第9話
冬の冷たい空気が少しずつ緩み、王立学園の庭に小さな春の芽吹きが見え始めた頃。
学園内の空気は、私という「共通の敵」を中心に、奇妙なほどの熱気を帯びてまとまっていた。
あの日、魔術師団の塔でノアと共犯の契約を結んでからというもの、私は「誰もが納得する完璧な悪役令嬢」になるための舞台作りを、淡々と、そして徹底的に進めていった。
やり方は簡単だ。
これまでのように黙って立ち去るのをやめ、周囲の目が一番集まる場所を選んで、わざとリリィに冷酷な言葉を投げつけるようにしたのだ。
「邪魔よ、リリィ。あなたがそこに立っていると、目障りだわ」
たとえば、放課後の廊下。大勢の生徒たちが行き交う階段の踊り場で、私はわざとリリィの肩にぶつかり、彼女が抱えていた教科書の束を床へと叩き落とした。
「あっ……ご、ごめんなさい、お姉様っ!」
慌ててしゃがみ込み、震える手で本を拾い集めるリリィを、私は腕を組んで冷然と見下ろす。
手を貸しかけて、引っ込めた。芝居のつもりでも、本を落とされた彼女にとっては本当に嫌な姉だ。私は、鏡の前で何百回も練習した「傲慢で醜悪な微笑み」を唇に貼り付け、周囲によく聞こえるような澄んだ声で言い放った。
「聖女候補だかなんだか知らないけれど、平民育ちの泥臭さが抜けないわね。あなたが公爵家の名を名乗るたび、虫酸が走るのよ」
ザワッ、と周囲の生徒たちが息を呑む音が聞こえる。
リリィの大きな翠の瞳から、ポロポロと真珠のような涙がこぼれ落ちた。
「おい、ヴィオラ! 貴様、いい加減にしろ!」
すぐさま階段を駆け上がってきたのは、セドリック様の側近である騎士団長子息のガイル様と、そして顔を真っ赤にして怒りに震える、セドリック様本人だった。
セドリック様は私の前を荒々しく横切ると、床にしゃがみ込むリリィの肩を抱き起こし、まるで親鳥が雛を庇うように自分の背後に隠した。
そして、私を射抜くように睨みつけたのである。
「これほど多くの生徒が見ている前で、なんという恥ずべき振る舞いだ! 君には、公爵令嬢としての誇りも、人としての心も残っていないのか!」
「心ですって? おかしなことを仰いますわね、セドリック様。自分の立場も弁えずに婚約者の隣にすり寄ってくる泥棒猫に、どうして優しい心など向けられまして?」
私は扇を広げ、口元を隠してクスクスと笑ってみせた。
セドリック様の蒼い瞳が、激しい嫌悪と軽蔑の色に染まっていく。
セドリック様は、私が何を言っても驚かなくなっていた。
私が黙って耐えていた頃のことも、すべて同じだったとお思いになるだろう。温室で花を拾った日も、食事の作法を教えた日も。
自分の手で、反論できるはずだった過去まで潰している。そう気づいても、広げた扇を閉じられなかった。
「もういい。君と話す言葉は何もない」
セドリック様は吐き捨てるように言うと、泣きじゃくるリリィを抱きかかえるようにしてその場を去っていった。
私は二人の背中が見えなくなるまで、その場を動かなかった。
それでいいのよ、セドリック様。
どうか私のことなど、一片の未練も残らないほどに嫌い抜いて。そうすれば私も、振り返らずにいられるかもしれない。
彼に後悔してほしい気持ちと、何も知らないまま笑っていてほしい気持ちが、交互に湧いた。どちらも私の本心で、どちらも自分で持て余していた。
そして迎えた、高等部三年生の卒業記念夜会の前夜。
セドリック様たちが卒業し、大人の貴族として新たな門出を迎えるその華やかな舞台こそが、私が選んだ「前日譚の終わりの場所」だった。
