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万命炉のリリメリア  作者: 曇裡空子
一章 帰る場所のない少女
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3/8

剣を握らない手

朝の食堂で、窓がこつ、こつと鳴った。


一度きりではない。遠慮がちに二度、三度。


テーブルには黒麦パンと豆のスープの匂いがまだ残り、皿には昨日もらった胡椒鶏の薄焼きが並んでいる。ロイはそれを二枚重ねてパンに挟み、ちょうど大きく齧ろうとしていた。


窓の外へ目をやると灰色の鳥が窓の縁に止まっていた。


鳩より細く、燕より少し大きい。


朝の光はまだ薄いのに、喉元だけが夜の底に残った火種のように淡く光っている。


「帰灯鳥です」


シエナは窓を開け、鳥の背に括りつけられた細い筒を外した。


鳥は逃げない。


王都や砦の巣箱を覚え、方位術式を重ねられた鳥。


帰る場所を身体で知っているから、帰灯鳥。


以前シエナがそう教えてくれた。


筒には封蝋がされている。表面には王都の紋と、簡単な術式が刻んである。


シエナが封を切ると、文字がするすると浮かび上がった。


それを追ううち、隊長の眉間に皺が寄る。


ロイがパンを飲み込んだ。


「何だよ。また面倒なやつか?」


「この町周辺の追加調査命令だ」


隊長は命令書を卓に置いた。


「王都側の古い台帳に、この辺りの地下水路跡と旧帝国遺構の記録が残っているらしい。魔術汚染、魔物発生状況、旧帝国文字の有無。戻る前に確認しろとのことだ」


食堂が、湯気だけを残してしんとした。


ロイはパンを皿に戻し、椅子の背へぐったり身体を預ける。


「帰る直前に、それを言うかね」


苦々しげにつぶやく。


ミラも小さくため息をついた。


「荷物の整理だけでも山ほどあるのに」


「どれくらいかかる」


隊長がシエナへ視線を振る。


シエナは命令書を読み直し、指で項目を追った。


「簡易調査だけなら一ヶ月です。ただ、地下水路跡まで確認するなら二ヶ月。荷物の再整理と王都搬送用の目録作成も含めると、三ヶ月は見た方がいいかと」


「三ヶ月」


ロイが天井を仰いだ。


「王都まで、もう少しってところで三ヶ月」


エルナは何も言わなかった。


アリアもどことなく表情が沈んでいる。


五年も一緒にいれば、口に出さない落胆くらいは分かる。


分かっていても、それをどうすればいいのかは別だ。


食事が終わる頃、ミラは厨房へ向かう。


吊るしてあった胡椒鶏を下ろし、紐をほどく手つきだけが、妙に早い。


昨日、北の林の魔物を倒した礼として、町の人たちが分けてくれたものの残りだ。


棚には米があり、豆腐があり、蕪もある。


ミラはそれらを一つずつ卓に並べると、沈んだ食堂の方へちらりと目をやった。


「まあ、王都への道は逃げないし」


軽く言った声は、鍋の蓋を叩くみたいに明るかった。


「今日はちゃんと食べようか」


そう言って袖をまくる。


布が肘の上でくしゃりと止まると、ミラの顔から、さっきまでのため息の名残が消えた。


「リリ、手伝って」


呼び声は明るい。


けれど、その明るさを少し作っているのが分かった。


「うん。手順を教えて。覚える」


「覚えるのはいいけど、今日は一緒にやろうか。いきなりは難しいしね」


厨房には朝の食器が少し残っていた。


ミラは胡椒鶏の骨を外し、小さな鍋に入れる。


水と香草を足し、火にかけた。


胡椒鶏はこの町の名物で、肉そのものに胡椒に似た香りがあり、焼いても煮ても、その匂いが湯気の奥から立ちのぼる。


米を研ぐ。


冷たい水の底で、米粒が指の間をさらさら滑った。


その小さな粒は、触れただけで舞い上がった旧帝都の灰とは違っている。


