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これはたぶん、私が悪役令嬢になる前日譚です  作者: 九葉(くずは)


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12/12

最終話

 ノアの指に触れる前に、膝が折れた。


 毛布が肩から滑り、冷たい床に手をつく。力が入らなかった。自分の身体なのに、横たわることさえうまくできない。

 開錠の音がした。


「ヴィオラ!」


 ノアが私を抱き起こした。いつも少し乱れている眼鏡が、今は床に落ちている。

 彼は拾いもせず、私の手から瓶を取り、残った薬を調べた。


「俺の薬だけじゃない。何を入れた」


 答えようとして、息が詰まった。

 牢監が魔術封じを解き、駆けつけた医務官が私の胸へ手を当てる。淡い光が、何度も揺れては消えた。


「母の、温室に」


 ノアは、そこで初めて目を閉じた。

 彼は瓶を医務官に渡し、私の手首に指を当てた。


「俺の術は解除する。混ざっているものの反応を調べてくれ。まだ、止められるかもしれない」


 わからないものをわかったふりはしない。それがノアだった。

 もう遅いとは、誰も言わなかった。私の手が動かなくなっても、二人は同じ場所に何度も魔力を注いだ。


「ヴィオラ、私だ。聞こえるか」


 セドリック様が膝をついた。伸ばされた腕を、ノアが遮った。


「動かすな!」


 セドリック様の手が止まる。

 その顔を見て、私は初めて、この人も怖いのだと知った。


「日記を読んだ。帳簿も、全部。私を庇ったのだろう。なぜ、話してくれなかった」


 私の頬に落ちた滴が、彼の涙だとわかるまでに時間がかかった。

 泣いてほしかったはずだった。

 一度でいいから、私のために。

 なのに、それを見ても息苦しさは少しも軽くならなかった。


「話したら、聞いて……くださった?」


 セドリック様が口を開いた。

 けれど、返事はなかった。


 お茶会で、二人で過ごしたいと言った。学園で、食事の作法を教えていると説明した。あの時の私には、ちゃんと言葉があったのだ。


「すまない。私が間違っていた。君を、取り戻したい」


 あれほど待っていた言葉だった。

 聞ける日が来たら、何もかも元に戻ると思っていた。

 私は彼の袖を掴もうとして、指が動かないことに気づいた。もう、返事を考える時間さえ惜しい。


 ノアを見た。

 彼は私の顔と医務官の手元を交互に見ながら、途切れず名前を呼んでいた。


「ヴィオラ。眠るな。俺の声、聞こえるだろ」

「怒って、いる?」

「怒ってる。あとでいくらでも怒鳴ってやるから、今はここにいろ」


 その答えに、少しだけ笑えた。

 ノアが私の頬を拭う。泣いていたのは、私の方だった。


「庭の、部屋」

「ああ。まだ空いてる。お前が来るって返事をするまで、押さえてもらってる」

「行きたかった」

「行こう。なあ、ヴィオラ」


 私のことを、あんなに考えてくれた人がいた。

 好きなパンも、花も、朝の過ごし方も。私が何も返せない日にも、隣に椅子を置いてくれた。

 あの椅子に座りたかった。


「手を、離さないで」


 ノアは返事の代わりに、私の手を頬へ押し当てた。

 温かいのか冷たいのか、もうわからない。


 私はまだ、ここにいたかった。

 伝えようとした言葉は声にならず、最後まで聞こえていたのは、ノアが私を呼ぶ声だった。



 医務官が手を止めても、ノアは動かなかった。


「もう一度」


 誰も返事をしない。


「もう一度、調べてくれ」


 医務官は頷き、言われた通りにした。ノアの手の中で、ヴィオラの指は動かなかった。


 セドリックは、その横に膝をついていた。謝罪も、命令も、今は一つも口から出てこない。

 床には、緑の髪飾りが落ちていた。昨夜まで彼女の髪にあったものだ。拾い上げると、櫛の歯に黒い髪が一本絡んでいた。


「返せよ」


 ノアが言った。

 セドリックは髪飾りを差し出しかけた。


「そんなものじゃない」


 ノアの声は掠れていた。


「返せるわけ、ないよな」


 それきり、彼はセドリックを見なかった。



 翌朝、国王はヴィオラの移送命令を取り消した。

 すでに彼女を運ぶ馬車は必要なくなっていた。


 宰相のもとに届いた証拠によって、公爵邸と取引商人の倉庫が同時に捜索された。公爵邸からは結晶の残骸と、神殿から届いた寄進の帳簿が見つかった。

