炉の姫
【主な登場人物】
リリメリア
旧帝都で見つかった記憶のない少女。調査隊と旅をしながら、言葉や感情や剣の扱いを少しずつ覚えていった。
エルナ
金色の髪の魔術師。
真面目でルールを重んじる。魔術や歴史に詳しい。
行商人
悪魔を自称しており、名前はリコと名乗っている。
森林地帯までは、歩いて2週間程だと行商人は言った。
けれどそれは、怪我人がいない時の話らしい。
エルナは杖を突く度に僅かに顔を歪めた。
治癒術で傷は塞いでいるが失った血も魔力も、すぐには戻らない。
リリメリアは何度も歩幅を緩めた。
その度にエルナも同じだけ遅くなる。
「先に行って構いません」
「一緒に行く」
「ですが」
「一緒に行く」
二度言うと、エルナは何も返さなかった。
少し前を歩いていた行商人が振り返る。
「仲良しだね〜」
「あなたは黙って歩いてください」
「怪我人に合わせてあげてるのに」
「その割には速いです」
「足が長いからかな~」
エルナは答えず、杖を地面へ少し強く突いた。
白い猫だけが三人の間を行ったり来たりしている。
街道の途中で休憩を挟んだ。
道の脇に倒れた石柱があり、その陰には白い粉が積もっていない。
行商人は白い猫と一緒に水を探しに行った。
エルナは石柱へ背を預けて目を閉じる。
リリメリアは荷物からシエナの記録帳を取り出した。
昨夜は逃げ道を探すために、最後の頁ばかりを読んだ。
今度は最初から開く。
調査隊が通った土地。
見つけた遺物。
買った食料。
壊れた道具。
隊員の怪我。
ロイが勝手に酒を買い、隊長に半分取り上げられたことまで書かれている。
頁をめくる度に、シエナの声が聞こえる気がした。
記録は、残すためにあります。
途中で、一枚の薄い紙が落ちた。
上の方に小さく、旧帝都教会区回収品写しとある。
文字の半分程は欠けていた。
生命。
蘇生。
炉。
そして中央に、少し大きな文字で三文字が囲われている。
万命炉。
「エルナ」
目を閉じていたエルナが顔を上げる。
リリメリアから紙を受け取り、何度か文字を目で追った。
「これは、旧帝国語です」
「読める?」
「一部だけなら」
囲いの下には、シエナの小さな字が残されていた。
万の命を納める炉。
死を越える技術との関連は不明。
記録の欠損が多く、断定不可。
「死を越える」
リリメリアが読む。
「死ななくなるってこと?」
「その可能性はあります」
「他には?」
エルナは少し黙った。
「死んだ後に、戻ることも」
風が止まったように感じた。
「隊長も?」
問いかけた後で、喉の奥が狭くなった。
隊長。
ロイ。
シエナ。
アリア。
ミラ。
名前にすれば、全員の顔が浮かぶ。
最後に見た顔まで。
「まだ何も分かっていません」
エルナの声は静かだった。
「万命炉が何なのかも。今も残っているのかも。人を蘇らせる物なのかも」
「でも、違うとも書いてない」
エルナの指が僅かに震えた。
「はい」
リリメリアは胸元へ手を当てた。
傷とは違う場所が、町を離れてからずっと痛んでいる。
けれど今は、その奥に細い道が出来たような気がした。
「戻せるなら、戻したい」
エルナが顔を上げる。
「みんなに、もう一度会いたい」
その言葉を口にすると、痛みが少し強くなった。
エルナは紙を丁寧に畳み、記録帳へ戻した。
「私もです」
三人が再び歩き始めた頃には、空が僅かに暗くなっていた。
その日の暮れ、街道沿いに畑と十数軒の家を有する小さな村があった。
村の中央には小さな鐘楼があり、その下には白い花が飾られている。
行商人が交渉して取ってくれた宿は、食堂と一緒になった小さな家だった。
暖炉の上にも同じ花が置かれ、その隣には金色の髪をした少女の木彫り人形がある。
「誰?」
リリメリアが聞くと、宿の女主人が笑った。
「炉の姫様さ」
「炉の姫?」
「この辺りじゃ、春になると誰でも聞かされる話だよ」
女主人は鍋を混ぜながら、火のそばにいた子供たちを手招きした。
昔々、世界の果てに、一年の半分を雪に閉ざされる国があった。
その国には、陽の光を溶かしたような金色の髪を持つ姫がいた。
姫は城の高い窓から国を眺めるより、町へ降りて人々と話すことを好んだ。
春には子供たちと花冠を作り、夏には畑で泥だらけになり、冬が来ると暖炉の薪を貧しい家へ配らせた。
国の人々は、姫が笑うと春が一日早く来ると言った。
王もまた、国で最も姫を愛していた。
王妃を早くに亡くした王にとって、姫は残された家族の全てだった。
けれどある冬、姫は重い病に倒れた。
王は国中の医者を集め、海の向こうから薬師を呼び、山の魔女には王冠より大きな宝石を差し出した。
人々も窓辺へ灯りを置き、姫が目を覚ますよう祈った。
それでも姫は、春を見る前に亡くなった。
その日から王は玉座へ座らなくなった。
国から歌が消え、市場から笑い声が消えた。
春が来ても雪は溶けず、木々は蕾を閉じたままだった。
七日目の夜。
王は、城の地下に国が生まれるよりも昔から眠る炉があることを思い出した。
その炉は鉄を溶かすための物ではない。
帰る場所を失った命へ、もう一度道を照らす火なのだと。
王は一人で地下へ降りた。
百段の階段を下り、七つの扉を開けると、暗闇の中に大きな炉があった。
火は消えていた。
王は炉の前に膝をつき、王としてではなく、一人の父親として願った。
