第三歪曲観測室
【主な登場人物】
リリメリア
旧帝都で見つかった記憶のない少女。調査隊と旅をしながら、言葉や感情や剣の扱いを少しずつ覚えていく。
隊長
調査隊を率いる男。大柄で声も大きく頼りになる。
リリメリアを発見物ではなく、保護すべき人として扱う。
アリア
調査隊の副隊長。口数は少ないが、周囲をよく見ている。
元近衛という経歴を持つが、王宮との関係にはどこか冷えたものがある。
ロイ
槍を使う調査隊員。
よく喋り、よく笑い、重くなりがちな場の空気を和ませる。
エルナ
金色の髪の魔術師。
真面目で手順やルールを重んじる。魔術や歴史に詳しい。
シエナ
調査隊の記録係。旧帝国語や古い記録を読み解く。
ミラ
調査隊の料理係。食事や包帯や日々の暮らしを支える人。
部屋は小さかった。
工房というより観測室に近い。
壁際には壊れた棚があり、そこには割れた採取瓶や腐った革紐が散らばっていた。
机の上には乾いた紙片が散っている。
導水路側の壁には細長い窓があり、先ほどの通路を見下ろせるようになっていた。
隠密に汚染の進み方を観察するための部屋。
リリメリアにはそう見えた。
壁に金属の銘板が残っている。
錆びていて、リリメリアには模様のようにしか見えなかった。
けれどシエナは近づくと、指先で埃を払い、文字のくぼみを確かめた。
「旧帝国語ですね」
エルナも横から覗き込む。
「少しなら読めます。……国家、錬成……?」
「国家錬成局」
シエナが声に出して読んだ。
「第三歪曲観測室」
その下に、もう一枚の小さな銘板があった。
シエナは少し時間をかけて、そちらも読む。
「導水路観測区、第六号」
「魔術院ではないの?」
リリメリアが聞く。
エルナが首を横に振る。
「古い術式史には、魔術院という組織が出てきます。術式や結界を扱っていた場所です。でも錬成局は、もっと物や身体に近い分野だったはずです」
身体、その言葉だけが部屋の冷たい空気に馴染みすぎていた。
リリメリアは自分の腕を見た。
白い肌と小さな手。自分が何なのか知らない身体。
「リリ?」
エルナの声で、リリメリアは顔を上げた。
「大丈夫」
「体調が悪いなら、すぐ言ってください」
「うん」
エルナはそれ以上聞かなかった。
机の上に、金属板が一枚残っていた。
薄い板で端が欠けている。
そこにも旧帝国語の文字が刻まれていた。
シエナが慎重に持ち上げる。
「記録片ですね。かなり古いですが、読めます」
「内容は」
隊長が問う。
シエナは埃を払い、魔術灯の光にかざした。
その表情が少しずつ変わっていく。
好奇心から、警戒へ。警戒から、困惑へ。
「読み上げます」
紙に墨を落とす前のように、静かで、慎重な声だった。
「ただし旧帝国語です。欠けている箇所と、訳し切れない箇所があります」
「分かる範囲でいい」
隊長が言った。
シエナは一度頷き、板に刻まれた文字を読み始めた。
記録片。
国家錬成局、第三歪曲観測室。
導水路観測区、第六号。
分類、局所歪曲反応観測。
記録者、国家錬成局局長、メルキオル・アストレイン。
「知っている名か」
隊長が聞いた。
「名前だけなら」
シエナは目を細めた。
「旧帝国官制録の欠損写本に、アストレイン姓がありました。役職名までは確かめられませんでしたが、錬成局の高位官だったはずです」
「続けろ」
「はい」
シエナは金属板へ視線を戻した。
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地下導水路跡における魔術汚染の停滞を確認。
導水路としての機能はすでに失われている。
にもかかわらず、魔力は流出せず、同地点へ戻る性質を示す。
通常、水脈は魔力を薄める。
だが本地点では逆に、魔力が沈み、澱み、折り重なっている。
循環ではなく、停滞である。
停滞が一定値を超えた場合、周辺生物に変質反応あり。
鼠、魚、羽虫に白化傾向。
骨格の軽量化。
眼球肥大。
羽毛状結晶の発生。
これらは既存の魔術汚染症状とは一致しない。
天使性反応との類似を確認。
ただし、顕現には至らず。
歪みが足りない。
