409 Conflict
【主な登場人物】
リリメリア
旧帝都で見つかった記憶のない少女。調査隊と旅をしながら、言葉や感情や剣の扱いを少しずつ覚えていく。
隊長
調査隊を率いる男。大柄で声も大きく頼りになる。
リリメリアを発見物ではなく、保護すべき人として扱う。
アリア
調査隊の副隊長。口数は少ないが、周囲をよく見ている。
元近衛という経歴を持つが、王宮との関係にはどこか冷えたものがある。
ロイ
槍を使う調査隊員。
よく喋り、よく笑い、重くなりがちな場の空気を和ませる。
エルナ
金色の髪の魔術師。
真面目で手順やルールを重んじる。魔術や歴史に詳しい。
シエナ
調査隊の記録係。旧帝国語や古い記録を読み解く。
ミラ
調査隊の料理係。食事や包帯や日々の暮らしを支える人。
シエナは、崩れた宿の瓦礫に埋もれていた。
石と柱と割れた床材が折り重なり、彼女の身体を地面に縫いつけている。
動こうとしても、動かないことが分かる。
だからシエナは動かなかった。
動かなければ、まだ少しだけ人間の形を保っていられた。
息を吸う。
喉に砂が入る。
咳をすると血が出た。
血は赤かった。
それが少し意外だった。
周りは白いものばかりだったからだ。
白い結晶。
白く濁った魔物の体液。
白い羽根のような粉。
白い光。
瓦礫の隙間から差すそれらの中で、自分の血だけがまだ赤い。
人として生きている証拠のようにも見えた。
死に近づいている証拠のようにも見えた。
「リリさん」
声を出したつもりだった。
けれど、自分の耳にもほとんど届かなかった。
もう一度、息を吸う。
肺の奥が焼ける。
「リリさん」
今度は届いた。
崩れた柱の向こうで、リリメリアが振り返った。
赤い瞳。
灰を溶かしたような黒灰色の髪。
小さな身体。
手には黒い剣。
その姿が見えた瞬間、シエナは笑おうとした。
調査隊の記録係として。
年上の仲間として。
怖がらせないために。
だが、頬の片方しか動かなかった。
笑顔になったかどうかは分からない。
「シエナ」
リリメリアが駆け寄ろうとする。
「来ないで」
思ったより強い声が出た。
自分でも驚いた。
その声に、リリメリアの足が止まる。
止まってくれた。
よかった。
来られたら困る。
自分の状態を見られたら困る。
自分の身体がどこからどこまで無事なのか、リリメリアに知られたくなかった。
「これを」
シエナは胸元に抱えていた記録帳を差し出した。
革表紙は裂けている。
金具も歪んでいる。
角には血が染み込んでいた。
それが自分の血なのか、誰かの血なのか、もう分からない。
「持っていってください」
リリメリアは首を横に振った。
「シエナも」
「私はもう駄目です」
「嫌」
「嫌でもです」
シエナは言葉を止めた。
言葉を選ぶ余裕はない。
けれど、間違えたくなかった。
これが最後の記録になるかもしれない。
最後にリリメリアへ残す言葉になるかもしれない。
「リリさん。これは、調査隊の日誌です」
「うん」
「隊長の判断も、エルナさんの治療記録も、アリアさんの配置も、ロイさんの報告も、ミラさんの食堂のことも」
そこで、喉が詰まった。
ミラ。
さっきまで、どこかで声がした気がした。
笑っていたような声。
泣いていたような声。
それが人間の声だったのか、魔物の声だったのか、シエナにはもう分からない。
「リリさんのことも、書いてあります」
リリメリアが記録帳を見る。
「私のこと」
「はい。発見物としてではなく」
シエナは血で濡れた唇を動かした。
「仲間として」
リリメリアの目が揺れた。
シエナは記録帳を押し出す。
腕が重い。
肘の骨がどこかで折れているのかもしれない。
それでも、差し出す。
「持っていってください」
「でも、シエナが」
「記録は」
声が震えた。
駄目だ。
震えるな。
今だけは。
今だけは、ちゃんとした声で。
「記録は、残すためにあります」
リリメリアの指が記録帳へ伸びる。
触れる。
けれど、掴まない。
「私には、分からない」
シエナは、できるだけ穏やかに言おうとした。
声は掠れていた。
それでも、リリメリアが怖がらないように、言葉だけは崩さなかった。
「今は分からなくてもいいんです」
シエナは続けた。
