第10話
王立学園の大講堂を埋め尽くす無数のシャンデリアが、まるで地上に降りた星々のように眩い光を放っていた。
高等部三年生の卒業記念夜会。
華やかな管弦楽の調べと、着飾った貴族たちの談笑が溶け合うその場所に、私が足を踏み入れると、近くにいた令嬢たちの会話が止まった。やがて会場全体が、水を打ったように静まり返った。
無理もない。
春を祝う門出の席に、私は夜そのものを切り取ったような漆黒のベルベットドレスを纏い、誰のエスコートも受けずに一人で現れたのだから。
本来ならば私の隣にいるはずの婚約者、第一王子セドリック様は、会場の中央で純白のドレスを着たリリィを隣に侍らせ、周囲の卒業生たちから祝福を受けている真っ最中だった。
「見て、ヴィオラ様よ。まるで喪服だわ」
「殿下にエスコートを断られたからといって、あんな当てつけのような真似をなさるなんて……」
扇の陰から漏れる冷ややかなささやきを背中に受けながら、私は背筋を真っ直ぐに伸ばし、壁際のテーブルへと歩を進めた。
黒髪に飾ったのは、あの十七歳の誕生日にセドリック様から贈られた、鮮やかな翠色の髪飾り。鏡の前で留める時、櫛の歯が髪に引っかかった。まだ少し、頭皮が痛む。
私はボーイが運んできた果実酒のグラスを二つ受け取ると、柱の影に隠れて懐から小さな銀のスキットルを取り出し、片方のグラスへと無色透明の液体を素早く注ぎ入れた。
ノアが調合した、一晩だけ深い眠りに落ちる薬。
そして、リリィの体内に残った違法魔導具の痕跡を、応急診察で毒の反応に見せかけるための薬。
セドリック様がほかの貴族に呼ばれ、リリィのそばを離れた。私は二つのグラスを手に、会場の中央へ歩み寄った。
「ごきげんよう、リリィ。今夜もずいぶん楽しそうね」
「あっ……お、お姉様……!」
私を見たリリィが、ビクリと肩を震わせて後ずさる。
私はこれまで見せた中で最も冷酷で、それでいてどこか憑き物が落ちたような穏やかさを孕んだ微笑みを浮かべ、片方のグラスを彼女へと差し出した。
「喉が渇いたでしょう。お飲みなさいな。……今日という特別な日のために、私が用意してあげた一杯よ」
「え……? あ、あの、お姉様が、私に……?」
リリィは戸惑いながらも、持ち前の素直さと、ここで断ればまた私に怒られるという怯えからか、震える両手でそのグラスを受け取った。
そして、私の顔を窺いながら、薄い桃色の液体を一口、二口と喉へと流し込んだのである。
「ありがとう、ございます、お姉様……」
リリィが小さく微笑もうとした、その直後だった。
パリンッ!
楽の音が流れる大講堂に、クリスタルガラスが砕け散る甲高い音が響き渡った。
リリィの手から滑り落ちたグラスが床で粉々になり、赤い絨毯に濃い染みを作る。
「あ、れ……? なんだか、頭が、くらくらして……」
リリィが自分の胸元を掴み、膝を折った。私は反射的に腕を伸ばし、崩れかけた肩を支えた。
「リリィ嬢!?」
セドリック様が駆け寄り、私を押しのけて彼女を抱き取った。頬に触れ、名を呼ぶ。しかし、リリィは目を閉じたまま動かなかった。
「おい、どうしたんだ!」「聖女様が倒れられたぞ!」「誰か、治癒師を呼べ!」
華やかだった会場が、一瞬にして怒号と悲鳴の渦へと叩き込まれる。
駆けつけた学園の医務官と神殿の神官が、リリィの身体に手をかざして魔力の状態を調べ始めた。
私はその混乱の輪から一歩だけ引き、自分の手に残ったもう一つのグラスを握っていた。倒れる身体を支えた拍子に果実酒が手袋にかかり、指先が冷たい。
「な、なんということだ……!」
リリィを診ていた老神官が、愕然とした声を上げた。
「毒を受けた時に似た反応がある! 今は呼吸も脈も安定しておりますが、奇跡の光が確認できませぬ。詳しい検査をせねば、力が戻るかどうかも……!」
老神官の言葉が響き渡った瞬間、大講堂を支配していたざわめきが、ピタリと止んだ。
そして、周囲の視線が、倒れたリリィのすぐそばで、漆黒のドレスを纏って冷然と立ち尽くす私ただ一人へと、一斉に突き刺さった。
「ヴィオラ」
地を這うような、低く震える声だった。
リリィを側近の腕に預けたセドリック様が、ゆっくりと立ち上がり、私へと振り返った。
その澄み切った蒼い瞳は、私がこれまで見たこともないほどの激しい憎悪と、燃え盛るような正義の怒りに染まっていた。