追加条件として、死者密度、祈祷痕、命素偏在のいずれかを重ねる必要がある。
村落規模では不安定。
砦規模では反応が浅い。
都市規模であれば、あるいは。
以下、欠損。
追記。
本観測地点を不用意に浄化しないこと。
歪みは消すだけでは意味がない。
測り、重ね、返答を見ること。
世界は、歪みに対して何かを返す。
その返答が何であるかを、我々はまだ知らない。
だが、返答があるならば、再現は可能である。
===============
読み終えた後、しばらく誰も口を開かなかった。
導水路の奥から、風のようなものが流れてくる。
風ではなく、空気が動いているだけだ。
それなのに、リリメリアには何かの呼吸のように聞こえた。
「天使性反応」
エルナがいつもより少し沈んだ声で言う。
「八百年前から、こういう記録があったんですね」
隊長は金属板を見つめていた。
「持ち帰る」
「王都へ送りますか」
シエナが聞く。
「ああ」
隊長は少しだけ間を置いた。
「それと、隊でも写しを保管する」
「王都が、すでに知っている可能性は?」
エルナの問いに、隊長はすぐ答えなかった。
水のない導水路に沈黙が落ちる。
「だとしても、俺たちの仕事は記録することだ」
その言葉に、シエナが顔を上げた。
彼女は一瞬だけ、嬉しそうに見えたが、すぐに真面目な顔に戻る。
「はい。記録します」
リリメリアは、金属板の最後の一文を見ていた。
世界は、歪みに対して何かを返す。
返答。その言葉だけが、妙に残った。
何が返ってくるのだろう。
「奥を見る」
隊長が言った。
「短く済ませるぞ」
観測室の奥には、細い扉があった。
完全な部屋ではなく、保管庫のようだった。
中には割れた瓶、腐った木箱白く粉を吹いた布等がらくたばかりだった。
壁には観測線がいくつも引かれていた。
日付は読めない。
ただ、線は下から上へ伸びていた。
白い結晶が、年々増えていった記録なのだとシエナは分析する。
リリメリアは奥の壁を見た。
白い結晶が、そこだけ丸く集まっている。
人の顔ほどの大きさで中心が窪み目のように見えた。
本物の目ではなく、ただの模様だ。
けれど、見られている気がした。
リリメリアは無意識のうちに腰の剣に触れる。
「リリ」
隊長が呼んだ。
「戻るぞ」
「うん」
リリメリアは手を離した。
結晶の目は、動かない。
動かなかったのに、背中を向けるのが嫌だった。
部屋を出る前に、隊長はもう一度観測室を見回した。
「浄化はしない」
エルナが小さく頷く。
「この記録片のせいですね」
「ああ。不用意に浄化するなとある。理由が分からない以上、下手に焼き払えば何が起きるか分からない」
「入口の封鎖ならできます。中の流れを止めるというより、人や魔物が出入りしにくくする程度ですが」
「それでいい。町には近づくなと伝える。王都へは急報を出す」
シエナがすぐに書き留めた。
「旧導水施設、異常確認。小型魔物は処理。根本浄化は保留。入口を簡易封鎖し、町側へ立入禁止を要請。王都へ急報」
隊長は頷いた。
「解決したわけじゃない」
その言い方は、誰に向けたものでもなかった。
けれど、リリメリアには少しだけ分かった。
ここにあるものは、いまの四人だけで終わらせられるものではない。
だから持ち帰り、残す。
だから誰かに渡す。
それも調査隊の仕事なのだと、たぶん隊長は言っている。
帰り道、エルナは何度も振り返った。
魔術灯の光が壁を撫でるたび、白い結晶が小さく光る。
シエナは金属板を布で包み、革袋へ入れた。
まるで割れやすい皿を扱うかのように慎重だった。
隊長は一度も足を止めない。
分配槽の辺りで、エルナが短い封鎖術式を置く。
赤い光ではなく、鈍い灰色の輪だった。
魔物を焼くためではなく、何かが近づいた時に音を鳴らすための、簡単な警戒の印だという。
入口まで戻ると、隊長とエルナは水門の内側を崩した。
完全には塞げなかったが、それでも人が気軽に入れる隙間はなくなった。
地上へ出ると、夕方で空は薄い橙色に染まり、遠くで帰灯鳥が鳴いていた。
外の風は冷たいがその冷たさには流れがあった。
頬を撫で、草を揺らし、畑の土の匂いを運んでいく。