 救済に使われるはずだった金が、鉱山の返済と私的な支出に流れている。ノアが保管していた受領証と、倉庫に残った出荷の控えも一致した。


 ヴィオラの日記は、公には出されなかった。

 犯罪を証明する書類と、一人の少女が誰にも言えなかった気持ちは、別に扱われた。


 公爵は屋敷の階段で捕らえられた。


「違う! ヴィオラが勝手にしたことだ! あの娘の部屋にも帳簿があっただろう!」


 騎士に腕を取られながらも、彼は執務室の方を見ていた。燃やし損ねた書類が、まだ机にある。


「リリィを呼べ! 殿下に頼んでくれる。あの子なら」

「リリィ嬢も聴取を受けています」


 公爵はそこで初めて、屋敷の者たちを見回した。

 呼びつければ必ず返事をした執事も、衣装を整えた侍女も、近づいてこない。


「アンナ! お前は知っているだろう。ヴィオラは私に何も」

「お嬢様のお名前を、使わないでください」


 アンナは泣いていた。

 それでも、いつものように頭を下げることはなかった。


 裁判は二ヶ月に及んだ。

 公爵は、娘が独断で取引したのだと主張し続けた。ところが最後の審問で、商人が差し出した手紙には、ヴィオラを買い手に見せかけた控えを発見した後、父自身が取引相手に口止めを頼んだ文面まで残っていた。


「長女が罪を認めた。今さら話を変える必要はない」


 その一文を読み上げられると、公爵は椅子から滑り落ちた。


「家を守るためだった! 家さえ残れば、娘たちにも」


 裁判官は、寄進を止められて閉鎖された救護所の一覧を示した。家のためだという言葉は、そこで途切れた。


 爵位と私有財産は没収され、領地は王家の管理に移された。不当に取り立てた税や未払いの賃金は、押収財産から先に返された。公爵が残したかった家名は、判決書の犯罪人の欄にだけ残った。


 処刑の日、彼は迎えの足音を聞くたびに、牢の隅へ逃げた。


「まだ返事が来ていない! 娘の遺産もある、金なら」


 差し出せる金はもうなかった。

 公爵は檻に指を掛け、爪が割れても離そうとしなかった。娘の預金を差し出す書類には平然と署名した手で、彼は牢の戸を叩き続けた。

 刑場へ引き出されてからも「娘を呼べ」と叫んだ。その声が途絶えるまで、誰も迎えには来なかった。



 リリィは、自分が結晶のことを知らなかったと訴えた。

 初めは、それが事実だった。神殿も、その期間まで彼女の罪には数えなかった。


 だが、冬に父から説明を受けた後のことは違った。


 体調不良を理由に本鑑定の延期を願った手紙。父に言われて署名した寄進の受領書。そして、夜会の翌朝に、リリィ自身が提出した供述。


『姉には、以前から毒で聖女の力を奪うと脅されていました』


「いつ、どこで言われたのですか」


 神官に尋ねられ、リリィは答えを変えた。屋敷の廊下と言い、温室だったかもしれないと言い、最後には覚えていないと泣いた。

 さらに、力が弱まったのも姉の毒のせいだと訴えたが、以前父に出した手紙には「結晶を新しくしてください」とあった。少なくとも、力の出ない本当の理由は知っていたのだ。


「本当のことを話せば、婚約できなくなると考えたのですか」


 リリィはセドリックを見た。

 審問に同席していた彼は、以前のように椅子から立とうとはしなかった。


「セドリック様。私、怖かったんです。お父様に逆らえなくてっ。お姉様だって、毒だとご自分で」

「君が言われてもいない脅しを、付け足していい理由にはならない」


 声は小さかった。

 リリィは聞こえなかったふりをして、手を伸ばした。


「守ってくださると、仰ったじゃありませんか!」


 セドリックは椅子を引いた。リリィの指は、彼の袖に届かなかった。


「私も、裁かれる側だ」


 いつもの謝罪の言葉も、涙も、審問を終わらせてはくれなかった。

 リリィは椅子に戻され、聞かれたことに答えるまで、同じ質問を繰り返された。


「嘘でした。お姉様に、毒を盛ると脅されたことはありません」


 その返事をする頃には、昼を告げる鐘も鳴り終えていた。


「結晶のことも、知っていました。セドリック様には、黙っていました」


 彼女は聖女の称号と貴族籍を失った。

 不正を知った後の寄進詐取への加担と虚偽の供述により、北部の修道院で十年間の労役を命じられた。父の主導であったことは減刑の理由になったが、釈放の理由にはならなかった。


