奪われた名前
【主な登場人物】
リリメリア
旧帝都で5年前に拾われた記憶を失った少女。
黒灰色の髪と赤い瞳を持つ。
エルナと共に魔女の森を目指す。
エルナ
調査隊の魔術師。
真面目で冷静に見えるが、内には強い感情を抱えている。
失った仲間を取り戻す方法を探している。
行商人
自称悪魔の素性不明の行商人。
二人を導くが、何が目的なのかは分からない。
「夜が来た」
帳面の最後には、その一行だけが残されていたという。
誰が書いたのか。
夜が戻った時、地下に何人残っていたのか。
何も分からない。
リリメリアは、壁に刻まれた名前を見上げた。
天井近くまで、幾つもの名前が並んでいる。
夜を待ち続けた者達。
空が暗くなる前に死んでいった者達。
最後の一行を書いた者の名前も、あの中にあるのかもしれない。
「戻りましょう」
エルナが帳面を閉じた。
持ち上げようとして、手を止める。
古い頁は少し触れただけでも崩れそうだった。
「持っていかないの?」
「持ち出せば壊れます」
「ここに置いたままだと、誰にも読まれないかもしれないよ」
「それでも、ここに残すべきです」
エルナは帳面を元の場所へ戻した。
杖の光が、名前の刻まれた壁を照らす。
「この場所で残された物ですから」
行商人は階段の近くに立っていた。
何も言わず、上を見ている。
白い猫がその横を通り抜けると、三人も地下を後にした。
地上へ戻ると、礼拝所の中には月明かりが差し込んでいた。
崩れた屋根の向こうに細い月が浮かんでいる。
地下にいた者達が待ち続けた夜。
今では毎日、誰にも呼ばれずにやって来る。
行商人が石板へ手を掛けた。
エルナは杖を構えたまま、その動きを見ている。
行商人は片手で石板を持ち上げ、入口を塞いだ。
白い粉を足で寄せれば、そこに階段があったことも殆ど分からなくなる。
「これで良いかな」
「完全には隠れていません」
「こんな所まで来る人なんていないでしょ」
「私達が来ています」
「それは猫について来たからじゃん」
白い猫が振り返る。
自分のことを言われたと分かったのか、一度だけ尾を揺らす。
礼拝所の外へ出ると、冷たい風が丘を抜けていた。
行商人は崩れた壁の近くへ荷物を運び、火を起こし始める。
エルナはまだ杖を手放さなかった。
リリメリアは二人の間を見る。
昨日から、何も変わっていない。
行商人は笑っている。
エルナは警戒している。
「リリ」
エルナが呼ぶ。
「薪を集めます」
「うん」
礼拝所の周囲には、乾いた枝が幾つも落ちていた。
リリメリアが拾い集め、エルナへ渡していく。
エルナの歩き方はまだ少しぎこちない。
それでも昨日よりは、ずっと自然になっていた。
「足、良くなった?」
「少しは」
「まだ痛い?」
「歩けない程ではありません」
エルナは枝を抱え直す。
「明日には、もう少し進めるでしょう」
「薬が効いたんだね」
エルナの視線が、火を起こしている行商人へ向いた。
「そうでしょうね」
それ以上は言わなかった。
戻る頃には、火が上がっていた。
行商人は鍋へ水と干し肉を入れている。
「今日は草も入れるよ」
荷物から乾燥した葉を取り出す。
「食べられる草?」
「食べられるはず」
「はず?」
「前に食べても死ななかったから」
エルナが杖の先を鍋へ向ける。
「先にあなたが食べてください」
「毒味?」
「当然です」
「エルナちゃん、まだ怒ってる?」
「怒っています」
「おこりんぼだね」
食事の間も、エルナは必要なことしか話さなかった。
行商人が何か言えば短く返す。
けれど追及はしなかった。
トマと名乗っていた魔物のことも。
何故、行商人が正体を見抜けたのかも。
聞いても答えないと分かっているのかもしれない。
夜が深くなる頃、エルナは毛布へ横になった。
杖は手の届く所へ置いている。
「見張りは交代で行います」
「アタシがやるよ」
「信用出来ません」
「寝てる間に襲ったりしないって」
「リリに近付かないでください」
「はいはい」
