剣を握らない手
朝の食堂で、窓がこつ、こつと鳴った。
一度きりではない。遠慮がちに二度、三度。
テーブルには黒麦パンと豆のスープの匂いがまだ残り、皿には昨日もらった胡椒鶏の薄焼きが並んでいる。ロイはそれを二枚重ねてパンに挟み、ちょうど大きく齧ろうとしていた。
窓の外へ目をやると灰色の鳥が窓の縁に止まっていた。
鳩より細く、燕より少し大きい。
朝の光はまだ薄いのに、喉元だけが夜の底に残った火種のように淡く光っている。
「帰灯鳥です」
シエナは窓を開け、鳥の背に括りつけられた細い筒を外した。
鳥は逃げない。
王都や砦の巣箱を覚え、方位術式を重ねられた鳥。
帰る場所を身体で知っているから、帰灯鳥。
以前シエナがそう教えてくれた。
筒には封蝋がされている。表面には王都の紋と、簡単な術式が刻んである。
シエナが封を切ると、文字がするすると浮かび上がった。
それを追ううち、隊長の眉間に皺が寄る。
ロイがパンを飲み込んだ。
「何だよ。また面倒なやつか?」
「この町周辺の追加調査命令だ」
隊長は命令書を卓に置いた。
「王都側の古い台帳に、この辺りの地下水路跡と旧帝国遺構の記録が残っているらしい。魔術汚染、魔物発生状況、旧帝国文字の有無。戻る前に確認しろとのことだ」
食堂が、湯気だけを残してしんとした。
ロイはパンを皿に戻し、椅子の背へぐったり身体を預ける。
「帰る直前に、それを言うかね」
苦々しげにつぶやく。
ミラも小さくため息をついた。
「荷物の整理だけでも山ほどあるのに」
「どれくらいかかる」
隊長がシエナへ視線を振る。
シエナは命令書を読み直し、指で項目を追った。
「簡易調査だけなら一ヶ月です。ただ、地下水路跡まで確認するなら二ヶ月。荷物の再整理と王都搬送用の目録作成も含めると、三ヶ月は見た方がいいかと」
「三ヶ月」
ロイが天井を仰いだ。
「王都まで、もう少しってところで三ヶ月」
エルナは何も言わなかった。
アリアもどことなく表情が沈んでいる。
五年も一緒にいれば、口に出さない落胆くらいは分かる。
分かっていても、それをどうすればいいのかは別だ。
食事が終わる頃、ミラは厨房へ向かう。
吊るしてあった胡椒鶏を下ろし、紐をほどく手つきだけが、妙に早い。
昨日、北の林の魔物を倒した礼として、町の人たちが分けてくれたものの残りだ。
棚には米があり、豆腐があり、蕪もある。
ミラはそれらを一つずつ卓に並べると、沈んだ食堂の方へちらりと目をやった。
「まあ、王都への道は逃げないし」
軽く言った声は、鍋の蓋を叩くみたいに明るかった。
「今日はちゃんと食べようか」
そう言って袖をまくる。
布が肘の上でくしゃりと止まると、ミラの顔から、さっきまでのため息の名残が消えた。
「リリ、手伝って」
呼び声は明るい。
けれど、その明るさを少し作っているのが分かった。
「うん。手順を教えて。覚える」
「覚えるのはいいけど、今日は一緒にやろうか。いきなりは難しいしね」
厨房には朝の食器が少し残っていた。
ミラは胡椒鶏の骨を外し、小さな鍋に入れる。
水と香草を足し、火にかけた。
胡椒鶏はこの町の名物で、肉そのものに胡椒に似た香りがあり、焼いても煮ても、その匂いが湯気の奥から立ちのぼる。
米を研ぐ。
冷たい水の底で、米粒が指の間をさらさら滑った。
その小さな粒は、触れただけで舞い上がった旧帝都の灰とは違っている。
豆腐は白く、掌に乗せると自分の重みで崩れそうにふるえた。
「優しくね」
ミラが横から囁く。
頷く。
力を入れれば壊れるものがある。それは剣を持つよりも難しい。