 最初の冬、リリィは洗濯場で桶を落とした。

 冷水が裾へかかり、慌てて腕を抱える。赤く荒れた手を差し出せば、誰かが代わってくれると思った。


「痛いんです。私、こんなことをしたことがなくて」


 修道女は軟膏と布を置いた。


「手当てが済んだら戻りなさい。あなたの分は、まだ残っています」


 誰も怒鳴らなかった。誰も慰めながら仕事を引き受けてはくれなかった。

 リリィは桶の縁を掴み直した。指の割れ目が開き、目に涙が滲む。


 王宮からの迎えは来なかった。

 セドリックへ出した手紙は、面会も文通も認めないという一枚の通知とともに戻ってきた。封は、どれも閉じたままだった。


 ある朝、食堂で肘をついて注意された時、リリィは顔を上げかけた。

 お姉様、と呼ぶところだった。

 その呼び方を使える相手がもういないことに気づいて、冷めたスープの前で唇を噛んだ。



 ガイルたちも、リリィに騙されたという一言では済まなかった。

 捜索で見つけた控えを確認もせず確定した証拠として掲げたこと、医務官の追加検査の要請を殿下の意向で退けたことが、記録から明らかになった。

 ガイルは騎士の叙任候補から外され、王宮での任用を禁じられた。


「私は殿下の命令に従っただけです!」


 審問の席でそう訴えた息子に、騎士団長は目を伏せた。

 剣を授けるはずだった日に、彼は息子の推薦状を自分の手で撤回した。


 ノアも処分を受けた。

 証拠の偽造と魔法薬の不正使用への加担は、真相を明らかにした功績と引き換えには消えなかった。自首と捜査への協力を考慮され、収監は猶予されたが、宮廷の職を失い、一定期間、魔術の使用と移動を監督された。


