいというものではありません。注文を間違えたら迷惑です」
「エルナは真面目だな」
「仕事ですから」
「酒場で作戦会議の時みたいな顔してる」
「接客です」
「もう少しだけ、肩の力を抜いてもいいんじゃないか」
エルナは一瞬だけ口を結ぶ。
それから頬をほんの少し赤くして、無理に整えた笑顔を作った。
「ご注文をお伺いします」
近くの客が少し背筋を伸ばす。
ロイが小さく吹き出した。
「ほら、討伐されそうだろ」
「ロイさん」
今度ははっきり睨まれた。
リリメリアは客席を見回す。
酒の匂いと肉の焼ける匂いが重なり、注文を待つ客の指が机を叩いている。笑い声が起きるたびに、杯の中の水面が小さく揺れる。さっきまで座っていた席も、今はもう酒場の流れの一部に見える。
アリアは店主の横で酒を作っている。
慣れた様子ではないが杯を満たす手は乱れない。
客が笑えば音の端を拾うように目を動かし、扉が鳴れば、ほんの一瞬だけそちらを見る。そこにいるのに、客たちはアリアをほとんど見ない。ロイが調子に乗りすぎた時だけ、鋭い視線がすっと向けられる。
ロイはそのたびに、少しだけ姿勢を正した。
「アリアも手伝うんだ」
リリメリアが言うと、アリアはこちらを見ずに答える。
「店主に頼まれた」
「周りを見てるのは?」
「ついでだ」
「何を?」
「色々」
リリメリアには、その色々がまだ全部は分からない。
酒場は少しずつ熱を帯びていく。
ロイはよく喋った。
赤い帽子の老人には、いつもの席を取っておいたと笑う。
「取っておいた顔をするな。いつもの席だろうが」
老人が、鼻を鳴らして言う。
「じゃあ、店ごと爺さんの指定席だな」
「そこまでは言っとらん」
「煮込みは?」
「今日は魚だ」
「本当に?」
「昨日、魚にすると言った」
「聞いてた聞いてた。確認だよ」
「嘘をつけ」
老人は文句を言いながらも、口元だけは緩んでいた。
ロイは魚の皿を置き、水も一緒に足していく。
相手が誰でも、少しだけ言葉をずらして返す。
強くなりかけた声が、ロイの一言でふっとほどけることがある。リリメリアは皿を抱えたまま、その変化を目で追っていた。怒っていたはずの顔が、少しだけ緩む。笑うつもりのなかった人が、仕方なさそうに笑う。
ロイは、誰とでも話せる。
それは剣や魔術とは違う、別の技術のように見えた。
リリメリアも、ロイの真似をして皿を運ぶ。
最初のうちは、卓の番号と客の顔がうまく結びつかなかった。
「三番卓」
「どこ?」
「今こっちを見て、腹が減った顔をしてる二人組」
「腹が減った顔」
リリメリアは客席を見る。
二人組の男が、同時に手を上げた。
「たぶん、あそこ」
「正解」
皿を置くと、片方の男が目尻を緩めた。
「ありがとよ、嬢ちゃん」
「嬢ちゃん」
リリメリアは小さく繰り返す。
ロイが皿の向こうから助け舟を出す。
「そこは、どういたしましてでいい」
「どういたしまして」
リリメリアはそう言いながら少しだけ笑ってみる。
二人組は顔を見合わせ、それから、今度はさっきよりも柔らかく笑った。
何がそんなに良かったのかは、まだ分からない。
けれど、皿を置いた後の空気が少し軽くなるのは分かった。
客席の隅では、すでに酔った旅人風の男が上機嫌に喋っている。
「今日も英雄譚を聞かせてくれよ」
ロイが杯を置きながら言う。
男は待ってましたとばかりに杯を掲げた。
「いいだろう。西の森では人食い魔女に求婚され、古い竜の顎を蹴り上げ、白い天使の鼻を明かしてきた」
「多いな」
「英雄は忙しい」
「昨日は魔女だけじゃなかったか?」
「昨日は序章だ」
「竜の顎って、どこにあるんだよ」
「竜についている」
「それはそうだ」
笑いが卓から卓へ転がっていく。
男は少しも気にせず続ける。
「分かっていないな。魔女も竜も天使も、俺くらい偉大でなければ相手にならない」
「明日は王様でも助けるのか」
奥の卓から、酒の回った声が飛ぶ。
男は胸を張った。
「王様が困っていればな」
「まず自分の昨日の会計を助けろ」
店主が言うと、酒場はまたどっと笑った。
夜が深くなり、客が少しずつ減っていく。
最後に男が立ち上がった。
「良い酒だった」
店主が帳面を出す。