棚の奥から、ミラが小さな布袋を二つ出した。
赤い粉と、薄茶色の粒。
「それは?」
「昨日来た行商の人から貰ったの」
布袋の紐を解きながら、ミラは少しだけ口元を緩める。
「町の人には辛すぎるみたいで、持て余してたんだって」
「あの、角の生えていた人?」
「そう。色んな町を回ってるみたい。辛い調味料とか、乾いた果物とか、変わった豆とか、色々持ってた」
赤い粉の匂いに混じって、ふと昨日の酒場の情景を思い出す。
大きな荷を背負った行商人が、隅の席にいた。
山羊に似た角には、小さな紐飾りが巻かれている。
客たちはその角をちらちら見た。珍しいものを見る目ではない。
値踏みするような、じろじろと皮を剥ぐような目だった。
「おい、角つき」
ジョッキを揺らした男が、大声で呼んだ。
「壁際に寄るなよ。壁に穴が開いてみんな風ひいちまう!」
どっと笑いが起きる。
別の男が、にやにやと口の端を歪めた。
「荷車が壊れたら、あれで引かせりゃいい。馬より安く済む」
行商人も笑った。薄く、へらりと。
けれど、その笑いは唇の上に置かれただけで、目の奥までは届いていなかった。
その時、ミラが皿を置いた。
ことん。
小さな音だった。けれど笑い声はそこでぷつりと切れた。
「声が大きいよ。宿の壁より、あんたたちの下品な声で耳に穴が開きそうだ」
睨みはしなかった。ただ、床にこぼれた酒へちらりと目を落とす。
「それより床を汚さないで。角よりそっちの方がよっぽど迷惑」
誰かがまだ何か言おうとしたが、ミラの有無を言わせぬ雰囲気に気圧されて、言葉は喉の奥へ戻っていった。
その時、行商人は初めて本当に笑った。
声は出さない。ただ、杯の縁に口をつける前、こらえきれなかった息がふっと漏れた。
帰り際、大きな荷を背負い直した行商人は、ミラの前に小さな布袋を二つ置いた。
「余り物だ。あんたなら、どうにかするだろう」
ミラは代金を取りに行こうとした。
けれど行商人は首を振った。
「さっきの礼だ」
「周りがうるさかっただけだよ」
「いいんだ。口直し代だ」
そう言って、角の紐飾りを指で直した。
ミラの指が、布袋の紐をほどいた。
細い紐がするりと抜け、赤い粉が小皿の底に落ちる。
昨日の酒場の思い出は、その赤の中へ沈んでいった。
「辛いよ」
ミラは粉の量を見ながら言った。
「使う?」
食堂の方へ視線をやる。
王都からの命令で、皆の顔が重くなっていた。
温かいものがいい。
香りの強いものがいい。
食べている時の顔が忙しくなるものがいい。
嫌なことを考える隙が、少し減るようなものがいい。
「麻婆豆腐」
そう口にした。
「あと、胡椒鶏の土鍋ご飯」
ミラが少し驚いた顔をする。
「よく覚えてたね。前に街道の食堂で食べたやつ?」
「うん。赤くて、ロイが水を三杯飲んだ。でも最後まで食べてた」
「そこを覚えてたの…」
「辛いものは、食べている時の顔が忙しくなる。嫌なことを考える隙が少ない」
ミラはしばらく黙ってから、くすりと笑った。
「あのお店の人が聞いたら、怒るか驚くかどっちかだね」
「間違ってる?」
「間違ってない。少なくとも、今のうちには必要かも」
胡椒鶏の出汁を土鍋に移し、米と刻んだ肉を入れる。
蓋をして、火にかける。土鍋の中で水が細かく震え、やがてことことと小さく鳴りはじめる。
ミラが鍋へ耳を寄せる。
「聞いてて。鍋って、黙ってるようで結構しゃべるの」
「しゃべる?」
「最初は水の音。次は米がふくらむ音。最後は、焦げる手前の音」
火の明かりを受けて、ミラの目尻がやわらかくなる。