もう一度だけ、娘の声が聞きたい。
もう一度だけ、あの子に春を見せたい。
朝が来るまで王は願い続けた。
やがて炉の奥に、小さな火が灯った。
火は金色の糸になって城の壁を上り、姫の眠る部屋へ届いた。
国中の窓辺に置かれた灯りも、一つずつ同じ色に変わった。
凍っていた川が流れ始めた。
雪の下から白い花が顔を出した。
そして朝。
姫は長い眠りから目を覚ました。
最初に言った言葉は、父の名でも、自分の名でもなかった。
「春が来たのですね」
王は泣きながら、何度も頷いた。
姫が城の扉を開けると、国中の人々が待っていた。
誰も声を出せなかった。
姫が以前と同じように笑うまで、誰もそれが夢ではないと信じられなかった。
その年の花祭りは、七日七晩続いた。
姫は白い花で冠を作り、父である王の頭へ載せた。
やがて姫は町で花を育てていた青年と結ばれ、長く幸せに暮らした。
年老いて白い髪になってからも、炉の火が見せてくれた最初の春を忘れなかった。
姫が再び眠りについた時、王も国の人々も泣いた。
けれど今度は、誰も炉へ火を入れなかった。
姫が生きた長い春を、皆が知っていたから。
それから国では、亡くした人を忘れないため、春の初めに白い花を飾るようになった。
もう会えない人にも、春が届くように。
「めでたし、めでたし」
女主人が木匙で鍋の縁を叩くと、子供たちは満足そうに笑った。
「姫様は本当に戻ったの?」
「おとぎ話ではね」
「炉も?」
「さあねえ」
女主人は煮込みを皿へ盛った。
「姫様の名前も王様の名前も、村によって違う。炉を作ったのが王様だったり、魔女だったり、天から落ちた星だったりもするよ」
「果ての国は?」
「白い空の向こうに沈んだ、昔の大きな国だと言われてる」
エルナとリリメリアの視線が重なる。
シエナの紙。
万命炉。
滅びた国。
三つが同じ物を示しているとは限らない。
それでも、偶然として片づけるには似すぎていた。
「どうして白い花なの?」
「姫様が目を覚ました朝、雪の下から最初に咲いた花だからさ」
女主人は暖炉の上を見た。
「亡くした人にも春が届くように。そう願って飾るんだよ」
夜。
二階の小さな部屋で、エルナは横になるとすぐに眠った。
行商人は隣の部屋にいる。
リリメリアは窓辺に座り、シエナの記録帳を開いていた。
万命炉。
指で文字をなぞる。
戻せるかもしれない。
その言葉だけが胸の奥に残っている。
窓硝子に、白い影が映った。
振り返ると、銀色の髪をした女が立っていた。
女は何も言わず、記録帳を見ている。
夢の中で会った時を含めれば、これで四度目だった。
現れる度に聞こうと思っていた。
「ずっと聞きたかった」
女が顔を上げる。
「何を、かな」
「あなたは誰?」
女は少しだけ笑った。
「名前はないよ」
「分からないんじゃなくて?」
「そうかもね」
女の水色の瞳が、リリメリアを見つめる。
「言わないこともあるけどね」
「どうして私にだけ見えるの?」
「さあ。運命とか?」
「答えになってない」
「そうだね」
悪びれた様子はなかった。
リリメリアは部屋の隅に立てかけた黒い剣を見る。
「黒い剣と関係ある?」
「あるよ」
今度はすぐに答えた。
「剣の中にいるの?」
「それは少し違うかな」
「どこにいるの?」
「今は、ここだね」
女が床を指さす。
聞いても、分からないことが増えていく。
けれど何も答えてくれない訳ではなかった。
リリメリアは記録帳を持ち上げる。
「万命炉を知ってる?」
「知ってるよ」
迷いのない答えだった。
リリメリアは女の顔を見る。
「何をする物?」
「それは教えられないかな」
「どうして?」
女は記録帳に書かれた三文字を見た。
「分からないものを調査するのが調査隊なんじゃなかったっけ?」
「分からないから、あなたに聞いてる」
女は僅かに目を細めた。
「なら、自分の目で見た方がいいね」
「見られるの?」
「それも、まだ分からないかな」
「また答えてない」
「全部答えたら、これからの冒険が面白くないんじゃないかな」
女は僅かに口元を上げた。
冗談を言っているようにも見えた。
「姫は戻れたんだって」
「そうだね」
「本当かな」
女は何も答えず、静かに笑った。
リリメリアは胸の奥へ手を当てる。
また、名前の分からない痛みがあった。
「森に着いたら、魔女に聞く」
「人を食べる魔女に?」
「そう聞いた」
「怖くないのかな」
「怖い」
言ってから、少し考える。
「でも、知りたい」
女はリリメリアに視線を向ける。
「万命炉のことを?」
「それも」
リリメリアは女の目を見返す。
「あなたのことも」
女の笑みが少しだけ薄くなった。
「知らない方がいいかもしれないよ」
「それは、私が決める」
女は何も言わなかった。
水色の瞳が僅かに細められる。
「そうだね」
瞬きをした時には、女の姿は消えていた。
リリメリアは寝台へ入り、枕元にシエナの記録帳を置く。
亡くした人にも、春が届くように。
目を閉じると、白い花の下で笑う人々が浮かんだ。
その中に隊長たちの姿と、名前を教えてくれない白い女の姿を探しながら、リリメリアは眠りについた。
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