「分からないことは、分からないまま残してください。後で、誰かが読み解きます。リリさんが読んでもいい。エルナさんが読んでもいい。王都の誰かでもいい。後の誰かでもいい」
リリメリアはまだ泣いていなかった。
泣き方を知らないような顔をしていた。
それが、シエナにはひどく痛かった。
泣いてくれた方が楽だったかもしれない。
嫌だと叫んでくれた方が。
助けると言って、石に手をかけてくれた方が。
でも、そうされたら自分はきっと言ってしまう。
置いていかないで。
助けて。
死にたくない。
だから、今は駄目だ。
「行ってください」
「シエナ」
「行って」
リリメリアは足が動かなかった。
シエナは記録帳をもう一度押しつけた。
「行きなさい」
その声だけは、よく通った。
自分の声ではないようだった。
記録係ではなく、生き残る者へ命じる者の声。
リリメリアの小さな腕が革表紙を抱く。
その腕に、シエナの血が少しついた。
リリメリアはそれを見た。
シエナも見た。
「ごめんなさい」
リリメリアの声は小さかった。
謝るというより、どこに置けばいいか分からない言葉が、ただこぼれたようだった。
シエナは笑った。
血で濡れた唇の端を、ほんの少しだけ上げる。
今度は、ちゃんと笑えた気がした。
「謝ることではありません」
嘘。
謝ってほしかった。
助けられなくてごめんと、何度でも言ってほしかった。
死なせてごめんと、泣いてほしかった。
それでも言わなかった。
「行ってください」
リリメリアは走った。
何度も振り返った。
そのたびにシエナは頷いた。
大丈夫。
行って。
私は大丈夫。
嘘をつき続けた。
リリメリアの足音が遠ざかる。
瓦礫の向こうへ消え、見えなくなる。
それでもまだ、シエナは笑っていた。
最後まで見送らなければならないと思った。
見えなくなるまで。
聞こえなくなるまで。
リリメリアが、自分を置いて行けたと分かるまで。
そして。
足音が完全に消えた。
その瞬間、シエナの表情が崩れた。
「……いや」
唇から漏れた声は、さっきまでのものとはまるで違う。
幼く、情けなかった。
誰かに聞かれたら恥ずかしい声だった。
でも、もうリリメリアには聞こえない。
「いやだ」
瓦礫を押しても動かなかった。
もう一度押した。
爪が石に引っかかる。
爪が割れ、肉が裂ける。
痛い。
痛い。
痛い。
でも、下半身の感覚よりは分かりやすかった。
「死にたくない」
言ってしまった。
一度言うと、もう止まらなかった。
「死にたくない。死にたくない。死にたくない」
シエナは石を掻いた。
書くための手で。
文字を残すための指で。
必死に、意味のない線を瓦礫に刻んだ。
助けて、と書こうとしたのかもしれない。
嫌だ、と書こうとしたのかもしれない。
自分の名前を書こうとしたのかもしれない。
だが、指はもう文字を作れなかった。
血の線が何本か残るだけだった。
遠くで、低い音がした。
唸り声。
シエナは呼吸を止めた。
音は近づいてくる。
ずる。
ずる。
濡れた肉を石の上で引きずる音。
瓦礫の隙間の向こうに、白い目が見えた。
魔物だった。
人間の形を少しだけ残している。
片腕は長すぎる。
口は耳の近くまで裂けている。
胸のあたりに、焦げた布が貼りついていた。
宿の食堂で見慣れた布だった。
白い粉に汚れ、焦げて、裂けている。
それでも、見間違えることはできなかった。
ミラがいつも腰に巻いていた布だった。
「ミラ、さん」
思わず声が出る。
出してから、後悔した。
魔物は返事をしない。
けれど、その白い目が少しだけ細くなった。
喜んでいるのか。
反応しているだけなのか。
分からない。
「来ないで」
シエナは震えた声で言った。
「来ないで。来ないで」
魔物は止まらない。
瓦礫の隙間に顔を押し込む。
骨が石に当たって、ゴリゴリと音がする。
入らない。
入らないはずだった。
シエナは一瞬だけそう思った。
だが魔物は、自分の頬を石に擦りつけながら、無理やり顔を潰して隙間へ入ってきた。
皮膚が裂ける。
白い液体が石に塗られる。
それでも進んでくる。
人の造形をしているのに、人ではない動きをしている。
そのことが、一番怖かった。
「助けて」
ついに言った。
誰に言ったのかは分からない。
隊長。
エルナ。
アリア。
ロイ。
リリメリア。
誰でもよかった。
誰か。
誰か。
誰か。
魔物の息が頬にかかる。
腐った水と血と、甘い焦げ臭さ。