「そこを聞き逃すと、急に機嫌を悪くする」
「難しい」
「そう。料理は難しいよ」
「油断すると失敗する」
「それは戦いも料理も同じだね」
ミラはくすりと笑って、リリメリアの手元を覗き込んだ。
「でも、料理は失敗しても次があるから。次は気を付ければいいの」
その言い方は、料理を教える人というより、転ばないように少し前を歩く姉のようなものだった。
次に麻婆豆腐を作る。
胡椒鶏の挽き肉を炒めると、じゅう、と甘い脂の香りが広がった。
そこへ味噌と香辛料、赤い辛味を入れる。
油が赤く艶を持ち、ふつふつと沸く。
赤い鍋に集中しているあいだ、ミラは蕪を薄く切っていた。
「それも使う?」
「浅漬けにする。辛いものばかりだと、ロイが本当に泣くから」
少し考える。
「今日は泣かせない方がいい」
「そういうこと」
ミラは蕪に塩を振り、軽く揉む。
ぱらぱらと散った塩が、蕪の表面でじわりと水を引き出していく。
少しだけ香草を混ぜると、辛い匂いの中に青い香りが差した。
「料理には逃げ道もいるの」
ミラは言った。
「強い味ばかりだと疲れるから。休む場所」
麻婆豆腐を見る。赤く、熱く、香りが強い。
それからミラの浅漬けを見る。薄く水を含んだ蕪が、皿の上でしんなり光っている。
「ミラは、逃げ道を作るのが上手い」
そう言うと、ミラは目を丸くした。
「褒められた?」
「うん」
「じゃあ、ありがとう」
豆腐を入れ、崩さないように混ぜる。赤い煮汁の中で、白い豆腐がゆらりと揺れた。
味見の小皿を渡され、一口食べる。
まず熱い。次に、痛い。
舌の上を赤いものが走り、香辛料の粒がじんわりと残った。
けれどすぐに、胡椒鶏の脂と味噌の塩気が追いついてくる。
痛みの奥から味が来る。
「辛い?」
「辛い」
「大丈夫?」
小皿の赤い底を見る。もう一口欲しかった。
「おいしい」
昼になると、食堂に土鍋が運ばれた。蓋を取ると、白い湯気がむわりと立ちのぼる。
炊きたての米の甘さに、胡椒鶏の脂が丸く絡んでいる。
そこへ、胡椒に似た香りがすっと鼻を抜けた。
強すぎないのに、胃の奥を軽く掴んでくる匂いだった。
米は一粒一粒が膨らみ、出汁を吸って淡い金色を帯びていた。
底のおこげは薄く茶色く、スプーンを入れるとぱりっと割れた。
その乾いた音だけで、ロイの顔が明るくなる。
「それ絶対うまいやつだろ」
それから麻婆豆腐が出た。
赤い。
ただ赤いだけではない。
油の表面に唐辛子の色が浮き、そこへスパイスの細かな粒が沈み、胡椒鶏の挽き肉が黒っぽく艶を持って散っている。
白い豆腐だけが、その中で妙に無防備だった。
最初にロイが食べた。すぐに動きが止まる。
「……リリ」
「辛い?」
「辛いに決まってるだろ」
ロイは水を飲んだ。それでも、もう一口食べた。
「でも食べるんだね」
「悔しいからな。うまいのが」
ミラは辛い辛いと言いながら笑っている。
シエナはペンを持ち上げ、少し考えてから置いた。
「味は記録したいのですが、今書くと辛いという文字を三回書きそうです」
エルナは水を飲み、浅漬けを一切れ挟んでから、また土鍋ご飯に麻婆豆腐を少し乗せた。
皿は時間をかけて空になった。
隊長は黙って完食した。
額には汗がじわりと浮いている。
自分の器を見る。白い米の上に、赤い豆腐と黒い肉が落ちる。
食べる。やはり辛い。
けれど、おいしい。
辛いのに、おいしい。
辛いから、おいしいのかもしれない。
米の甘さが赤い辛さを受け止める。
胡椒鶏の脂が舌の上に広がり、唐辛子の熱をただの痛みではなく味に変える。
痺れは細い針のように残るが、その針があるから次の一口が遠くならない。
