水のない水路
【主な登場人物】
リリメリア
旧帝都で見つかった記憶のない少女。調査隊と旅をしながら、言葉や感情や剣の扱いを少しずつ覚えていく。
隊長
調査隊を率いる男。大柄で声も大きく頼りになる。
リリメリアを発見物ではなく、保護すべき人として扱う。
アリア
調査隊の副隊長。口数は少ないが、周囲をよく見ている。
元近衛という経歴を持つが、王宮との関係にはどこか冷えたものがある。
ロイ
槍を使う調査隊員。
よく喋り、よく笑い、重くなりがちな場の空気を和ませる。
エルナ
金色の髪の魔術師。
真面目で手順やルールを重んじる。魔術や歴史に詳しい。
シエナ
調査隊の記録係。旧帝国語や古い記録を読み解く。
ミラ
調査隊の料理係。食事や包帯や日々の暮らしを支える人。
その朝は、まだ火の気のない銀色をしていた。
窓硝子の薄い曇りの向こうから、冷えた光が食堂へ差し込んでいる。
隊長は食堂の長机に地図を広げていた。
この前、食堂に満ちていた麻婆豆腐と胡椒の匂いは、もうほとんど残っていない。
竈は黒く静まり、椅子も机も整えられている。
そこに今は、地図と命令書が置かれている。
地図の端に、この町の名前が書かれていた。
王都から遠くはない。けれど、王都そのものではない。
調査隊が数ヶ月滞在し、周辺調査と荷の整理、報告の作成を続けている町だった。
その外れに、赤い印がつけられている。
八百年近く前から残る、古い導水路跡。
町の者は水路跡と呼んでいるが、命令書には「旧導水施設」とあった。
「地下水路跡、ですか」
シエナが地図を覗き込んだ。
手には記録用の革表紙を抱えている。
普段の日誌より一回り小さい、外歩き用のものだ。
「正確には旧導水路だな」
隊長は命令書を指で叩いた。
「この町の北外れにある。昔は水を引いていたらしいが、今は塞がってる」
「王都に戻る前に、こっちを見ろってことですか」
エルナが魔術灯を点検しながら言った。
「そういうことだ」
隊長は命令書を開く。
「魔術汚染の有無。魔物発生状況。崩落危険度。それから」
少しだけ間が空いた。
「異常確認」
リリメリアの目は、命令書のその文字に吸い寄せられた。
この前も見た言葉だった。
帰灯鳥が運んできた命令書の中で、何度も出てきた。
何が異常なのかは書かれていない。ただ異常とだけある。
その何も説明しない言葉が、白い紙の上で冷たく浮いていた。
「町の近くだ…」
リリメリアは地図を見たまま呟く。
旧帝都ではない。灰と瓦礫の中でリリメリアが見つかった場所とは違う。
ここには畑があり、竈の火があり、この前の夜に笑っていた人たちがいる。
「だから放っておけないんです」
エルナが言った。
「人が住んでいる場所の近くで魔術汚染が出ているなら、確認は必要です」
「今回は少人数で入る」
隊長が言った。
「俺、エルナ、シエナ、リリ。以上だ」
「私も?」
リリメリアは顔を上げた。腰には、調査隊から借りた剣が下がっている。
これまでにも抜いたことはある。魔物へ向けたこともある。
それでも、まだ自分の物という感じはしなかった。
歩くたびに腿へ当たって、そこにあることを思い出す。
「お前は、細かい違和感を拾う目がある」
隊長は地図から目を離さずに言った。
「俺たちが見落とす物を見つけてくれる」
褒められているのか、変な物を探す係なのか分からなかった。
リリメリアが考えていると、シエナが横から薄く笑った。
その笑みは冗談の形をしていたが、筆先で線を引く時のようにまっすぐだった。
「調査隊では、だいたい褒め言葉ですよ」
「だいたい」
「はい。だいたいです」
隊長は地図を畳んだ。
「危ないと思ったらすぐ戻る。シエナ、記録は簡潔に」
「努力します」
「努力じゃなくて実行しろ」