シエナは顔を背けようとした。
けれど瓦礫に挟まれた身体は、顔を動かすことすら許してくれなかった。
魔物の歯が肩に触れる。
少しだけ噛む。
確かめるように。
シエナの喉から声が出た。
悲鳴だった。
それは記録にならない音だった。
意味を持たない音だった。
ただ、痛いと、怖いと、生きていたいという音だった。
「いやだ、いやだ、いやだ!」
魔物が噛みつき、肩の肉が引かれる。
身体が瓦礫の下で動こうとして、動けず、潰れた場所が内側から裂けるように痛んだ。
シエナは泣いた。
涙が泥と血で汚れた頬を流れる。
「まだ死にたくない」
もう一度叫んだ。
最後まで言えたかは分からない。
魔物は食べるために彼女を見ていた。
悪意でも恨みでも怒りでもない。
そこにある柔らかいものを口に入れるだけ。
シエナはその時、初めて本当に一人になった。
記録も日誌も、仲間もいない。
残すものをすべて渡してしまった後の自分には、もう何もなかった。
ただ死にたくない身体だけが残っていた。
その身体も、少しずつ持っていかれる。
最後にシエナの手が動いた。
何かを探した。
記録帳。
筆。
リリメリアの手。
見つからない。
指先が空を掻く。
血で濡れた石の上に、短い線が一本残った。
それは文字にはならなかった。
けれど、確かに誰かがそこにいた跡だった。
その断末魔は、広場まで届く。
魔物と戦う隊長は、剣を振る手を止めた。
止めてはいけないと分かっていても、止まってしまった。
今の声を、聞き間違えるはずがない。
シエナだ。
宿の方向から聞こえた。
それらが並んだ瞬間、隊長の足が一歩だけ宿の方向に動いた。
南の鐘ではなく、崩れた宿へ。
「隊長」
アリアの声が聞こえる。
気付くと白い手が、自身の喉を掴んでいた。
瓦礫と炎の向こうにいたはずの天使が、いつの間にか目の前に立っている。
隊長の首を掴み、片手で吊り上げていた。
「良い声でしたね」
第六位天使は嬉しそうに言った。
「記録係の方でしょうか。最後まで何かを残そうとするのは関心です」
隊長は剣を振ろうとしたが、腕が動かない。
首を掴む白い指から、冷気のようなものが体内に入り込んでくる。
足元が白く光る。
いつもの柱とは違った。
一瞬ではない。
光は隊長の靴の下から湧き、ゆっくりと身体を包んだ。
第六位天使が、ほんの少し首を傾ける。
「おや」
隊長の皮膚の下で、何かが軋んだ。
骨ではなく、血でもない。
もっと深いところにある何かが、白い指に掴まれている。
「あなたは、少し粘りますね」
天使の声に、興味が混じった。
「ただの人形ではありませんか」
隊長は答えられない。
喉を掴まれたまま、口の端から血が落ちる。
赤い血だった。
それが白い光の中へ落ち、すぐに薄く濁る。
腕に白い筋が走った。
肩から首へ、結晶のようなものが浮かぶ。
視界の端が白くなる。
水の落ちる音が、耳の内側から聞こえた。
ぽたり。
ぽたり。
ぽたり。
隊長の剣が手から落ちた。
石畳に当たり、硬い音を立てる。
まだ魔力が残っていた。
剣身の奥に、薄い光が残っている。
軽い足音。
瓦礫を踏まない歩幅。
呼吸を殺して、空気の隙間へ入る気配。
落ちた剣が拾われる音がした。
隊長の魔力に、別の魔力が重なる。
細く、冷たく、迷いの少ない魔力。
昔の夜を思い出した。
まだ調査隊が今の形になる前。
王都を出る前の宿で、外では雨が降っていた。
隊長は窓際に立ち、濡れた通りを見ている。
アリアは呼ばれた理由も分からず、部屋の隅に立っている。
「王都の近衛だけじゃないな」
隊長が何かを確かめるように言った。
アリアは答えなかった。
「何の話だ」
「足音が小さい」
隊長は振り返る。
「守るために前へ出る歩き方じゃない。背後へ回り、影の中で戦う者の歩き方だ」
部屋の中の空気が少し変わった。
アリアは静かに手を剣の近くへ落とす。
隊長はそれを見ていた。
「暗部にいたことを責めるつもりはない」
「知っていたのか」
「気づいた」
「いつから」
「最初から」
アリアは口を閉じる。
雨の音だけがする。
「知っていて誘ったのか」
「ああ」
「物好きだな」
「必要だった」
隊長はそう言った。
あまりにも普通に言ったので、アリアは少しだけ眉を動かした。
「殺しの技術が必要だったと?」
「違う」
