第6話
秋の長雨が窓ガラスを叩く音を聞きながら、私はドレッサーの前で最後の紅を引いていた。
十月十四日。今日で私は、十七歳になる。
この国において十七歳という年齢は、貴族の令嬢が正式に大人の仲間入りを果たし、結婚の準備へと入る節目の年だ。
今夜はうちの公爵邸の大広間で、私の生誕を祝う夜会が開かれることになっていた。もちろん、婚約者であるセドリック様も来賓として招かれている。
「ヴィオラお嬢様、お支度が整いました。……本当に、見惚れてしまうほどお美しいですわ」
幼い頃から私に仕えてくれている侍女のアンナが、感嘆のため息を漏らす。
鏡の中に立っていたのは、深い夜空のような濃紺のドレスに身を包んだ私だった。私の紫の瞳が最も美しく映えるようにと、数ヶ月前から王都一番の仕立て屋に依頼していた一着だ。
学園に入学してからというもの、私とセドリック様の間には、目に見えない冷たい壁がそびえ立っていた。
顔を合わせればリリィのことばかり。彼女への指導を家庭教師に任せた後も、今度は姉として構ってやらないと窘められる日々。
けれど、今日だけは違うはずだ。
だって今日は、私の十七歳の誕生日なのだから。
毎年、誕生日の夜には、セドリック様から贈り物をいただくのが慣例になっていた。
大勢の貴族たちの前ではなく、夜会の合間にバルコニーや控室で、二人きりで手渡される小箱。その瞬間だけは、彼がまだ「私の婚約者」であることを確かめられる、一年に一度の特別な儀式だった。
「ありがとう、アンナ。……行きましょうか」
私は小さく息を吸い込み、完璧な公爵令嬢の微笑みを浮かべて部屋を出た。
シャンデリアが煌めく大広間は、雨の夜の鬱陶しさを吹き飛ばすかのような熱気と華やかさに包まれていた。
けれど、その華やかさの中心にいたのは、本日の主役である私ではなかった。
「まあ、リリィ様! なんて愛らしいドレスなのでしょう!」
「まるで森の妖精が舞い降りたようですわ。ねえ、セドリック殿下?」
「ああ、まったくだ。今夜の君は、誰よりも輝いているよ、リリィ嬢」
広間の中央で人々の輪に囲まれていたのは、純白に淡い緑の刺繍が施されたドレスを着たリリィと、その隣で誇らしげに微笑むセドリック様だった。
成人を祝う夜会では、主賓より衣装を控える。それがうちの家でも教えられる礼儀だった。リリィのドレスは白い絹を幾重にも重ね、裾まで真珠を縫い込んである。
しかし、父が「リリィの聖女としての清らかさを引き立てるためだ」と強引に仕立てさせ、周囲の貴族たちも、今や飛ぶ鳥を落とす勢いの『聖女候補』と、彼女を溺愛する第一王子のご機嫌を取るのに必死で、誰一人としてその非常識を咎めようとはしない。
「お姉様、お誕生日おめでとうございます! あの、私がこんな素敵なドレスを着てしまって、ごめんなさいっ」
私に気づいたリリィが、小走りで駆け寄ってくる。
その後ろから、セドリック様もグラスを片手にゆっくりと歩み寄ってきた。
「ありがとう、リリィ。あなたによく似合っているわよ」
「ヴィオラ、誕生日おめでとう。十七歳になった君も、相変わらず凛としていて頼もしいね」
セドリック様が、社交辞令のお手本のような笑顔で言った。
『美しい』ではなく、『頼もしい』。それが、今の彼が私に抱いている感想のすべてなのだろう。
それでも、彼が懐から細長いビロードの小箱を取り出した瞬間、私の心臓は愚かにもトクンと大きく脈打った。
「ここで渡すのもなんだ。少し、外の空気でも吸おうか」
セドリック様に促され、私は雨音の響く屋根付きのテラスへと足を踏み出した。
ガラス戸を閉めると、広間の喧騒が遠ざかり、ひんやりとした湿った夜風が頬を撫でる。二人きりになるのは、昨年の誕生日以来だった。月々のお茶会にはいつもリリィがいて、授業の合間に会っても、挨拶をするだけだった。
「これを受け取ってくれ、ヴィオラ。私からの贈り物だ」
セドリック様から手渡された小箱を、私は両手で恭しく受け取った。
指先がわずかに震えるのを悟られないよう、慎重に留め具を外し、ゆっくりと蓋を開ける。
次の瞬間。
私の視界に飛び込んできた輝きに、思考が真っ白に凍りついた。