熱い手で肩を掴まれ、無理やり火のそばへ連れていかれるような味だった。
冷えていた身体の内側に、じわりと火が入る。
昨晩から胸の奥に沈んでいた重いものが、少しだけ燃えて薄くなる。
もう一口食べた。そこで初めて思った。
自分は、辛いものが好きなのかもしれない。
隣でアリアが、顔色も変えずに麻婆豆腐を食べていた。水もあまり飲んでいない。
「アリア」
「何?」
「辛い?」
「辛い」
「でも、平気?」
「ああ。この味が好きだ」
少しだけ目を開く。
「私も、好きかもしれない」
アリアはこちらをちらりと見た。
それから、ほんの少しだけ笑みを浮かべる。
「そうか」
それだけだった。
けれど、その声はいつもより少し柔らかかった。
食後、隊長が器を置いた。ことりと鳴った音が、妙に静かだった。
「この料理は、リリとミラが作ったのか」
「うん」
「そうか」
隊長は食堂を見渡した。
ロイは水をガブガブ飲み、ミラに笑われている。
シエナは記録帳に何かを書こうとして、まだ少し涙目になっていた。
エルナは空になった皿の横で、額に浮いた汗を手巾でそっと拭っていた。
アリアは何も言わず、平然と二杯目を食べていた。
隊長は静かに続けた。
「命令は変わらない。三ヶ月ここにいることも、たぶん変わらない。だが、こういう飯が一つあるだけで、始め方は変わる」
空になった器へ目を落とす。
「今日は剣を使ってない」
「それでも、隊の役に立つことはある」
隊長は短くそう言って、もう一度だけ器を見た。
「いい飯だった」
自分の手を見る。
昨日は魔物を斬った手。
今日は米を研ぎ、豆腐を崩さないように混ぜ、皿を渡した手。
その手で礼を言われるのは、少し不思議だった。
ミラが残ったおこげと麻婆豆腐を小さな器によそい、差し出す。
「リリは、よく見てるね」
「皆のこと?」
「そう」
器を受け取る。
「見えるから」
「見えたもの全部、どうにかしようとしなくていいんだよ」
少し考えた。
「でも、できるなら?」
ミラはすぐには答えなかった。浅漬けの器を片付ける手だけが止まる。
「できることと、全部背負うことは違うよ」
「背負う」
「うん。誰かが寒そうだから温める。食べてなさそうだから食べさせる。それは優しいことだけど、全部やってたらリリが潰れる」
今は潰れていない。器も持てる。剣も持てる。
「持てるなら、持った方がいいと思う」
そう言うと、ミラは困ったように笑った。
「そういうところだよ」
その声はやわらかい。けれど少しだけ心配そうに聞こえた。
夜、宿の外へ出ると町の外れにある教会の鐘が鳴っていた。
荷馬車の奥には、黒い剣の入った箱がある。
黒い箱を、ふんと見返す。
大事なものを斬る時に、手が震えなくなる。昨日、白い女はそう言った。
けれど今日は、誰かを斬るためではなく、誰かに食べさせるために手を使った。
言われた通りにはならなかった。少なくとも、今日は。
それでも、胸の奥に小さな棘があった。
朝、王都から届いた命令書には「異常確認」という言葉が、何度も書かれていた。
地下水路跡。魔術汚染。魔物発生状況。
違う場所のはずなのに、同じ言葉が添えられていた。
そして最後に、もう一行。
南方にて、天使被害あり、と。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
初執筆で設定だけ固めて文章を書いてます。
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