「記録係に短く書けと言うのは、地図を半分だけ描けと言うようなものです」
「要点だけ描け」
「隊長もたまには日誌を書いてください」
「断る」
隊長は笑いながら言う。
旧導水路の入口は、町の北外れにあった。
畑を抜け、低い石垣を越え、枯れた用水路に沿って少し歩いた先。
雑木林の影に、古い石造りの水門が残っている。
周りには背の低い草と、白く枯れた蔓が絡んでいた。
水門の口は黒く開いている。けれど、水の音はしなかった。
「水路なのに」
リリメリアは入口を見つめる。
「水がない」
「水脈はもう枯れているはずです」
エルナが魔術灯を掲げた。
「ただ、湿気はあります。中で水が腐ったような匂いもする」
「水がないのに?」
「だから変なんです」
エルナの声は少し硬かった。
四人は水門の奥へ注意深く入る。
足元の石は濡れていた。だが、踏んでも水は跳ねなかった。
湿っているのに乾いている。乾いているのに、靴底へぬめりが絡む。
そんな嫌な感触だった。
壁には白い粉のようなものが付着していた。
所々、細い羽毛のように伸びている。
リリメリアは手を伸ばしかけた。
「触るな」
隊長の声が飛んだ。リリメリアの指が止まる。
その声は、思ったより強かった。
声の強さに自分で気づいたように、隊長はすぐ眉を緩めた。
「悪い。危ないかもしれない」
「うん」
リリメリアは手を引っ込めた。
白い結晶は、魔術灯の光を受けて淡く光っている。
綺麗と言えば綺麗だった。でも、花ではない。雪でもない。
生き物の骨の内側を覗いているような白さだった。
「記録します」
シエナが小さく言った。
筆先が紙の上を滑る。
白色結晶。
羽毛状。
導水路壁面に多数付着。
触診未実施。
エルナは壁の近くへ膝をつき、指先をかざした。
直接触れずに薄い魔力の膜だけを結晶へ近づける。
膜の端が、じり、と焦げるように揺れた。
「普通の魔術汚染じゃないですね」
「分かるのか」
隊長が問う。
「流れが変です。水脈が枯れているのに、魔力だけが沈んでいる。普通なら散るはずなのに、ここに戻ってきてる」
「戻る?」
「はい。同じところを回っているというより、一度沈んでからまた上がってくる感じです」
エルナは言いながら、自分でも嫌そうな顔をした。
「循環ではありません。停滞です」
シエナがその言葉を書き留める。
停滞。
リリメリアは水のない床を見た。何も流れていない。
なのに、耳の奥で水音がした。
ぽたり。
ぽたり。
どこにも水は落ちていない。
それでも、その音だけが身体の内側で鳴っている。
「リリ?」
エルナに呼ばれて、音は消えた。
「どうしました?」
「水の音がした」
エルナは周囲を見た。隊長も足を止める。
水音はなく、導水路は静かだった。
「今は、聞こえません」
エルナが言った。
「うん。もうしない」
「記録します」
シエナが筆を動かした。
リリメリアはもう一度床を見た。
何も流れていない。なのに、何かが溜まっている。
それが分かるような気がした。
しばらく進むと、導水路は広い場所へ出た。
水を左右の管へ分けるための分配槽だったのか、床の中央が丸く沈み込んでいる。
縁には古い溝がいくつも走っていた。
水の道だけが残り、水はない。
中央には干からびた泥が黒く固まっていた。
その泥の上で、何かが動いた。
小さな音だった。
かさ。
かさかさ。
「止まれ」
隊長が片手を上げる。
エルナの魔術灯が奥を照らした。
泥の中から、鼠のようなものが這い出てきた。
一匹ではない。
二匹。
三匹。
さらに壁の割れ目からも出てくる。
鼠に似ている。
だが、目が大きすぎる。
頭の半分ほどもある白い眼球が、濡れた石のように光っている。
背中には、羽毛に似た結晶。
脚は細く、骨ばかりだった。