白いシルクのクッションの上に収められていたのは、繊細な銀細工の髪飾りだった。
そして、その中央で誇らしげに輝いていたのは、新緑を思わせる鮮やかなエメラルドだった。
「セドリック様、これは……」
「先日、王都の宝石商で見かけてね。あまりにも澄んだ美しい緑色だったから、一目で気に入って購入したんだ」
セドリック様は、心底満足そうな、一点の曇りもない笑顔で言った。
「最近、この緑色がやけに目に留まるんだ。君の髪に飾れば、きっとよく似合うと思って」
ああ。
耳の奥で、ザーザーと降りしきる雨の音が、急に大きく響き始めた。
婚約者に瞳の色の宝石を贈る習慣が、この国にはある。
最初に紫の耳飾りをいただいた時、セドリック様は「君の瞳を思い出して選んだ」と言ってくださった。私はその言葉を、箱の中の石より嬉しく思ったのだ。
だから昨年までの彼は、いつだって私の瞳と同じアメジストの装飾品を贈ってくれていた。
それなのに、十七歳という最も重要な節目の誕生日に、彼が「一目で気に入って」選んだのは、リリィの瞳と同じ、緑の石だった。
私の瞳の色を覚えていらっしゃいますか。
そう聞こうとして、唇を閉じた。答えを間違えられるより、今さら顔を覗き込まれる方がつらい。
セドリック様は私の礼を待っていた。自分が何を贈ったのか、気づく様子もない。
「どうしたんだい、ヴィオラ? 気に入らなかったか?」
「いいえ」
喉の奥から、血の味がするような錯覚を覚えた。
パチン、と小箱の蓋を閉める音が、やけに乾いてテラスに響く。
私はゆっくりと顔を上げた。
不思議と、涙は一滴も出なかった。まだ好きなのに、次の誕生日を待ちたいとは思わなかった。
「いいえ、とんでもございませんわ。とても……ええ、本当に、目の覚めるような美しい緑色ですこと。大切に使わせていただきますね、セドリック様」
私は小箱を胸に抱き、いつものように微笑んだ。
セドリック様はホッとしたように表情を緩めると、ガラス戸の向こうの広間で誰かと楽しそうに談笑しているリリィの姿へと、自然と視線を滑らせた。
「そうか、喜んでくれてよかった。……さて、あまり長く席を外すと、リリィ嬢が心細がるといけない。そろそろ戻ろうか」
「ええ。どうぞ、お先にお戻りになってくださいませ。私は少し、夜風に当たってから参りますわ」
私の返事を最後まで聞くこともなく、セドリック様は足早に広間へと戻っていく。
ガラス戸が開閉するわずかな隙間に、リリィの鈴のような笑い声が漏れ聞こえ、そして再び閉ざされた。
誰もいなくなった暗いテラスで、私は一人、手すりに歩み寄った。
黒い空から降り注ぐ冷たい雨が、テラスの石畳を濡らし、私の濃紺のドレスの裾に暗い染みを作っていく。
私はもう、彼に愛されることはない。
どれだけ完璧な淑女になっても、どれだけ公爵令嬢として彼を支えても、彼の瞳に映っているのは、あの鮮やかな翠色だけなのだ。
けれど、それと同時に、私の頭の中には奇妙なほど冴え渡った、冷たい思考が流れ込んできていた。
愛されないのなら、いっそ、最後まで徹底的に嫌われてしまえばいい。
彼がリリィを愛しているのなら。
私という婚約者の存在が、彼のその「清らかで美しい恋」を邪魔する足枷になっているのなら。
夜会が終わり、自室へと戻った私は、アンナを下がらせると、一人でドレッサーの鏡の前に立った。
机の端には、アンナが預かってくれたノアからの包みもあった。中身は薔薇の手入れに使う革手袋で、去年、棘を抜いてもらった時のことを思い出す。
『今度は横着せず使え。誕生日おめでとう』
その短い手紙を裏返してから、私は小箱のエメラルドを黒髪に当ててみた。
紫の瞳と、翠の宝石。
似合わない色ではなかった。それでも、挿して外へ出る気にはなれなかった。
私は髪飾りを乱暴にテーブルへと放り投げると、鏡の中の自分を見つめ、口角をゆっくりと吊り上げてみた。
これまでの「模範的で貞淑な公爵令嬢」の笑みではない。
物語の中で、必ず最後に婚約を破棄される悪役令嬢。そんな女の笑い方を真似してみた。
「悪くないわね」
誰もいない部屋に、私の静かな声が落ちた。
窓の外では、十七歳の誕生日の夜を祝うように、いつまでも冷たい雨が降り続いていた。