豆腐は白く、掌に乗せると自分の重みで崩れそうにふるえた。


「優しくね」


ミラが横から囁く。


頷く。


力を入れれば壊れるものがある。それは剣を持つよりも難しい。


棚の奥から、ミラが小さな布袋を二つ出した。


赤い粉と、薄茶色の粒。


「それは?」


「昨日来た行商の人から貰ったの」


布袋の紐を解きながら、ミラは少しだけ口元を緩める。


「町の人には辛すぎるみたいで、持て余してたんだって」


「あの、角の生えていた人?」


「そう。色んな町を回ってるみたい。辛い調味料とか、乾いた果物とか、変わった豆とか、色々持ってた」


赤い粉の匂いに混じって、ふと昨日の酒場の情景を思い出す。


大きな荷を背負った行商人が、隅の席にいた。


山羊に似た角には、小さな紐飾りが巻かれている。


客たちはその角をちらちら見た。珍しいものを見る目ではない。


値踏みするような、じろじろと皮を剥ぐような目だった。


「おい、角つき」


ジョッキを揺らした男が、大声で呼んだ。


「壁際に寄るなよ。壁に穴が開いてみんな風ひいちまう!」


どっと笑いが起きる。


別の男が、にやにやと口の端を歪めた。


「荷車が壊れたら、あれで引かせりゃいい。馬より安く済む」


行商人も笑った。薄く、へらりと。


けれど、その笑いは唇の上に置かれただけで、目の奥までは届いていなかった。


その時、ミラが皿を置いた。


ことん。


小さな音だった。けれど笑い声はそこでぷつりと切れた。


「声が大きいよ。宿の壁より、あんたたちの下品な声で耳に穴が開きそうだ」


睨みはしなかった。ただ、床にこぼれた酒へちらりと目を落とす。


「それより床を汚さないで。角よりそっちの方がよっぽど迷惑」


誰かがまだ何か言おうとしたが、ミラの有無を言わせぬ雰囲気に気圧されて、言葉は喉の奥へ戻っていった。


その時、行商人は初めて本当に笑った。


声は出さない。ただ、杯の縁に口をつける前、こらえきれなかった息がふっと漏れた。


帰り際、大きな荷を背負い直した行商人は、ミラの前に小さな布袋を二つ置いた。


「余り物だ。あんたなら、どうにかするだろう」


ミラは代金を取りに行こうとした。


けれど行商人は首を振った。


「さっきの礼だ」


「周りがうるさかっただけだよ」


「いいんだ。口直し代だ」


そう言って、角の紐飾りを指で直した。


ミラの指が、布袋の紐をほどいた。

細い紐がするりと抜け、赤い粉が小皿の底に落ちる。

昨日の酒場の思い出は、その赤の中へ沈んでいった。

「辛いよ」

ミラは粉の量を見ながら言った。


「使う?」


食堂の方へ視線をやる。


王都からの命令で、皆の顔が重くなっていた。


温かいものがいい。


香りの強いものがいい。


食べている時の顔が忙しくなるものがいい。


嫌なことを考える隙が、少し減るようなものがいい。


「麻婆豆腐」


そう口にした。


「あと、胡椒鶏の土鍋ご飯」


ミラが少し驚いた顔をする。


「よく覚えてたね。前に街道の食堂で食べたやつ?」


「うん。赤くて、ロイが水を三杯飲んだ。でも最後まで食べてた」


「そこを覚えてたの…」


「辛いものは、食べている時の顔が忙しくなる。嫌なことを考える隙が少ない」


ミラはしばらく黙ってから、くすりと笑った。


「あのお店の人が聞いたら、怒るか驚くかどっちかだね」


「間違ってる?」


「間違ってない。少なくとも、今のうちには必要かも」


胡椒鶏の出汁を土鍋に移し、米と刻んだ肉を入れる。


蓋をして、火にかける。土鍋の中で水が細かく震え、やがてことことと小さく鳴りはじめる。


ミラが鍋へ耳を寄せる。


「聞いてて。鍋って、黙ってるようで結構しゃべるの」


「しゃべる?」


「最初は水の音。次は米がふくらむ音。最後は、焦げる手前の音」


