拝啓:億の空白に立つアナタへ
それから五年。
リリメリアは、まだ調査隊の本国を見たことがない。
本国。
その言葉は、旅のあいだ何度も耳に触れた。
隊長やロイやミラにとっては、生まれた場所だった。ロイはその名を口にする時、決まって退屈そうに肩をすくめる。ミラは少しだけ遠いものを見る目になる。アリアの顔には、嫌悪と呼ぶには薄く、懐旧と呼ぶには冷たすぎる影が差した。
シエナにとって本国は、報告書の送り先だ。
地図上の一点で封蝋を押すべき宛先。
調査隊の成果を、発見物と損耗と未確認事項に分けて受け取る場所。
調査隊は、そこへ帰るために旧帝都を出た。
けれど帰り道は、とても長かった。
旧帝都から本国へ戻ることは、ただ道を歩くことではない。崩れた街道や魔術汚染の残る森を避け、時には魔物と戦いながら、町で食料を買い、馬を休ませ、橋の落ちた谷を遠回りする。
何日も進んだはずなのに、地図の上では少ししか動いていないこともあった。
シエナが記録する日付だけが増えていく。
魔術によって強化された馬でも痩せ、靴底は擦り減り、荷馬車の車輪には旧帝都の灰とも違う様々な土地の泥が重なっていった。
調査隊の荷馬車には、旧帝都で拾った物が積まれている。
割れた金属板。
読めない文字の刻まれた石片。
中の曇った透明な管。
黒い剣。
そして、旧市街地の教会で見つかったリリメリア。
最初それらの違いがよく分からなかった。
どれも旧帝都から出てきた物であり、自分も同じなのだと思っていた。
違うよ、とミラは少し怒ったように声を尖らせた。
隊長もそれだけは何度も訂正した。
ロイは、物はパンを食べないだろ、と笑った。
五年前、調査隊の人たちは旧帝都そのものに驚いていた。
当時、驚くということをよく知らなかったが皆の表情だけはよく覚えている。
リリメリアが見つかった旧市街地の教会は、屋根が落ちていて、割れた祭壇の下から、白い花と淡く赤い花が咲いていた。
けれど教会の外へ出ると、街はさらに大きかった。
石造りの家々の向こうに高架が伸び、その上には長い鉄の箱のようなものが止まっていた。車輪は線路に噛み合ったまま動かず、窓は黒く曇っている。
魔導列車。
五年の間にその言葉を覚えた。
人や荷物を乗せ、魔力で走る乗り物。旧帝都の内と外を結び、港や官庁区や研究区へ人を運んだもの。
けれどリリメリアが見たそれは、どこにも行かずに高架の上で止まったまま、空へ向かう階段のように街を横切っていた。
港には黒い戦艦が沈んでいた。
船と言うには大きすぎて、建物と言うには海に近すぎる。傾いた砲身は、滅びたあともまだ沖を狙っていた。
広場には、荷物を抱えたまま止まった黒いゴーレムがいた。石畳の下には銀色の導管が走り、崩れた壁には細かい術式が刻まれている。
これほどのものを作った都市なのに、そこにはもう誰の声も残っていない。
これは、強すぎる国の死骸だ。
五年経って、リリメリアはようやくその意味を理解する。
そして自分は、その死骸の中から見つかった。
その事実は今でもリリメリアの中にぽかりと穴を開いている。
痛いわけではなく怖いわけでもない。
ただ、そこだけ何もない。
自分は何なのか、誰が何のためにあの場所へ置いたのか。
考えようとすると、答えの代わりに白い空白だけが残る。
けれど、空白だけではなく、五年の旅は、彼女の中に別のものを増やしていった。
宿場町で買い物をした。
砦町で剣を振った。
港町で魚の名前を覚えた。
山間の村では、雪の上の歩き方を教わった。
街道では魔物の足跡を見分けた。
市場ではロイに値切り方を教わり、ミラにやりすぎだと怒られた。
小さな町に着くたび、リリメリアは少しずつ人と話すようになった。
「リリ、これ持ってってくれ」
宿の主人に薪を渡される。
「うん」
リリメリアは両腕で薪を抱えた。
「お、力あるな」
「訓練してるから」
「そうか。じゃあうちで働くか?」
「隊長に聞く」
宿の主人は一瞬ぽかんとしたあと、腹を揺らして笑った。
「冗談だよ」
「分かった。今のは冗談」
「真面目だなあ」
真面目。それはたぶん、悪い言葉ではない。
ただ、ロイはリリメリアと話している時によく笑う。
リリメリアは、笑われるのが嫌な時と、嫌ではない時があることも覚えた。
