第11話
王宮の北斜面に掘られた牢には、天井近くに小さな窓があった。
私は藁の上に座り、鉄格子を通って床に落ちる月明かりを見ていた。ドレスの袖口は、捕らえられた時に破れている。糸が出ているのが気になって、指に巻いてはほどいた。
卒業記念夜会から、まる一日が経っていた。もう夜半に近い。
夕方、牢番が持ってきたのは、第一王子府の印を押した移送命令だった。
『明朝、国境の修道院へ移送する。王命による審理が行われるまで、外部との接触を禁ずる』
裁きが決まったわけではない。ただ、修道院へ送られれば、ノアの手が届く王宮からは離される。
セドリック様は、よほど私をリリィのそばに置きたくないらしい。
リリィは今朝、目を覚ましたという。セドリック様はその枕元で「君が聖女でなくなっても、一生守る」と約束なさったそうだ。牢番たちが、気の毒な聖女だと話していた。
父は私の預金を差し出し、神殿に早期の決着を求めている。私が何をしたのか問いに来ることは、一度もなかった。
これでいいのだと、何度も考えた。
そのたび、膝の上の指が冷えていった。
「ヴィオラ」
顔を上げると、ノアが立っていた。
黒いローブの肩には、雪が少し残っている。あの大きな塔を出て、ここまで来る間に積もったのだろう。
「寒い?」
「それは俺の台詞だろ」
彼は腕にかけていた毛布を、鉄格子の隙間から差し入れた。私が受け取るまで、手を離さなかった。
「移送命令は見た。王命を待たずにこんなことをするとは思わなかった」
「修道院なら、予定通りではないの?」
「お前が一人で行ってどうする。約束しただろ」
ノアは牢番の机の方を一度見た。
私は、渡された毛布を肩に掛けた。藁の匂いに混じって、研究室で焚く薪の匂いがした。
「今夜、本物の証拠を筆頭魔術師に預けた。宰相閣下にも届く。移送を止めて、正式な審問に戻してもらう」
「そんなことをしたら、あなたが」
「俺が証拠を偽造したことも話した」
彼は私から目を逸らさなかった。
「お前が出国してから渡すつもりだった。でも、これ以上は待てない。お前が無事に出ることが条件だっただろ」
「セドリック様には?」
「原本の写しを送った。アンナから預かった日記も、必要な頁だけ写して添えた」
夜会の前、持ち出してほしい品を包んだ時、日記も入れておいた。捨てられずに預けたものが、あの方に届いたのだ。
「残りは誰にも読ませてない。お前に返す」
私は毛布の端を握った。
ひどく恥ずかしかった。初恋を守るつもりで、幼馴染に嘘の証拠を作らせ、その幼馴染にまで罪を告白させている。
「ごめんなさい」
「謝るのはあとでいい。今は、その瓶を渡せ」
胸元に手を当ててしまった。
ノアの視線が、その手に落ちる。
「もう仮死の薬は使わない。普通に歩いて、ここを出よう」
私は鉄格子へ近づいた。
ここで手渡せば、まだ間に合う。母の小瓶のことも、全部話せばいい。
けれど、その後のノアの顔が怖かった。自分が渡した薬に何をされたのか、どんな約束を破られたのか、知ったら。
「ヴィオラ?」
ノアが手を伸ばした。いつものように頬に触れようとして、途中で止まる。
私はその指先を両手で包んだ。
「あなたのところへ行きたかったわ」
「行くんだよ。これから」
「朝のお茶、冷まさないでくれるのでしょう?」
ノアの顔が変わった。
私は彼の手を額に押し当てた。言葉にするのが遅すぎたことばかりだった。杏のパンを半分くれた日、好きな花を覚えていてくれた日。セドリック様の話ばかりしていた私は、彼の顔をきちんと見ていただろうか。
「おい、今すぐ瓶を渡せ。何をした」
私が答えられずにいると、ノアは声を張り上げた。
「牢番! 開けろ、今すぐだ! 医務官も呼べ!」
格子越しの魔術を遮る封印が、ノアの魔力を押し返した。牢番が駆け寄る。
「開錠は牢監の立ち会いが」
「呼んでこい! 中で人が死んでも同じことを言うのか!」