隊長は首を横に振る。
「お前が必要だった」
「私を?」
「俺は甘い」
「自分で言うのか」
「言うとも」
隊長は自嘲気味に笑った。
「俺は、最後の最後で迷う。助けられるかもしれないと思ったら、手を伸ばす。斬らなければならない時にも、理由を探す」
「それが悪いことか」
「悪いとは思っていない」
隊長は物憂げに言った。
「だが、それだけでは皆を守れない時がある」
アリアは隊長の目をじっと見た。
隊長は目を逸らさなかった。
「どうしようもなくなった時に、正しい決断ができる人間が必要だった」
「それが私か」
「そうだ」
アリアは少しだけ笑った。
「私より強いだろ」
「強いことと、決められることは違う」
雨の音が続いている。
「俺が迷った時は、斬ってくれ」
「命令か」
「頼みだ」
「会って三度目の人間に頼む内容じゃないな」
「だから副隊長に任命する」
アリアはしばらく黙っていた。
それからようやく口を開く。
「了解」
雨は鳴り止まない。
天使越しに、隊長の目がアリアを見ていた。
白い光の中で、まだ人の目をしていた。
喉を掴まれたまま、隊長の唇が動く。
声はほとんど出ていない。
けれど、アリアには口の動きで分かった。
「斬れ」
アリアは隊長の剣を握り直した。
「了解」
踏み込む。
隊長の剣に残った魔力と、アリア自身の魔力が重なる。
刃が白く光る。
第六位天使が振り返るより早く、アリアは剣を振り抜いた。
斬線は白い腕を通り、第六位天使の胴を隊長ごと横に裂いた。
白い光が爆ぜる。
隊長の身体が地面へ落ちる。
第六位天使の上半身が大きく傾く。
白い粉が、血のように噴き上がった。
「――ああああああああああああああ!」
第六位天使が叫んだ。
初めて、芝居がかった声ではなく、痛みに引き剥がされた声だった。
「よくも」
白い顔が歪む。
「よくも、私の身体を」
裂けた胴が、白い粉を吸い寄せるように再生を始める。
骨のようなものが、肉のようなものが、白い服の輪郭までもが、元の形へ戻ろうとする。
だが、時間は稼いだ。
アリアは隊長の方を見なかった。
見れば、足が止まる。
足が止まれば、犠牲の意味がなくなる。
南の鐘へ。
リリたちのもとへ。
アリアは剣を握り直し、走ろうとした。
その前に、瓦礫の山が動いた。
巨大な白い魔物が、道を塞いだ。
王宮騎士団の鎧の残骸を背中に巻き込み、腕は地面に届くほど長い。
顔の半分に、人だった頃の形が残っている。
ガルドだったものだ。
アリアは右手の隊長の剣、左手の自分の剣を構える。
ガルドだったものが突進する。
大きく、速い。
けれど雑な動きではなかった。
腕を振るう前に、片足を引く。
盾を構える癖が残っている。
突進の途中で、半身をずらす。
訓練の頃の動きだ。
アリアは正面から受けなかった。
崩れた壁を蹴り、横へ跳ぶ。
白い腕が石畳を砕く。
砕けた石が跳ねる。
アリアはその一つを蹴り上げ、魔物の白い目へ飛ばした。
効いたのかは分からない。
だが一瞬、視線が逸れる。
その隙にガルドだったものの膝裏へ剣を入れる。
硬い。
ただ斬るだけでは足りない。
アリアは刃に魔力を薄く乗せ、骨ではなく支点を滑らせる。
膝が崩れ、巨体が傾く。
それでも腕が来る。
アリアは身を沈め、白い腕の下を抜ける。
背後に回り、隊長の剣を両手で握り、脊椎のあたりへ叩き込む。
白い粉が噴き、魔物が吠える。
人の声に似たものが混じっていた。
アリアは表情を変えなかった。
もう一度。
今度は鎧の残骸の隙間へ刃を入れる。
大きな身体が膝をつく。
まだ止まらない。
腕が伸びる。
アリアの肩を掠める。
肉が裂ける。
痛みはある。
だが、暗部の過酷な訓練を叩き込まれた身体は、
痛みで止まるようにはできていなかった。
アリアは腰の細い針を抜いた。
暗部で使っていた、魔術毒の針。
毒というより、魔力の流れを乱すための道具だった。
それを首筋に打ち込む。
ガルドだったものの動きが一瞬乱れた。
その一瞬で十分だった。
アリアは隊長の剣を振り上げ、魔力を通す。
隊長の残した熱が、まだ刃の中にある。
「悪いな」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
刃を落とし、巨大な魔物の首が半ばから裂けた。
もう一撃。
さらに踏み込む。