行商人は火の反対側へ座った。
エルナは暫く睨んでいたが、やがて目を閉じる。
疲れていたのだろう。
リリメリアは毛布の中で目を開けていた。
眠れなかった。
地下の壁と最後の一行。
昨日、行商人が剣を振った時の音。
それから、エルナに責められても何も言わなかった行商人の顔。
白い猫は焚き火の近くで丸くなっている。
火の向こうには、行商人が一人で座っていた。
「リコ」
リリメリアが呼ぶ。
行商人が顔を上げる。
「眠れない?」
「うん」
「地下が怖かった?」
「少し」
「幽霊でも出そうだったもんねえ」
「出たよ」
行商人の表情がわずかに硬くなる。
「出たの?」
「ベル」
「ああ。さっきエルナちゃんに言ってた子?」
「うん」
「どんな子?」
「白い服で、銀色の髪」
「へえ」
「ベルは怖くないよ」
「じゃあ何が怖いの?」
リリメリアは毛布から身体を起こした。
焚き火の近くへ座る。
行商人はエルナに言われた通り、元の場所から動かなかった。
「擬態してた魔物のこと」
「そっか」
「まだ怖い」
「うん」
行商人は笑わなかった。
火の中で枝が崩れる。
赤い火の粉が一つ浮かび、暗闇へ消えた。
「リコは、あれが魔物だって分かってたんだよね」
「分かってたよ」
「どうして?」
「ひみつ」
「何で?」
「言いたくないから」
行商人は迷わず答えた。
誤魔化すように笑うこともしなかった。
「エルナが怒ってた時も、何も言わなかった」
「うん」
「どうして?」
「言っても仕方ないから」
「信じてもらえない?」
行商人は少しだけ、ほんの少しだけ寂しそうな表情をした。
「昔は教えてたよ」
「昔?」
「どうして分かったのか。何で殺したのか。放っておいたらどうなってたのか」
細い枝を一本、火へ投げる。
「でも、分からない人にはわからないんだよね。アタシの目は人よりもいろいろなことが見えすぎるようだし」
「私は魔物だって分かったよ」
「後からでしょ?」
「うん」
「だったら同じ」
行商人の声は軽やかだ。
けれど、何処か上の空のようだった。
「だから何も言わなかったの?」
「そうだねえ」
「エルナに嫌われても?」
「慣れてるから」
行商人は悲しそうに笑った。
だからこそ、リリメリアには少しだけ変に見えた。
「リコは、言い訳しなかった」
「言い訳?」
「自分は悪くないって言わなかった」
「実際、悪くないと思ってるけどねえ」
「でも言わなかった」
「言ってもエルナちゃんは怒るでしょ」
「怒ると思う」
「じゃあ意味ないじゃん」
行商人は肩を竦めた。
リリメリアは火を見る。
「私も怖かった」
「うん」
「悪い人だと思った」
「そっか」
「でも」
言葉が止まる。
上手く説明出来なかった。
行商人は急かさずに待っている。
「悪い人なら、あんな顔しないと思った」
「あんな顔?」
「エルナに怒られてた時の顔」
行商人が自分の頬へ触れる。
「どんな顔してた?」
「分からない」
「分かんないんだ」
「でも、嬉しそうじゃなかった」
「怒られて喜ぶ趣味はないよお」
「悲しそうでもなかった」
「じゃあ何?」
「諦めてるみたいだった」
行商人の手が止まる。
火が揺れ、顔の半分へ影が落ちた。
「だから、知りたい」
「アタシのこと?」
「うん」
「怖いのに?」
「怖いままだと、分からないから」
「分からないまま離れれば良いじゃん」
「離れたくない」
リリメリアはすぐに答えた。
自分でも、何故そう思ったのかは分からなかった。
ただ、行商人がここからいなくなるのはなぜだか嫌だった。
「リコはエルナを助けた」
「薬を売っただけだよ」
「お金、まだ払ってない」
「後で貰うつもり」
「私も助けた」
「いつ?」
「トマから」
「あれはアタシが殺したかっただけ」
「それでも助かった」
行商人は何も言わなくなった。
リリメリアは行商人の金色の瞳をまっすぐ見つめる。
「だから、もっとリコのことを知りたい」
暫く、焚き火の音だけが続いた。
白い猫が顔を上げ、二人を見ている。