その日、調査隊は街道沿いの小さな町に調査も兼ねて滞在していた。
本国までは、もう遠くないらしい。
山を二つ越え、大きな川沿いの街道に入れば、王都へ向かう道に合流する。シエナは地図の上を指でなぞり、日数を小さく数えていた。
それは本来、喜ぶべきことのはずだ。
けれど隊長たちは、あまり嬉しそうではない。
リリメリアがその理由を考えているうちに、町の北側の林に魔物が出たという知らせが来た。
家畜の胡椒鶏が食い荒らされ、見張りが負傷したらしい。
胡椒鶏は、焼くと肉に胡椒のような味が出る鶏だ。リリメリアは初めて食べた時、ロイが胡椒を振ったのだと思った。ロイは振っていないと両手を上げ、ミラは振らなくても味がするから胡椒鶏なのだと教えてくれた。
魔物は一匹か二匹。
それほど強くはない。
隊長の判断は短かった。
「ロイ、ミラ、アリア。リリを連れて行け」
ロイが槍を取る。
「了解」
隊長の視線がリリメリアに向く。
「いけるか?」
「うん」
リリメリアはすぐに頷いた。
剣を取り、髪を後ろで結ぶ。
五年前は、剣の持ち方も分からなかった。
今は、剣の重さが手に馴染む。
林の中は、雨のあとみたいな匂いがした。
踏むと、枯れ葉の下で泥がべちゃりと鳴る。
ロイが槍を肩に担ぎ、ミラは後方で包帯と薬瓶を確認している。アリアは無言で前を歩いていた。
アリアは足音が少ない。
近衛騎士団出身だからだと、ロイは以前教えてくれた。隊長ほどではないが、戦場の経験は多いらしい。
リリメリアはアリアの歩き方を真似しようとして、三度ほど枝を踏んだ。
四度目でロイが振り返る。
「リリ、森と喧嘩してる?」
「してない。森は強い?」
「たとえだよ」
「たとえは、まだ難しい」
ミラが小さく笑った。
その直後、アリアが手を上げる。
全員の足が止まった。
茂みの奥で、何かが動いた。
犬ほどの大きさ。
けれど犬ではない。
背中の骨が歪んで盛り上がり、皮膚の裂け目から黒い泥のようなものが滲んでいる。
目は濁り、口からは細い息が漏れていた。
魔物。
リリメリアの手が剣の柄を握る。
怖い。
今でも怖い。
ただ、怖いから動けない、ということは減った。
ロイの槍が先に出る。
魔物が跳ねる。
アリアが横から進路を塞ぐ。
リリメリアは踏み込んだ。
魔物の爪がこちらへ来る。
速い。けれど見える。
半歩沈む。
爪が髪の上を掠める。
泥の匂いが鼻につく。
剣を振る。
刃は魔物の首の下へ入り、骨に当たって一度止まった。
手首を返し、体重を乗せる。
黒い血が散った。
魔物は地面で二度跳ね、動かなくなった。
林が静かになる。
リリメリアは息を吐く。
手は震えていなかった。
「良い踏み込みだった」
アリアの評価は短かった。
褒め言葉というより、剣の角度や足運びを検分したあとの判定に近い。
リリメリアは頷く。
嬉しい、で合っていると思う。
「飲み込み早いよなあ」
ロイが魔物を槍の穂先で転がした。声には軽さがあったが、目だけはまだ林の奥を見ている。
「ほんと。こういうところ、昔の隊長みたい」
ミラの声が少しやわらぐ。
そのやわらぎの中に、リリメリアの知らない十年前の光が混じっていた。
「昔の隊長?」
「国を出た頃の隊長。十七だった。今より細くて、今より無茶で、今より少しだけ可愛げがあった」
ロイは笑う。
けれどその笑いは、魔物の死骸の前では少しだけ場違いだった。
「可愛げ」
リリメリアはその言葉を口の中で転がした。
「今はない?」
ロイが吹き出す。
ミラも笑った。
「ないな」
「少しはあるでしょう」
ミラはそう庇ってから、すぐに考え直すように目を伏せた。
「……ないわね」
「ひどいな」
リリメリアは二人を見てから、少し離れたところにいるアリアを見た。
「アリアは?」
「私に振るな」
「隊長に可愛げはある?」
アリアは魔物の死骸を見下ろしたまま、しばらく黙った。
泥に沈んだ黒い血が、枯れ葉の筋に沿ってゆっくり広がっていく。
「昔のことは知らない」
それから、刃を鞘に戻すような静けさで続けた。
「今は、あまりない」
ロイが腹を抱えて笑った。
「十六で、国を出たの?」
「ああ。俺とミラは十六。隊長は十七。辺境の村から三人で志願した。外を見たかったんだよ」
「外」
「そう。村の外。王都の外。国の外。地図の端っこの向こう」