生き物が走るというより、骨と皮だけの小さな器具が、見えない糸に引かれて急に動くようだ。
そして止まる時だけ、妙に静かだった。
その静けさが、かえって気味が悪い。
「リリ、下がって」
エルナが前に出て言う。
リリメリアは剣へ手をかける。
その瞬間、隊長が止めた。
「まだ抜くな」
「でも」
「必要な時でいい」
隊長は剣を抜いていない。エルナだけが前に出る。
彼女の足元に、薄い円が描かれた。
魔術灯の青とは違う、淡い赤。
火の輪が床を這うように広がる。
「伏せてください」
シエナが素早く身を低くした。リリメリアも真似をする。
次の瞬間、赤い輪が弾けた。炎は高く燃え上がらなかった。
代わりに、床すれすれを走る細い火線になって、分配槽の底を一気に撫でた。
鼠のような魔物たちが白く光る。
叫び声はなかった。
薄い骨が火の中で弾けるような音だけがして、次々に崩れていく。
焦げた匂い。湿った泥の匂い。
その中に、少しだけ甘い匂いが混じった。
リリメリアは顔をしかめる。
エルナは手を下ろした。
「終わりました」
隊長が周囲を見る。
「数は?」
「見えた範囲で九。奥に反応はありません」
シエナが慎重に近づき、焼け残った一体を見た。
「小型魔物。鼠に類似。ただし眼球肥大。背部に羽毛状結晶。骨格の軽量化……南方の報告と、少し似ています」
隊長の手が、ほんの少しだけ剣の柄へ寄った。
けれど抜かなかった。
「似ている、で止めておけ」
「はい」
シエナは筆を止めずに答えた。
「現時点では類似。断定は保留します」
「それでいい」
隊長は短く言った。
「町の近くだ。余計な言葉が一人歩きすると、調査の前に人が騒ぐ」
「分かっています」
シエナの声はいつもより少し小さかった。
リリメリアは焼けた魔物を見る。
白い眼球は熱で割れていた。
中は空洞だった。
見えていたのか、それともただこちらを向いていただけなのか。
分からなかった。
導水路はさらに奥へ続いていた。
途中で何度も崩れている。
隊長が先に瓦礫を確かめ、危ない道は避けた。
エルナが魔術灯を動かし、壁と床の魔力を見ていく。
シエナはそのたびに記録する。
リリメリアは、何を見ればいいのか分からないまま、ただ周囲を見ていた。
細かい違和感を拾う目がある。そう言われたから。
だから、見ていた。
壊れた石、白い結晶、水の跡、干からびた藻、そしてひび割れた壁。
その中で、一箇所だけ、違う石があった。
「ここ」
リリメリアは足を止めた。
三人が振り返る。
「どうした」
「ここ。他と違う」
壁の一部を指差す。
見た目は他の石とほとんど同じだ。
だが、継ぎ目の幅が少しだけ揃いすぎている。
苔も薄く、白い結晶もその部分だけを避けるように生えていない。
隊長が近づき、目を細めた。
「扉か」
エルナが壁に手をかざす。
「魔術式ではないですね。古い封鎖機構です。いまの術式とはかなり違います」
「開けられるか」
「開けるだけなら」
エルナは少し迷った。
「ただ、罠が残っていないとは言えません。中の空気も分かりません」
隊長は黙った。
黙ったまま、入口から奥へ続く暗がりを見た。
町の方角を振り返ることはなかったが、その目の中で、町までの距離を測っているように見えた。
長い沈黙ではなかった。
「開ける」
エルナが壁の継ぎ目へ細い魔力を流し込む。
石の奥で、何かが噛み合う音がした。
ごとりと低く響き、壁の一部が内側へずれる。
冷たい空気が漏れた。
導水路の匂いとは違う。
埃、錆、古い薬品。
長い間、誰も息をしていなかった場所の匂い。
リリメリアはその黒い隙間を見た。
水のない水路の奥に、別の時間が口を開けていた。
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