やがて行商人は小さくため息をつく。
「変な子」
「そうかな」
「普通の子はアタシのような化物から逃げていくよ」
「リコは化物じゃない」
行商人は少し驚いたような顔をしてから少しだけ笑った。
今度の笑顔は、少しだけ力が抜けていた。
「ありがと」
「何が?」
「分かろうとしてくれて」
リリメリアは頷いた。
「うん」
行商人は火へ視線を戻す。
それから何かを思い出したように、口を開いた。
「そういえば、魔女の森に入ったら名前を教えちゃ駄目だからね」
「名前?」
「性格の悪い魔女にとられちゃうからかもしれないから」
「名前を取られたら、どうなるの?」
「忘れる」
「名前を?」
「名前も。持っている魔力もごっそりね」
行商人は自分の胸元へ触れた。
「死ぬ?」
「死なないよ。でも自分が誰だったのか分からなくなる」
リリメリアは壁に刻まれていた名前を思い出した。
死んだ者を残すために刻まれた名前。
それすら奪われたなら、その者がいたことは何処に残るのだろう。
「リコは取られたの?」
ほんの僅かに、笑顔が消えた。
「そう見える?」
「リコは、本当の名前じゃない気がする」
「どうして?」
「分からない」
リリメリアは首を傾げる。
「でも、今の話をする時だけ、違う顔だった」
「リリちゃん、意外と見てるねえ」
否定はしなかった。
「取られたよ。昔ね」
「自分の名前、覚えてないの?」
「全く覚えてないね」
行商人は自分の掌を見る。
指先を確かめるように、ゆっくり握る。
「今より強かったの?」
「もちろん」
行商人は笑う。
「あそこで第六天使が万全だったらちょっとやばかったね」
「じゃあリコは、新しく貰った名前?」
「貰ったんじゃなくて、勝手に使ってるだけ」
「誰の名前?」
「内緒」
「魔女の?」
行商人の口元が少し上がる。
「どうだろうねえ」
その笑い方は、先程までとは違い、悪戯が見つかった子供のような顔だった。
「名前なんて呼ばれれば、その内それらしくなるから」
「リコはリコ?」
「今はね」
「じゃあ私が呼ぶ」
「何を?」
「リコ」
リリメリアは言った。
「忘れないように」
行商人は目を瞬いた。
それから視線を逸らし、火へ細い枝を投げる。
「それ、結構恥ずかしいこと言ってるよ」
「そうなの?」
「そうだよお」
「嫌だった?」
「嫌じゃないけど」
行商人は笑った。
「大きくなったら、あんまり人に言わない方が良いねえ」
「何で?」
「変な人に好かれるから」
「リコも変な人?」
「かなりね」
白い猫が小さく鳴く。
眠っていたエルナが僅かに身動きをした。
二人は同時にそちらを見る。
エルナの呼吸は変わらない。
「もう寝た方が良いよ」
「うん」
リリメリアは毛布へ戻る。
横になる前に、もう一度だけ振り返った。
「おやすみ、リコ」
「おやすみ。リリちゃん」
翌朝。
目を覚ますと、エルナが礼拝所の外を歩いていた。
杖を使わず、自分の足だけで歩いている。
動きにはまだ硬さが残っているが、昨日よりずっと自然だった。
「エルナ」
リリメリアが駆け寄る。
「もう歩けるの?」
「長くは無理ですが」
エルナは自分の足を見る。
「魔女の森までは進めるでしょう」
行商人が荷物を背負った。
「じゃあ、あと三日くらいかな」
「昨日は四日と言っていました」
「エルナちゃんが元気になったから」
「あなたの薬が効いただけです」
「それ褒めてる?」
「事実を述べています」
行商人は嬉しそうに笑う。
エルナはまだ警戒していた。
何も変わっていない。
けれどリリメリアだけは知っている。
リコという名前が、本当の名前ではないこと。
「行こっか、リリちゃん」
「うん、リコ」
エルナが二人を見る。
「何ですか」
「何でもないよお」
白い猫が街道へ出る。
三人もその後を追った。
魔女の森まで、あと三日。
そこには名前を奪う魔女が待っている。
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