火の明かりを受けて、ミラの目尻がやわらかくなる。


「そこを聞き逃すと、急に機嫌を悪くする」


「難しい」


「そう。料理は難しいよ」


「油断すると失敗する」


「それは戦いも料理も同じだね」


ミラはくすりと笑って、リリメリアの手元を覗き込んだ。


「でも、料理は失敗しても次があるから。次は気を付ければいいの」


その言い方は、料理を教える人というより、転ばないように少し前を歩く姉のようなものだった。


次に麻婆豆腐を作る。


胡椒鶏の挽き肉を炒めると、じゅう、と甘い脂の香りが広がった。


そこへ味噌と香辛料、赤い辛味を入れる。


油が赤く艶を持ち、ふつふつと沸く。


赤い鍋に集中しているあいだ、ミラは蕪を薄く切っていた。


「それも使う?」


「浅漬けにする。辛いものばかりだと、ロイが本当に泣くから」


少し考える。


「今日は泣かせない方がいい」


「そういうこと」


ミラは蕪に塩を振り、軽く揉む。


ぱらぱらと散った塩が、蕪の表面でじわりと水を引き出していく。


少しだけ香草を混ぜると、辛い匂いの中に青い香りが差した。


「料理には逃げ道もいるの」


ミラは言った。


「強い味ばかりだと疲れるから。休む場所」


麻婆豆腐を見る。赤く、熱く、香りが強い。


それからミラの浅漬けを見る。薄く水を含んだ蕪が、皿の上でしんなり光っている。


「ミラは、逃げ道を作るのが上手い」


そう言うと、ミラは目を丸くした。


「褒められた?」


「うん」


「じゃあ、ありがとう」


豆腐を入れ、崩さないように混ぜる。赤い煮汁の中で、白い豆腐がゆらりと揺れた。


味見の小皿を渡され、一口食べる。


まず熱い。次に、痛い。


舌の上を赤いものが走り、香辛料の粒がじんわりと残った。


けれどすぐに、胡椒鶏の脂と味噌の塩気が追いついてくる。


痛みの奥から味が来る。


「辛い?」


「辛い」


「大丈夫?」


小皿の赤い底を見る。もう一口欲しかった。


「おいしい」


昼になると、食堂に土鍋が運ばれた。蓋を取ると、白い湯気がむわりと立ちのぼる。


炊きたての米の甘さに、胡椒鶏の脂が丸く絡んでいる。


そこへ、胡椒に似た香りがすっと鼻を抜けた。


強すぎないのに、胃の奥を軽く掴んでくる匂いだった。


米は一粒一粒が膨らみ、出汁を吸って淡い金色を帯びていた。


底のおこげは薄く茶色く、スプーンを入れるとぱりっと割れた。


その乾いた音だけで、ロイの顔が明るくなる。


「それ絶対うまいやつだろ」


それから麻婆豆腐が出た。

赤い。

ただ赤いだけではない。


油の表面に唐辛子の色が浮き、そこへスパイスの細かな粒が沈み、胡椒鶏の挽き肉が黒っぽく艶を持って散っている。


白い豆腐だけが、その中で妙に無防備だった。


最初にロイが食べた。すぐに動きが止まる。


「……リリ」


「辛い?」


「辛いに決まってるだろ」


ロイは水を飲んだ。それでも、もう一口食べた。


「でも食べるんだね」


「悔しいからな。うまいのが」


ミラは辛い辛いと言いながら笑っている。


シエナはペンを持ち上げ、少し考えてから置いた。


「味は記録したいのですが、今書くと辛いという文字を三回書きそうです」


エルナは水を飲み、浅漬けを一切れ挟んでから、また土鍋ご飯に麻婆豆腐を少し乗せた。


皿は時間をかけて空になった。


隊長は黙って完食した。


額には汗がじわりと浮いている。


自分の器を見る。白い米の上に、赤い豆腐と黒い肉が落ちる。


食べる。やはり辛い。


けれど、おいしい。


辛いのに、おいしい。


辛いから、おいしいのかもしれない。


米の甘さが赤い辛さを受け止める。


胡椒鶏の脂が舌の上に広がり、唐辛子の熱をただの痛みではなく味に変える。


痺れは細い針のように残るが、その針があるから次の一口が遠くならない。