「会計だよ」
男は腰の袋を探る。
硬貨が数枚、机の上に転がった。
店主は帳面と硬貨を見比べ、足りない分を数える前から答えを知っているような顔をした。
「……足りないね」
「少しだけか?」
「だいぶだ」
「ならば、名誉で払おう」
「名誉は昨日も置いていったね」
「つまり信用がある」
「借りがあるんだよ」
客席から笑いが漏れる。
けれど店主は、にこりともしなかった。
「今日はだめだ。昨日の分もまだ残ってる」
「英雄の勘定は大きくなるものだ」
「酒代も大きくなってるよ」
「ならば後日まとめて」
「今日まとめる」
店主は帳面をぱたんと閉じた。
「払えないなら詰所だ」
「待て。俺は食い逃げをしたわけではない」
「今からする顔をしてる」
「顔で決めるな」
「財布の中身で決めてる」
そこで男は、芝居がかったため息をついた。
「手荒なことはしたくないが」
そう言って、杖に手を伸ばした。
その瞬間、エルナが半歩前に出る。
ロイもリリメリアの前に立つ。
店主が後ろへ下がった。
酒場の空気が少しだけ変わる。
男は杖を掲げた。
「偉大なる魔術師の力を――」
その言葉は最後まで形にならなかった。
背後から振り下ろされた酒瓶が、乾いた音を立てて男の頭を打つ。
次の瞬間には、糸を切られた人形のように膝が折れ、彼は机の横へ崩れ落ちていた。
アリアが空になった瓶を手にしている。
いつの間にそこにいたのか、リリメリアには分からなかった。
さっきまでアリアは、店主の横にいたはずなのに。
酒を注ぎ、杯を片付け、客席を見ていたはずだが今は、男の背後にいる。
誰にも気づかれないまま。
「本物の大魔術師だったらどうするんだよ」
ロイが倒れた男を見下ろし、眉を上げて言う。
アリアは、役目を終えた道具を戻すように、瓶を静かに卓へ置いた。
「本物なら、あの距離で杖を出す前に魔力が動く」
「そういうもんなのか」
「そういうものだ」
アリアは倒れた男を一瞥する。
「自称魔術師のくせに魔力が弱すぎる。酔ったホラ吹きだ」
「瓶で殴る前に分かってたんだな」
「分かっていたから止めた」
「手荒だなあ」
「食い逃げされるよりいい」
しばらくして、呼ばれた駐在がやって来た。
男は縄で軽く縛られ、まだ半分眠ったまま引き起こされる。
「俺は……英雄だぞ」
「はいはい、英雄さん。続きは詰所で聞くよ」
駐在が慣れた様子で言う。
「俺を縛るとは、良い度胸だ」
「歩けるか?」
「英雄は歩く」
男はふらふらと歩き出し、すぐに駐在に支えられた。
店の外へ連れていかれる直前、彼は客席へ向かって叫ぶ。
「覚えておけ。俺は偉大なる旅の英雄だ!」
ロイが手を振る。
「次は金を持ってこいよ」
「英雄を金で測るな!」
扉は閉じた。
外の冷たさが断たれ、酒場の中に焼けた肉と酒の匂いが戻ってくる。
少し遅れて、笑いも戻った。
「無銭飲食の英雄様とは困ったもんたな」
店主が帳面を見たまま言う。
ロイは肩をすくめた。
「少し出すよ。あとは詰所でどうにかしてもらおう」
「英雄に?」
リリメリアが、扉の方を気にしたまま聞いた。
「自称だからな」
ロイはにやりと笑いながら言う。
その後ロイは別の卓に呼ばれ、エルナは間違えられた注文を正しに行った。
リリメリアもまた皿を持つ。
笑うタイミングはまだ少し遅れる。
それでも、さっきよりは客の顔を見られるようになっていた。
その夜、酒場は遅くまで明るかった。
同刻、北の水門では見張りがランプを掲げる。
封鎖の縄も、警告札も、灰色の警戒輪も、昼に見た時と変わらない。
崩した水門の前を一通り確かめた見張りは、帳面に異常なしと書きつける。
その背後、ランプの光が届かない石組みの継ぎ目だけが一度だけ白く湿る。
音はない。警戒輪も揺れない。
影の中に溜まった白い粉は、風が吹けば消えるほど薄く、見張りが振り返った時には石の色と見分けがつかなくなっていた。
水のない場所で、何かがまた、ぽたりと落ちた。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
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