白い結晶ごと、鎧の残骸ごと、首を斬り落とす。
巨体が崩れ、石畳が揺れる。
白い粉が舞う。
アリアは息を整えず、南へ走ろうとした。
その背後から、白い腕が伸びた。
腹を貫かれ、身体が少し浮いた。
アリアは地面に視線を向ける。
自分の足が、石畳から離れている。
腹から白い腕が生えている。
そう見えた。
背後で、天使が囁く。
「先ほどのお返しです」
丁寧な口調だった。
怒りを押し殺しているせいで、余計に丁寧だった。
「簡単には殺しません。できるだけ苦痛を。できるだけ長く。できれば、あなたが発狂するまで」
アリアの口から血が落ちる。
胴体の再生が終わりかけている第六位天使は、耳元で続けた。
「仲間を殺す残酷な決断ができる方なのでしょう。なら、あなた自身が壊れるところも見応えがありそうです」
アリアは少しだけ笑った。
笑えたかどうかは分からない。
口元が動いただけかもしれない。
「もう壊れてるよ」
第六位天使の指が、腹の中で動いた。
痛みが背骨まで走る。視界が揺れる。
アリアは白い腕を掴んだ。
第六位天使が動きを止める。
「何を」
「暗部の術式だ」
「あなたは魔術師ではないでしょう」
「だから禁術なんだ」
アリアの手から、黒い線が走った。
血ではない。
魔力でもない。
その中間のような、赤黒い線。
皮膚の下から浮かび、腕を伝い、第六位天使の白い腕へ絡みつく。
そこからさらに、線は天使の肩へ、胸へ、首へ伸びようとした。
第六位天使の全身を封じようとしていた。
だが、白い身体へ触れた瞬間、赤黒い線は焼けるように千切れていく。
格が違う。器が足りない。
それでも、腹を貫いている腕だけは繋がっていた。
アリアの身体と、第六位天使の腕だけは、術式の内側にあった。
アリアは淡々と唱える。
「影に生まれ、影に沈む」
赤黒い線が、白い腕に食い込む。
「名を捨て、身を捨て、残るものを楔とする」
天使の白い腕が震える。
「封じるは白い影。縛るはそのすべて」
本体へ伸びた線が、また焼け落ちる。
アリアの指先が黒く崩れ始めた。
それでも、彼女は続けた。
「届かないなら、届いた場所だけでも置いていけ」
第六位天使が腕を引こうとする。
抜けない。
アリアの身体が術式の杭になっていた。
腹を貫かれたまま、彼女は天使の腕をこの場へ縫いつけている。
「人モドキの人形風情が」
第六位天使の声から、敬語が剥がれた。
アリアは目だけで振り返る。
「全部は無理だった」
赤黒い線が弾ける。
「だが、その腕は置いていけ」
白い腕が、肩口から先だけ切り離されたように硬直する。
第六位天使が絶叫した。
切れたのではない。
失われたのでもない。
その部分だけが世界から切り取られていた。
白い粉が集まり、再生しようとする。
だが、封じられた腕の先だけは戻らない。
白い肉が盛り上がっても、術式に触れた瞬間に黒く沈む。
第六位天使がよろめいた。
アリアは石畳に膝をついた。
腹を貫いていた腕は、黒い封印に縫い止められている。
だが、その腕を中心に、アリアの身体も黒い灰のように崩れ始めていた。
指先が剥がれる。
腕が剥がれる。
血ではなく、黒い灰が風に散る。
南の方を見た。
炎と白い粉で、道はよく見えなかった。
誰の姿も見えない。
それでいいと思った。
見えないなら、まだ行けたかもしれないと思える。
握っていた隊長の剣が、指の崩れた手から滑り落ちる。
石畳に当たり、音を立てた。
アリアは最後に、南の方へ向かって小さく呟いた。
「悪くない人生だったな」
誰に言ったのかは、分からなかった。
黒い灰が風に散る。
町の南端。
ロイとエルナは、リリメリアを連れて鐘楼まで走り込んだ。
鐘は町外れの石台の上にあった。
避難を知らせるための古い鐘だと、誰かが言っていた気がする。
だが、今は誰も鳴らしていない。
町の中心は燃えていた。
赤い炎と、白い粉と、黒い煙が混ざり合っている。
悲鳴が聞こえる。
魔物の唸り声が聞こえる。
遠くで、何かが崩れる音がした。
その後に、低い爆音が響いた。
ロイが振り返る。
エルナも振り返る。
リリメリアは記録帳を抱えたまま、南の鐘を見上げた。
鐘は鳴っていない。
ただ、爆風に押されて、黒く揺れていた。
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