熱い手で肩を掴まれ、無理やり火のそばへ連れていかれるような味だった。


冷えていた身体の内側に、じわりと火が入る。


昨晩から胸の奥に沈んでいた重いものが、少しだけ燃えて薄くなる。


もう一口食べた。そこで初めて思った。


自分は、辛いものが好きなのかもしれない。


隣でアリアが、顔色も変えずに麻婆豆腐を食べていた。水もあまり飲んでいない。


「アリア」


「何?」


「辛い?」


「辛い」


「でも、平気?」


「ああ。この味が好きだ」


少しだけ目を開く。


「私も、好きかもしれない」


アリアはこちらをちらりと見た。


それから、ほんの少しだけ笑みを浮かべる。


「そうか」


それだけだった。


けれど、その声はいつもより少し柔らかかった。


食後、隊長が器を置いた。ことりと鳴った音が、妙に静かだった。


「この料理は、リリとミラが作ったのか」


「うん」


「そうか」


隊長は食堂を見渡した。


ロイは水をガブガブ飲み、ミラに笑われている。


シエナは記録帳に何かを書こうとして、まだ少し涙目になっていた。


エルナは空になった皿の横で、額に浮いた汗を手巾でそっと拭っていた。


アリアは何も言わず、平然と二杯目を食べていた。


隊長は静かに続けた。


「命令は変わらない。三ヶ月ここにいることも、たぶん変わらない。だが、こういう飯が一つあるだけで、始め方は変わる」


空になった器へ目を落とす。


「今日は剣を使ってない」


「それでも、隊の役に立つことはある」


隊長は短くそう言って、もう一度だけ器を見た。


「いい飯だった」


自分の手を見る。


昨日は魔物を斬った手。


今日は米を研ぎ、豆腐を崩さないように混ぜ、皿を渡した手。


その手で礼を言われるのは、少し不思議だった。


ミラが残ったおこげと麻婆豆腐を小さな器によそい、差し出す。


「リリは、よく見てるね」


「皆のこと?」


「そう」


器を受け取る。


「見えるから」


「見えたもの全部、どうにかしようとしなくていいんだよ」


少し考えた。


「でも、できるなら?」


ミラはすぐには答えなかった。浅漬けの器を片付ける手だけが止まる。


「できることと、全部背負うことは違うよ」


「背負う」


「うん。誰かが寒そうだから温める。食べてなさそうだから食べさせる。それは優しいことだけど、全部やってたらリリが潰れる」


今は潰れていない。器も持てる。剣も持てる。


「持てるなら、持った方がいいと思う」


そう言うと、ミラは困ったように笑った。


「そういうところだよ」


その声はやわらかい。けれど少しだけ心配そうに聞こえた。


夜、宿の外へ出ると町の外れにある教会の鐘が鳴っていた。


荷馬車の奥には、黒い剣の入った箱がある。


黒い箱を、ふんと見返す。


大事なものを斬る時に、手が震えなくなる。昨日、白い女はそう言った。


けれど今日は、誰かを斬るためではなく、誰かに食べさせるために手を使った。


言われた通りにはならなかった。少なくとも、今日は。


それでも、胸の奥に小さな棘があった。


朝、王都から届いた命令書には「異常確認」という言葉が、何度も書かれていた。


地下水路跡。魔術汚染。魔物発生状況。


違う場所のはずなのに、同じ言葉が添えられていた。


そして最後に、もう一行。


南方にて、天使被害あり、と。

ここまでお読みいただきありがとうございます。


初執筆で設定だけ固めて文章を書いてます。


続きが気になると思っていただけましたら、ブックマークや評価で応援していただけると嬉しいです。

感想もいただけると励みになります。


次回もよろしくお願いいたします。

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