「助けたつもりでした」


 なぜ引き受けたのかと聞かれた時、ノアはそう答えた。


「一人にしたら、もっとひどいことになると思った。俺がついていれば逃がせると。……止められなかった言い訳です」


 眼鏡を外したまま、彼は判決を聞いた。



 セドリックの審問では、本人が決裁した書類が一枚ずつ並べられた。


 聖女としての認定を急がせた推薦状。

 神殿が求めた再鑑定を、リリィの負担になるとして先送りした命令。

 ヴィオラ本人への正式な聴取もなく出された、修道院への移送命令。


「公爵に騙されていたのでございます」


 側近の一人が口にすると、国王は移送命令を指した。


「これも、公爵が書かせたのか」


 セドリックは首を横に振った。

 今すぐ目の前から消したかった。リリィを傷つけた女として、ヴィオラの声をもう聞きたくなかった。命令に署名した時の自分の考えを、誰のせいにもできなかった。


 王太子の地位と王位継承権は剥奪された。

 王族として他国の庇護を求め、政争の火種になることも許されず、北の離宮で生涯監視を受けることが決まった。


 判決の後、侍従が王太子の徽章を外そうとすると、セドリックは反射的に胸元を押さえた。


「待ってくれ。せめて、ヴィオラのためにできることを」

「その権限は、もう殿下にはございません」


 自分の命令で開いていた扉が、今度は自分のためには開かない。彼は徽章を手放せず、最後には指を一本ずつほどかれた。


 国王の命で、公開の審問記録と名誉回復の告知が出された。

 ヴィオラによる聖女殺害の企ては存在しなかった。薬を飲ませた行為と偽造への関与は残されたが、公爵の詐欺の首謀者とする嫌疑は取り消された。

 彼女を悪女と罵った夜会の出席者にも、その告知は届けられた。


 セドリックは最後に一度だけ、墓参を願った。


「花を置くだけでいい。誰にも会わない」


 墓を守る母方の親族から返ってきたのは、拒絶の書状だった。

 ノアの名も、アンナの名もなかった。許してくれと頼む相手さえ、彼には残されなかった。



 北の離宮へ移されてから最初の十月十四日、セドリックは二人分の茶を頼んだ。


 白いテーブルに、アールグレイとレモンタルトが並ぶ。

 彼は向かいの椅子を引いたまま、しばらく立っていた。


 これは、自分の好きなものだった。


 ヴィオラがいつも用意してくれたから、二人の好物なのだと思っていた。彼女がタルトを食べなかった日も、腹がいっぱいなのだという言葉を、そのまま受け取った。


「ヴィオラは、何が好きだった」


 給仕に聞いても、答えは返ってこない。

 ここにいる者は、誰も彼女を知らなかった。


 髪飾りは、机の引き出しにしまっていた。

 緑を見るのがつらくて、何度も捨てようとした。そのたび、自分が選んだことまで忘れようとしている気がして、箱へ戻した。


 窓の外では、雨が降っている。

 あの夜、テラスに彼女を残して、リリィのところへ戻った。振り返りもしなかった。


「寒かっただろう」


 言ってから、セドリックは顔を覆った。

 今なら言えることばかりだった。今さら言っても、届かないことばかりだった。


 翌年も、同じ日に茶が運ばれた。

 その次の年も。


 彼は王都へ出ることを許されず、ヴィオラの名を口にするたびに慰めてくれた側近もいない部屋で、彼女を知らなかったことを少しずつ思い知らされた。

 許してほしいと願う日もあれば、許すと言われたとしても自分には受け取る資格がないと、夜通し椅子を見ている日もあった。

 向かいの茶が冷めるたび、彼女を待たせた時間を、やっと自分の身で知った。



 ノアが旅に出られるようになった春、丘の上の白薔薇に花がついた。


 公爵邸から引き取った株を、庭師と二人で移したものだった。初めの年は葉が落ち、冬を越せないかと思った。アンナも水やりに通い、ようやく三つ、つぼみが残った。


 ノアは墓標の前に腰を下ろした。

 鞄の中には、隣国の研究所から届いた採用の手紙がある。役職は以前の誘いより低く、部屋も古い。それでも庭に鉢を置くことはできると、わざわざ書き添えられていた。


「行ってくる」


 返事を待つ癖は、まだ抜けなかった。

 少し黙ってから、彼は紙包みを開いた。杏のジャムを挟んだパンが二つ入っている。


「一つでいいって言うの、忘れた」


 嘘だった。

 ノアは一つを墓標のそばの皿へ置き、もう一つにかじりついた。喉を通らず、しばらく下を向いた。


 あの日、図書室で窓へ顔を向けた彼女も、こんなふうにパンを持っていた。

 今度は、ハンカチを差し出してくれる人がいない。


「好きだったよ」


 何度も言えたはずだった。婚約者がいるからと避けて、困らせるからと飲み込んで、最後には怒鳴るような言い方しかできなかった。

 今は、言ってもいいだろうか。


「お前が俺を選ばなくても、一緒に生きていきたかった」


 白い花に手を伸ばしかけて、ノアはやめた。

 枝についたままで見せてやろうと思った。摘めばまた、あの子に叱られる。


 鞄から二冊の帳面を出した。

 一冊はヴィオラの日記。もう一冊には、彼女への嫌疑が取り消された告知と、裁判の記録が綴じてある。

 旅先でも、彼女のことを悪女として語る人間には、見せるつもりだった。セドリックを救うためだけに生きた女としても、終わらせたくなかった。


 よく知っていることが、まだほかにある。

 庭仕事ではすぐ手袋を忘れること。杏のジャムを少しだけ多く取ること。難しい本を読むくせに、雨の日には子供向けの冒険譚を棚から出していたこと。


 ノアは立ち上がり、墓標についた花びらを払った。


「次は、向こうのパンを持ってくる。まずかったら俺が食うから」


 白薔薇は、三輪とも枝に残した。

 日記の表紙に指を置く。そこには彼女の細い字で、名前だけが書かれていた。


 悪役令嬢ではなく、ヴィオラ。

 ノアはその名をもう一度呼んでから、二冊とも大切に鞄へしまった。

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