「リリィ嬢が倒れる直前、君が彼女にグラスを渡しているのを、私はこの目で見ていたぞ……! 貴様、彼女に何を飲ませた!」
セドリック様が腰の儀礼剣の柄に手をかけ、一歩、また一歩と私に詰め寄ってくる。
そこへ、騎士団長子息のガイル様が捜索隊を伴って入ってきた。今日届くように手配した告発状が、動かした人たちだった。彼は倒れたリリィを見て、手にしていた書類を強く握った。
「セドリック殿下! ご報告いたします! 公爵閣下の許可を得てヴィオラ嬢の私室を捜索したところ、机の隠し引き出しから、闇ギルドとの取引帳簿と……聖女の魔力を蝕む呪具の説明書が発見されました!」
ガイル様が高々と掲げた羊皮紙の束を見て、会場中から悲鳴のようなどよめきが上がる。
近くにいた父が、「な、なんだと……!? ヴィオラ、お前がいつの間にそんな恐ろしいものを……!」と、こちらを凝視して叫んでいるのが見えた。
父の視線は私から書類へ移った。見覚えのある仲介人の名に気づいたのだろう。
けれど、次に読み上げられた買い手の名は、父ではなく私だった。
「娘を連れ出せ! リリィに近づけるな!」
父はそれ以上、帳簿を見せろとは言わなかった。
その沈黙で、私はもう一度選ばれなかったのだとわかった。
「答えろ、ヴィオラ! なぜ、こんな酷い真似をした! リリィ嬢は君の妹で、いつも君のことを慕っていたというのに!」
セドリック様の悲痛な叫びが、大講堂の天井に反響する。
ああ、私の出番だ。
ここで私が泣き崩れたり、一言でも弁明を口にしたりすれば、せっかくの舞台が台無しになってしまう。
私は手に持っていたグラスをテーブルに置くと、黒塗りの扇をパッと広げ、鏡の前で何百回も練習したあの高慢な笑みを浮かべて、高らかに笑い声を上げた。
「あはははは! なぜですって? 決まっているではありませんか!」
私の澄んだ笑い声に、セドリック様が息を呑む。
「目障りだったからよ! どこの馬の骨とも知れない愛人の娘が、公爵家に転がり込んできたばかりか、聖女だなんだと持て囃されて……あげくの果てに、私の婚約者であるセドリック様の心まで奪っていくなんて、我慢がならなかったのよ!」
私は扇の先端を、セドリック様の胸元へと突きつけるように向けた。
「ええ、そうよ、私が毒を盛ったわ! あの子の忌々しい聖女の力さえ奪ってしまえば、セドリック様だって目を覚まして、私の元へ戻ってきてくださると思ったの! でも、死んでくれなかったなんて、本当に残念ですこと!」
静まり返った会場で、私の悪辣な言葉だけが朗々と響き渡る。
周囲の令嬢たちが恐怖に顔を歪め、貴族たちが「なんという浅ましい女だ」「狂っている」と吐き捨てるように囁き合う。
そして、私の目の前に立つセドリック様は。
まるで汚物を見るかのような、絶対的な軽蔑と嫌悪をその蒼い瞳に宿し、震える唇から決定的な言葉を紡ぎ出した。
「見損なったぞ、ヴィオラ。君を、これほどまでに醜く、浅ましい人間だとは思わなかった。君と同じ空気を吸っているだけで、反吐が出る!」
反吐が出る。
その言葉が鼓膜を揺らした瞬間、私の胸の奥で、何かが決定的に砕け散る音がした。
扇を持つ手に力が入らない。膝が震えるのを、長いスカートが隠してくれた。
扇の陰で唇を噛み、顔を上げ直した。
だって、私の黒髪で揺れているこの翠色の髪飾りが、ずっと私に教えてくれていたではないか。あなたはもう、私を見てはいないのだと。
「第一王子セドリックの名において宣言する! 公爵令嬢ヴィオラ! 貴様との婚約は、ただいまこの瞬間をもって破棄する! 衛兵、この大罪人を捕らえ、地下牢へ引きずり込め!」
楽団はとうに演奏を止めていた。
衛兵を呼ぶ彼の声だけが、講堂の隅まで通った。
駆け寄ってきた衛兵たちに両腕を乱暴に掴まれ、後ろ手へと捻り上げられる。
引きずり出される直前、私はほんの一瞬だけ、会場の脇にある出入口へ視線を向けた。
そこには、黒いローブを纏ったノアが立ち、医務官に何か伝えていた。私と目が合うと、短く頷いた。私も頷き返した。
ありがとう、ノア。私の優しい共犯者。
そして、さようなら、セドリック様。私のたった一人の、初恋の騎士様。
大講堂の重い扉が閉まり、眩いシャンデリアの光が私の視界から完全に遮断されるその瞬間まで、私は誰よりも誇り高く、誰よりも醜悪な『悪役令嬢』として、美しく微笑み続けていた。