アンナに、日記と身の回りの品を包んで渡した。もし私が屋敷に戻れなかったら、ノアに預けてほしいと頼んである。理由を聞かれても答えず、自室の扉に鍵をかけた。
テーブルの上には、ノアから受け取った二つの小さなガラス瓶が並んでいる。
無色透明な『眠りの薬』と、深い紅色の『仮死の毒』。
すでに、外堀はすべて埋めてある。
この冬の間に、私は自分の私室の机の奥に、ノアに偽造させた「闇ギルドとの取引の控え」や、「聖女の魔力を蝕む呪具の説明書」をわざとらしく隠しておいた。告発状も書き終えた。夜会当日の昼、使いの者から衛兵へ渡すよう手配してある。聖女に危害を加える準備がある、と。父が世間体を恐れて内々の捜索を許すことまで、見越していた。
偽の控えには、父が使った仲介人と同じ名を載せた。私の預金から引き出した金額も、取引の額に合わせてある。急いで見れば辻褄は合う。それでも本物の受領証と照合されれば終わるのだと、ノアは何度も念を押した。
透明な薬は、夜会へ持っていく小さな銀の水筒に移した。
明日の夜会、リリィが乾杯のグラスを手にする前に、ちょっとした細工をしてこれを飲ませる手筈になっている。
空になった瓶は紙に包み、引き出しへしまった。明日には部屋を調べられる。今さら一つだけ隠す意味もなかった。
机には、赤い薬の瓶だけが残った。
『俺が迎えに行くまで絶対に使うな』
ノアの必死な声が、耳の奥で蘇る。
彼は本当に、私を隣国へ逃がすためにすべての手配を整えてくれているのだろう。国境を越えるための書類も、向こうで暮らすための部屋も、きっと。
私は赤い小瓶をそっとつまみ上げ、燭台の火にかざした。
ゆらゆらと揺れる炎の光が、赤い液体を透かして、私の白い指先に血のような影を落とす。
「ごめんなさいね、ノア」
誰にも聞こえない声で、私はぽつりと呟いた。
隣国の小さな庭を思い浮かべた。
ノアはきっと、今も二人で暮らすための準備をしている。そこで私の嘘が露見したら、彼まで追われる身になる。
では今すぐやめようと、なぜ言えないのだろう。私が頼めば、彼は怒りながらでも助けてくれる。それを知っていて、私は呼び鈴に手を伸ばさなかった。
母の温室から持ち出した小瓶が、机の奥にある。決して開けてはいけないと言われていたものだった。
私は、ノアが用意した薬に手を加えてしまった。
これで誰にも迷惑をかけずに済む。そんな考えが浮かんだが、すぐにノアの顔が邪魔をした。
彼を騙して、置いていく。それが何の償いになるというのだろう。
答えられないまま、私は机の上を片づけた。整えていれば、決めてしまったことを考えずに済んだ。
私はコルク栓を固く閉め直すと、明日の夜会で着るために用意されたドレスへと視線を向けた。
部屋の中央のトルソーに着せられているのは、闇をそのまま縫い合わせたかのような、漆黒のベルベットドレス。
主役である卒業生たちを引き立てるべき夜会で、王太子の婚約者が「喪服」を思わせる黒を着るなど、招待状に記された「春らしい装い」に背く。噂をしている人たちには、十分な当てつけに見えるだろう。
けれど、明日、舞台の上で華々しく散る『悪役令嬢』の衣装として、これほどふさわしいものはないだろう。
私は立ち上がり、冷たいベルベットの生地にそっと頬を寄せた。
窓の外では、冬の終わりを告げる風が、ガラス窓をカタカタと揺らしている。
ドレスのそばには、ノアからもらった革手袋が置いてあった。
明日の朝、薔薇に水をやる時には使おう。そう考えてから、自分がまだ朝の用事を覚えていることに、ひどく戸惑った。