導水路の奥で澱んでいたものとは違った。
宿へ戻る前に、隊長は町の詰所へ寄った。
旧導水施設には近づかないこと。
子供を遊ばせないこと。
家畜が逃げても追って入らないこと。
正式な調査隊の再派遣が来るまで、水門周辺を封鎖すること。
それだけを詳しい理由は言わずに短く伝えた。
宿へ戻る頃には、食堂の竈に火が入っていた。
入口の近くでミラが皿を拭いている。
リリメリアの顔を見ると、少し手を止めた。
「……おかえり。冷えた顔してるね」
リリメリアは答えようとして、うまく言葉が出なかった。
白い結晶と大きな目。水のない水路。
世界は、歪みに対して何かを返す。
どれを言えばいいのか分からなかった。
するとミラは、それ以上聞かなかった。
「手を洗っておいで。湯、残してあるから」
そう言って、湯の入った桶を指差した。
この前料理を一緒にした時と同じ声でリリメリアは少しだけ安心した。
夜。
食堂の隅で、シエナは記録を写していた。
他の隊員たちはそれぞれの仕事をしている。
厨房からは、ミラが鍋を洗う音がした。
外では風が窓を揺らしている。
リリメリアはシエナの向かいに座った。
机の上には、金属板の写しが広げられている。
シエナは薄紙の上から文字をなぞり、欠けた部分は欠けたまま写していた。
「そこ、分からないの?」
リリメリアが聞く。
「はい。欠けていますから」
「分からないところも、書くの?」
「書きます」
「分からないのに?」
「分からないからです」
シエナは筆を止めなかった。
その横顔は、いつもの彼女より少し静かだった。
「今の私に分からなくても、後の誰かには分かるかもしれません。記録は、答えを残すためだけのものではありませんから」
「じゃあ、何のため?」
シエナはそこで筆を止めた。
少し考える。
考えながら、指についた墨を布で拭った。
「残すためです」
「残す」
「はい」
シエナは写しの端を押さえ、乾き具合を確かめた。
「人も、町も、いつかは無くなります。でも、書いておけば少しだけ残ります。完全ではなくても、誰かが続きを読めます」
「消えたら、終わりじゃないの?」
「終わりです」
シエナはあっさり言った。
そして、当たり前のことを言うように続けた。
「たとえば今日、私たちが見たものを誰にも話さず、書きもせずにいたら、あの部屋はただの古い部屋です。でも記録すれば国家錬成局やメルキオルという名前が残る。導水路観測区の第六号も、あの変な鼠も残ります」
「残ったら、どうなるの?」
「分かりません」
シエナは少し笑った。
「でも、残らなければどうにもなりません」
食堂の灯りが、写しの紙を黄色く照らしている。
その上に、メルキオルという知らない人の名前がある。
八百年前に書かれたらしい言葉が、今ここにある。
それは少し不思議だった。
「シエナは」
リリメリアは聞いた。
「自分のことも書くの?」
「必要があれば」
「必要?」
「たとえば、今日のリリさんのことは書きます」
「私?」
「はい。隠し扉を見つけたこと。水のない場所で水音を聞いたと言ったこと。白色結晶の模様を見て反応を示し、剣に手を触れたこと」
「それも書くの?」
「もちろん」
リリメリアは少し困った。
「変じゃない?」
「変です」
シエナは即答した。
リリメリアが黙ると、シエナは慌てたように続けた。
「悪い意味ではありません。調査隊でいう変は、重要という意味です」
「だいたい褒め言葉?」
シエナは目を伏せて、口元だけで笑った。
紙の上の文字が乾くのを待つような、静かな笑い方だった。
「はい。だいたい褒め言葉です」
二人は少しだけ笑った。
シエナは紙の下部に、新しい記録を書き足す。
調査隊記録係シエナ写し。
現地にて白色結晶を確認。
小型魔物に白化、眼球肥大、羽毛状結晶を確認。
旧記録片より、国家錬成局およびメルキオル・アストレインの名を確認。
旧導水施設入口を簡易封鎖。
町側へ立入禁止を要請。
リリメリアが異常感覚を示した可能性あり。
要再調査。
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