ロイは軽く口にしたが、その言葉の端は少し乾いていた。
ミラは目を細める。
懐かしむ人の顔というより、もう戻らないものの輪郭を確かめる顔だった。
「自由を知りたかったの。子供だったから」
「自由は、外にある?」
リリメリアが尋ねると、ロイは一瞬だけ黙った。
それから、いつものように笑った。
「あると思ってた」
「今は?」
「少なくとも、王宮にはあんまりないな」
その言葉で、林の温度が少し下がった気がした。
アリアが魔物の死骸から目を離し、ロイを見る。
ロイは肩をすくめた。
「悪い。近衛様の前で」
「もう近衛ではない」
アリアの声は、磨かれた金属みたいに平らだった。
「王宮と折り合いが悪くて、こんなところまで来たんでしょう」
ミラが軽く受け流す。
「お前たちを見張る者も必要だった」
アリアの表情は動かない。
ロイが笑いかけて、少しだけ止まった。
「……冗談だよな?」
「どう思う」
「アリアの冗談は分かりにくい」
リリメリアがそう口にすると、アリアは微かに笑った。
「覚えておけ。王宮の狐どもは、もっと分かりにくい」
帰り道、町の人たちは調査隊に何度も礼をした。
胡椒鶏を持ってくる者がいた。
焼きたてのパンを包んでくれる者もいた。
子供を抱えたまま、深く頭を下げる者もいた。
リリメリアは、そういう時はありがとうではなく、どういたしましてと言うのだと知っている。
「どういたしまして」
そう返すと、ロイが後ろで小さく笑った。
「丁寧だな」
「丁寧は良いこと」
「そうだな。国の役人共にも聞かせてやりたい」
ミラの肘が、ロイの脇腹へ入った。
宿に戻ると、夕食は豆のスープと胡椒鶏のステーキだった。
リリメリアは肉を二切れ食べ、三切れ目を見て迷った。
「食べたいなら食べな」
ミラはそう促して、自分の皿を少しリリメリアの方へ寄せた。
「明日の分?」
「明日の分は別にある」
「じゃあ食べる」
「素直でよろしい」
食堂の端では、隊長とシエナが地図を広げていた。
エルナはその横で、旧帝都から持ち帰った金属板の写しを見ている。アリアは入口に近い席で、外の様子を見ていた。
ロイは椅子を後ろへ傾ける。
「ここの調査もあと三ヶ月か。このまま行けば、半年もしないうちに国境だな」
「早ければ、です」
シエナは地図から目を離さない。
「橋が残っていて、山道が塞がっていなくて、途中で妙な命令が届かなければ」
「最後のが一番嫌だな」
ロイがぽつりと落とした言葉で、食堂の空気が少し重くなる。
リリメリアはスープをすくう手を止めた。
本国の話になると、雰囲気が変わる。
旅の中で、何度もそれを見たことがある。
懐かしいのに、嬉しそうではない。
帰る場所なのに、急ぎたそうでもない。
「王宮は、旧帝都の発見物を全部出せと迫るだろう」
アリアの視線は、扉の外を向いたままだった。
「それが調査隊の任務でもあります」
シエナが静かに返す。
「発見物については、です。人については違う」
ミラの声が強くなる。
人。
その言葉の中に、自分が含まれているとリリメリアは分かる。
ロイが椅子の足を戻した。
「陛下はまだ不老不死の夢を諦めてないんだろ。旧帝国の遺物、黒い剣、旧市街で見つかった記憶のない子供。好きそうな話だ」
「リリは何も知らない」
「分かってる。俺たちはな」
ロイは苦い顔で笑った。
「本国は、調査隊がどれだけ危険な道を通ったかには興味がない」
エルナが小さく呟いた。
「成果にしか興味がないの」
「だからこそ、帰る前に整理しておく」
隊長がようやく口を開いた。
「リリメリアは保護対象だ。発見物ではない」
リリメリアは、皿の中の豆を見た。
発見物ではない。
それは五年前から、隊長が何度も口にしている言葉だ。
でも、何度聞いても胸の中に少し残る。
発見物ではない、と言われるということは、発見物だと思う人がいるということだ。
その夜、リリメリアはなかなか眠れなかった。
宿の外では、荷馬車が並んでいる。
黒い剣の入った箱は、その一番奥に積まれていた。
鍵がかかり、布が掛けられている。
黒い剣は、五年前から変わらない。
朝日を受けても明るくならず、火のそばにあっても火を映さない。
鞘もなく、傷だらけで、ただ黒い。
眠れないので起き上がり、何か用があるわけでもないが外へ出た。
夜気が頬に触れる。
