第8話
王宮の北端にそびえる魔術師団の塔は、冬になると石壁の芯まで冷え込み、暖炉を焚いても廊下の冷気までは追い出せない。
最上階に近いノアの私的な研究室には、フラスコの中で煮立つ薬液の匂いと、古い魔導書の埃っぽい匂いが混ざり合っていた。
「お前、正気か?」
私が差し出した羊皮紙の束に目を通したノアは、銀縁の眼鏡の奥の琥珀色の瞳を限界まで見開き、低く呻くような声を漏らした。
その手にあるのは、父の留守中に、領地の報告書に紛れた取引控えを書き写したものだった。王妃教育の課題で帳簿を読むことを許されていたのが、こんなところで役に立った。
夏に隣国の視察から帰ったノアは、次の赴任の返事をまだ保留にしている。私が研究室を訪ねると、何も聞かず二人分のお茶を淹れてくれた。
「正気よ。だからこうして、あなたに頼みに来たんじゃない」
私は暖炉の前に置かれた革張りのソファに深く腰掛け、ノアが淹れてくれたハーブティーのカップを傾けた。温かい液体が喉を通っても、指先の冷たさは少しも消えてくれない。
「頼むってなあ、ヴィオラ。お前が言ってるのは、ただの書類の改ざんとかいうレベルじゃねえぞ」
ノアは羊皮紙の束を机の上に叩きつけると、苛立たしげに銀灰色の髪をぐしゃりとかき混ぜた。
「公爵が闇ギルドから違法な『魔導結晶』を購入していた記録を、全部『ヴィオラ個人がリリィを呪い殺すために、魔力を蝕む呪具と毒薬を買い集めていた記録』に書き換えろ、だあ? そんなことをしたら、お前は婚約破棄どころか、聖女暗殺未遂の大罪人として処刑台送りだぞ!」
「命を奪わなければ、修道院への幽閉で済む例もあるわ。そうなれば、少なくともあの家からは出られる」
「前例と同じになる保証がどこにある!」
バンッ、とノアが机を強く叩いた。
積み上げられていた魔導書が崩れ、床にドサドサと乾いた音を立てて落ちる。いつも飄々として人を食ったような態度を崩さないノアが、ここまで感情を露わにして怒鳴るのを、私は生まれて初めて見た。
「なんでお前が、あのクソ親父と腹違いの妹の尻拭いをしてやらなきゃいけないんだよ! 証拠はここにあるんだ。今すぐ俺がこれを宰相閣下のところに持ち込めば、少なくとも、お前が犯人にされるのは防げる! 公爵家は潰れるだろうが、だからってお前まで一緒に沈むことはない!」
ノアが私の前に歩み寄り、ソファの肘掛けに両手をついて、私の顔を覗き込むように身を屈めた。
怒っているのに、私を囲んだ両腕は震えていた。
「それに、あのバカ王子だ! 偽物の聖女に踊らされて、本当に自分を愛し抜いてくれた婚約者を蔑ろにしたんだ。真実を突きつけて、恥をかかせてやればいいじゃねえか!」
カップを持つ私の指先が、ピクリと震えた。
私はゆっくりとカップをソーサーに戻すと、すぐ目の前にあるノアの顔を、静かに見返した。
「そんなことをしたら、セドリック様はどうなるの?」
「あ?」
「公の場で『リリィこそが真の聖女だ』と宣言し続けたあの方が、国家規模の詐欺に引っかかっていたと知れたら、第二王子派の貴族たちが黙っていないわ。あの方は廃嫡され、良くて幽閉、悪ければ公爵家と共謀した罪で命を落とすことになる」
私の声は、自分でも驚くほど穏やかだった。
「ノア。あの方が間違いを認めずにリリィを庇ったら、どうなるの。私はもう、あの方が何もかも失うところまで見たくないのよ」
「だから、なんだってんだよ」
ノアの声が、掠れて震えた。
「あいつは、お前を裏切ったんだぞ、ヴィオラ。お前がどれだけ血の滲むような思いで王妃教育を受けてきたか、どれだけあいつだけを見てきたか、何一つ見ようともしなかった男だ! そんなやつの心なんか、粉々に壊れちまえばいいだろうが!」
「ええ、そうね。本当に、馬鹿な人だわ。目が眩んで、私のことなんてすっかり忘れてしまって」
私はふっと微笑み、ノアの頬にそっと自分の冷たい指先を添えた。
ノアが息を呑み、金縛りにあったように動きを止める。
「あの方を好きだった自分まで、間違いだったことにしたくないの」
口にしてしまうと、ひどく身勝手な願いだった。
セドリック様のためだと言いながら、私は自分の五年も六年もを手放せずにいる。ノアにそんな顔をさせてまで、しがみつくようなことなのか。
私は頬に触れていた手を下ろした。
「リリィの体内に残った違法魔導具の『澱』は、私が使った呪具の毒の後遺症ということにしましょう。そうすれば、彼女がこれから聖女の力を使えなくなっても、誰も不審には思わない。『悪辣な姉の毒によって、可哀想な聖女は奇跡の力を失ってしまった』……ほら、誰も傷つかない、完璧な筋書きでしょう?」
私の紫の瞳を覗き込んだノアの顔が、まるで今にも泣き出しそうな子供のように、くしゃりと歪んだ。
「誰も傷つかない、だと? お前が、傷つくだろうがっ」
「私はもう、とっくに傷つききった後よ。今さら悪役令嬢の烙印が一つ増えたところで、痛くも痒くもないわ」