牢番が階段へ走った。
ノアは私から目を離さず、鉄格子の間へ腕を伸ばしていた。
「頼む。こっちを見ろ。俺が嫌なら、アンナでもいい。何も説明しなくていいから、そこへ置け」
私は一歩、下がってしまった。
同じ頃、第一王子の執務室には、宮廷魔術師団から届いた書類が広げられていた。
「これは偽造だ」
セドリックは、三度目になる言葉を口にした。
届けに来た筆頭魔術師の使者は、そのたび同じ頁を開いた。
「買い手の署名は、公爵が王宮に提出した書類とも一致しています。取引先の受領証には、公爵の私印もあります。ノア補佐官自身の偽造の申告は、こちらです」
「では、ヴィオラの部屋にあったものは」
「彼女に頼まれ、補佐官が作った控えです。ただし、妹君に薬を飲ませた事実までは否定しておりません。薬の成分と診察結果の再検証を求めています」
セドリックは椅子に座れず、机の縁を掴んでいた。
公爵の取引は、リリィが屋敷に迎えられる前から始まっている。ヴィオラが妹の聖女の力に嫉妬して買った、という説明では日付が合わない。
昨夜も控えをよく読めば、取引開始の早さには気づけたはずだった。彼は最後の頁にあったヴィオラの名前だけを見て、剣に手を掛けた。
「なぜだ。ヴィオラは、なぜそんなことを頼んだ」
使者が、添えられた封筒を示した。
中にあったのは、日記の写しだった。
『八月三日。救済案の下書きに、領地を越えて避難した人を援助から外してしまう条項があった。王妃教育で読んだ事例と同じだ。ノアに相談し、先生を通して宰相閣下に意見を届けていただくことになった。セドリック様が採り入れてくださるといい』
覚えていた。
宰相に指摘された箇所を直し、議場で評価された日だ。ヴィオラは夕食の席で「よかったですわね」と言っていた。
彼は、彼女には難しい話だろうと、それ以上何も話さなかった。
『十月十四日。十七歳の誕生日。いただいた髪飾りは、リリィの瞳と同じ翠色だった。私の瞳の色を聞こうとして、聞けなかった』
セドリックは、その一行から目を動かせなかった。
緑の石を選んだことは覚えている。店頭の光がきれいで、喜ぶだろうと思った。彼女のための贈り物を選びながら、リリィの顔を思い浮かべていたことも。
『ノアは、全部話せと言う。殿下の間違いを私が引き受けてはいけないと。正しいのはわかっている。でも、あの方が何もかも失うところを見るのが怖い。私だけがいなくなれば済むのならと思ってしまう』
「違う」
誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。
彼女が怖がっている顔を、一度も見た覚えがなかった。いつも姿勢を正し、こちらが言い終えるのを待っている人だった。
泣かないのだから平気なのだと、彼は決めていた。
『君と同じ空気を吸っているだけで、反吐が出る!』
自分の声が蘇った。
ヴィオラは扇を持っていた。唇が見えない高さに。
「今、どこにいる」
「ノア補佐官は牢へ。医務官も検査の準備をしています。殿下、まず移送を停止する書状を」
セドリックは差し出された紙に署名した。ペン先を押しつけすぎて、名前の最後が潰れた。
「私も行く」
廊下へ出たところで、牢からの使いが駆けてきた。
医務官を、と息を切らして繰り返す声に、セドリックは返事もせず走り出した。
「ヴィオラ。頼むから、俺を置いていくな」
ノアの手は、まだ格子の向こうにあった。
私は小瓶を握ったまま、その手を見ていた。
渡そうと思った。けれど、遠くで扉が開く音がして、誰かが私の名を呼んだ瞬間、また責められるのだと思ってしまった。
あとのことは、うまく覚えていない。
ノアが叫んだ。赤い液体が唇に触れた。
空になった瓶を見た時、初めて、取り返せないことをしたのだとわかった。
「ノア」
声が出ていたのかどうかも、わからなかった。
私は彼の手へ向かって、一歩だけ足を出した。