荷物の見張りの交代までは少し時間がある。
宿の裏手は静かで、馬が時々鼻を鳴らすだけだった。
そこで白い服の女を見た。
女は、黒い剣が積まれた馬車の前に立っていた。
月明かりは薄い。
それなのに、女の輪郭だけは夜の中で淡く浮いていた。
真っ白な服には汚れひとつない。
長い銀髪は、風もないのに水面のようにわずかに揺れている。
綺麗だと思った。
けれどそれは、人の綺麗さとは違う。
花のようでも、宝石のようでもない。
むしろ、刃をよく研いだ時に一瞬だけ走る光に似ていた。
そこにいるのに、そこにいない。
夜が人の形を覚えてしまったような女だった。
リリメリアより少し年上に見えた。
けれど、大人なのか少女なのか、うまく分からない。
リリメリアは警戒して剣に手をかける。
「この町の人?」
女は少しだけ首を傾けた。
「違うよ」
声は鈴の音色に似ていた。
心地良いのに、耳に残ると冷える。
「旅の人?」
「それも違う」
「じゃあ、迷子?」
女は一瞬、驚いたような顔をしてからクスクスと笑った。
小さな笑い声だった。
けれど夜の中で、ひどく澄んでいた。
澄みすぎた水が、かえって底の深さを隠すように。
「迷子。そうだね。そうかもしれない」
「帰る場所が分からない?」
「帰る場所は、もうないかな」
女の視線が、布の掛かった箱へ落ちる。
その目に懐かしさはなかった。
悲しみもなかった。
失くしたものを悲しむ時期を、とうに過ぎてしまった者の静けさだけがあった。
「でも、行く場所ならある」
「どこ?」
「秘密」
リリメリアは眉を寄せた。
「秘密?」
「うん。今はね」
今は。
その一言は、笑っているのに温度を持たなかった。白い指で、胸の奥をそっと押されたような気がした。
「あなたは誰?」
「それも内緒」
女は自分のことではない何かを話すように、そう答えた。
「名前がないの?」
「あるよ。けれど、覚えてない」
女は初めて、リリメリアの目を見た。
おおよそ人の物ではないような、綺麗な水色の瞳だった。
澄んでいるのに、どこにも届かない。
空を映した氷のような色だった。
「剣は握れるようになった?」
リリメリアは黙る。
その問いは、昨日今日のことを聞いているようには聞こえなかった。
もっと前から決まっていた事柄を、今ようやく確認されたようだった。
「うん。弱い魔物なら倒せる」
「そう」
女は少しだけ微笑んだ。
その微笑みには、褒める色も喜ぶ色もなかった。
ただ、記録の空欄がひとつ埋まった時のような、静かな納得だけがあった。
「弱いものから始めるのは、いいことだよ」
「いいこと?」
「大事なものを斬る時に、手が震えなくなる」
リリメリアの手が、剣の柄を強く握った。
「大事なものは斬らない」
「斬らなければならない時が来る」
「来ない」
「来るよ」
女は静かに告げた。
告げる、というより、それは判決に近かった。
誰かを責めるためではなく、ただ既に置かれている事実を読み上げる声だった。
「君はいつか、それを願う」
「リリ……?」
ミラの声がした。
リリメリアは振り返る。
宿の裏口から、ミラが顔を出していた。
「こんな時間に何してるの。冷えるよ」
リリメリアはもう一度、馬車を見る。
女はいなかった。
白い服も、月明かりに薄く光る髪も、鈴のような笑い声もない。
ただ夜だけが、何も知らない顔でそこに戻っていた。
リリメリアは、しばらく馬車を見ていた。
「リリ?」
ミラが近づいてくる。
リリメリアは、女のことを言おうとした。
誰かがいた、と。
けれど、口を開く前にやめた。
女がいたと言えば、ミラは心配する。
ロイは幽霊だと言う。
アリアは警戒する。
だから首を横に振る。
「何でもない」
「何でもない顔じゃないけど」
「寒い顔」
ミラは呆れたように笑った。
「それなら戻ろう」
リリメリアは頷く。
宿へ戻る前に、もう一度だけ馬車を見る。
黒い剣は、何も言わない。
けれどリリメリアには、さっきの女の声がまだ耳に残っていた。
大事なものを斬る時に、手が震えなくなる。
自分の手を見る。
震えてはいない。
それが良いことなのか、悪いことなのか。
今のリリメリアには、まだ分からない。
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