言い終えたあと、カップを取り上げようとして失敗した。指が震えて、取っ手に入らなかった。
ノアはそれを見ていた。もう傷つかないなどと、よく言えたものだ。
「お願い、ノア。公爵家の記録から取引先を突き止めるにも、あの結晶がどういうものか調べるにも、私一人ではできないの。……私の共犯者になってくれると、言ってくれたでしょう?」
残酷な女だと、自分でも思う。
目の前にいるこの幼馴染が、どんな気持ちで私に「隣国へ逃げよう」と言ってくれたのか。どんな思いで私を見つめているのか、本当はうっすらと気づいていながら、私は彼のその優しさと好意を、別の男を守るための踏み台として利用しようとしているのだ。
これこそまさに、血も涙もない『悪役令嬢』の所業ではないか。
ノアは、私が膝に下ろした手を取った。
そのままギリ、と奥歯を噛みしめ、額を私の肩口へと押し付けるようにしてうなだれた。
「ちくしょう。なんでお前は、そこまで頑固なんだよっ」
肩に伝わる彼の体温と、微かな震え。
しばらくの沈黙の後、ノアは顔を上げると、眼鏡の奥の目元を乱暴に袖で拭った。眼鏡を掛け直すと、床に落ちた本を一冊ずつ拾った。
「わかった。お前をあの家から出す。そのための偽の控えは作る。だが、本物は一枚も捨てない」
「ありがとう、ノア」
「礼なんか言うな。俺も間違ったことをしようとしてる。……条件がある」
ノアは机に広げた控えを指で叩いた。
「公爵の署名までお前の名に変えたって、取引相手を調べられたら終わりだ。最初の騒ぎはごまかせても、まともな審理は通らない。逃がすために時間を作るだけだぞ」
「その後は?」
「お前が国境を越えたら、本物を陛下に渡す。あいつらを一生庇う片棒は担がない」
私は返事ができなかった。
セドリック様だけでも、と口にしかけた私を、ノアが遮る。
「それが嫌なら、この話は終わりだ。お前が生きて出ていくことが条件だ」
セドリック様に、リリィを守る用意をしていただく時間は残る。それに、その時には私はもうここにいない。
そうやって言い訳を探してから、私は頷いた。
それから数週間、私は父の留守を見て取引控えを集めた。ノアは魔術師団の調査で使う連絡先をたどり、商人が保管していた受領証も押さえた。
再び研究室へ呼ばれた日、机には小さな瓶が二つ並んでいた。一つには透明な液体が、もう一つには赤い液体が入っている。
「透明な方は、リリィに飲ませるための薬だ。一晩眠らせる魔法薬に、結晶の残滓を体外へ排出させる働きを持たせた。排出中は毒を受けた時と似た反応が出る。会場での応急診察なら、見誤るだろう。長くは隠せないし、力そのものを壊す薬でもない。眠っている間は医務官の監視が要る。怪我はさせないよう、倒れる場所も考えろ」
「リリィのロケットは?」
「結晶はもう使い切ってるんだろ。お前の言う通りなら、本人も二度と人前で外せないはずだ。本鑑定を避ける口実ができたら、黙ってそれに乗るだろうな」
ノアの口調に、私への非難も混じっている気がした。私も、妹が黙っていてくれることを当てにしている。
「そして、こっちの赤い方は『仮死の毒』だ」
ノアが赤い小瓶を、私の目の前に突き出した。
「魔術で一時的に仮死に見せるものだ。魔法薬を使った容疑者の身柄は魔術師団の検査対象になる。俺が検査担当を引き受けて、お前を運び出す。ただし、俺が迎えに行くまで絶対に使うな。移送の準備ができたら合図をする」
「ノア、それは……」
「お前には、公爵令嬢ヴィオラとして一度死んでもらう。そして、棺桶から抜け出したお前を、俺が隣国へ連れて行く。……いいな、これだけは絶対に譲らないぞ。もしこの条件を呑まないなら、俺は今すぐあの帳簿を王宮にバラ撒いてやる!」
必死な形相で吠えるノアを見つめて、私は少しだけ目を細めた。
どこまでも優しい、私の唯一の理解者。
「ええ。あなたが迎えに来てからにするわ。約束する」
私は白い指を伸ばし、その二つの小瓶をそっと受け取った。
赤い方の瓶には、ノアが持ち物検査を避けるための隠蔽をかけた。使い方を確かめる間も、私を見て「合図を待て」と繰り返した。
ノアは瓶を受け取った私の指に触れた。
「向こうの家、庭が狭いんだ」
「何の話?」
「研究所の宿舎だよ。薔薇は鉢なら置ける。日当たりは、俺の部屋より隣の方がいい」
二部屋。
それを聞いて、ようやく肩の力が抜けた。逃げた先でも彼に応えなければならないと、勝手に身構えていたらしい。
「朝は苦手でしょう、あなた」
「起きるよ。お前の茶を冷ますほどは寝ない」
笑おうとしたら、うまくいかなかった。そんな朝を一度だけ見てみたいと思った。
けれど、そのためにこれほどの嘘をつく自分が、彼の隣にいていいのだろうか。
私は赤い小瓶を胸元にしまい込みながら、「杏のパンも売っているかしら」と聞いた。
ノアはやっと笑った。
その顔を見たくて言ったのに、目を合わせていられなかった。




