第5話
王立学園の旧校舎の奥、ほとんど生徒が立ち寄らない第三図書室の最奥には、古い羊皮紙と乾いたインクの匂いが満ちている。
天井まで届く本棚の影に隠れた小さな窓辺の席。そこだけが、この学園の中で唯一、私が「公爵令嬢ヴィオラ」の仮面を外して息ができる場所だった。
「で? またあのお花畑な王子様と、泣き虫の妹君に悪者にされたってわけ?」
呆れたような、それでいてどこか面白がるような低い声が頭上から降ってきた。
顔を上げると、窓枠にだらしなく背をもたせかけた青年が、銀縁の眼鏡の奥にある琥珀色の瞳を細めて私を見下ろしていた。
無造作に伸ばした銀灰色の髪に、学園の制服ではなく、宮廷魔術師団の黒いローブを羽織っている。
彼の名は、ノア。侯爵家の次男であり、十八歳にして王宮の筆頭魔術師補佐を務める天才と評判で、私の数少ない幼馴染だった。
「人聞きの悪いことを言わないでちょうだい、ノア。私はただ、父に命じられた通りにしただけよ」
私は読んでいた歴史書のページに栞を挟み、パタンと本を閉じた。
ノアは特別講師として週に数回この学園に招かれており、こうして図書室の奥でサボっては、私の愚痴ともつかない報告を聞くのを日課にしていた。
「義務ねえ。カフェテリアの連中は、みんな『氷の公爵令嬢が、可哀想な聖女様をいびり倒した』って噂してるぜ。……お前さ、いい加減にしろよ。なんで毎回そうやって、自分から泥をかぶるような真似をするんだ」
ノアがため息をつきながら、私の向かいの椅子にドカリと腰を下ろした。
机の上に頬杖をつき、不機嫌そうに眉をひそめる彼の顔は、十年前、私の屋敷の庭で泥遊びをしていた頃とちっとも変わっていない。
「泥をかぶっているつもりはないわ。ただ、リリィが泣けば、どういうわけか周囲が勝手にそう解釈するだけよ」
「毎回それでお前だけが叱られてるじゃないか。あの子、無自覚だかなんだか知らないが、自分がどう動けば周りの男が守ってくれるか、本能で理解してやがる」
「あの子の考えていることまでは、わからないわ」
「そうだな。だが、お前の話も聞かずに怒鳴る連中のことはわかる」
ノアは私の手元へ視線を落とした。扇を握っていた跡は、まだ消えていなかった。
「そもそも、俺はあの王子様が昔から気にくわないんだよ。自分の正義感に酔ってるだけの理想主義者じゃないか。お前が裏でどれだけ王妃教育に血を吐くような思いをしてきたかも知らないで、ちょっと泣いたくらいの小娘にうつつを抜かすなんて、目ん玉が節穴にも程がある」
「セドリック様を悪く言わないで。あの方は、ただお優しいだけなのよ」
「出たよ、それが一番タチが悪いんだっての」
ノアは苛立たしげに銀灰色の髪をかき上げると、机の上に身を乗り出し、私の顔を真っ直ぐに覗き込んだ。
琥珀色の瞳に、いつになく真剣な光が宿る。
「なあ、ヴィオラ。もうやめちまえよ、こんな茶番」
「やめるって、何を?」
「王太子の婚約者だよ。それから、あのクソみたいな公爵家の長女って立場も全部だ」
図書室の静寂の中で、ノアの低い声だけがやけに鮮明に響いた。
「来月、俺は魔術師団の視察で、一ヶ月ほど隣国の学術都市へ行く。向こうの研究機関に籍を移さないかって誘いも来てるんだ。……お前も、俺と一緒に来いよ」
思考が、一瞬だけ止まった。
「王家との婚約は、母方の親族を通して解消を申し立てよう。俺も親父に話す。すぐには無理でも、向こうで暮らす手立ては探せる。こんな息の詰まる国も、お前を大事にしない父親も、盲目な婚約者も、全部捨ててしまえ。隣国に行けば、お前はもう誰の顔色も窺わずに、好きに笑って生きていけるんだぞ」
ああ、それはなんて甘美で、優しい提案なのだろう。
もし私が、ただの普通の女の子だったなら。セドリック様とあの温室の裏で出会う前の、何も知らない子供だったなら、きっと今すぐ彼の手を取って頷いていたに違いない。
けれど。
「ありがとう、ノア。でも、それはできないわ」
私はゆっくりと首を横に振り、自分の胸元にそっと手を当てた。
「私が今ここで逃げ出したら、公爵家の面目は丸潰れになるし、何より……セドリック様の経歴に傷がついてしまうもの」
「はあ!? お前、まだあいつの心配なんかしてるのか!?」
「あの方は、これからこの国を背負って立たれるお方よ。今は少し、リリィの珍しさに目を奪われていらっしゃるだけ。私が隣でしっかり支えて差し上げなければ、あの方の理想は脆く崩れてしまうわ」
そう、セドリック様は危うい人だ。
優しすぎて、真っ直ぐすぎて、自分の信じたいものしか見ることができない。だからこそ、私のように冷徹で現実的な人間が隣に立ち、彼の手が汚れないように、彼の理想が傷つかないように、すべてを整えてあげなければならないのだ。
「まだ、あの方を信じたいの。いつかきっと、私の気持ちにも気づいてくださるはずだから」
自分で口にしていて、それがひどく空虚な言い訳に聞こえることくらい、本当は気づいていた。
それでも、そう思い込まなければ、私がこれまで耐えてきた六年という歳月が、あの暖炉で燃やしたハンカチと一緒に、すべて無意味な灰になってしまう気がしたのだ。
ノアはしばらくの間、信じられないものを見るような目で私を見つめていた。
やがて、その琥珀色の瞳が、泣き出しそうなほど痛ましげに歪む。
「お前さ、自分が今、どんな顔をして笑ってるか分かってるのか?」
「え……?」
ノアが手を伸ばした。眼鏡を直す時には無造作なその指が、頬に触れる前に一度ためらった。
私は避けなかった。触れた手のひらが、思っていたより温かかった。
「まるで、今から処刑台に上る人間みたいな顔をしてるぞ、ヴィオラ」
「やめてちょうだい、縁起でもない」
私は小さく笑って、ノアの手から顔を背けた。
行き場を失ったノアの指先が、空中で小さく拳を握りしめるのが見えた。
「バカ野郎。お前がそこまで言うなら、もう無理やりにでも攫ってやろうかと思ったが、今のお前を連れて行っても、お前の心は一生ここに置いていかれたままだろうさ」
ノアは深く、どこまでも深く息を吐き出すと、再び椅子の背もたれに体重を預けた。
「いいさ、勝手にしろ。そこまでしてあの王子様に尽くしたいなら、とことん付き合ってやるよ。……ただし、忘れるなよ、ヴィオラ」
銀縁の眼鏡の奥で、ノアの瞳が鋭く光る。
「世界中がお前を悪者にして、あの王子様がお前に剣を向ける日が来ても、俺だけは絶対にお前の味方だ。お前が望むなら、国を敵に回す共犯者にだってなってやる」
「大袈裟ね。そんな日、来るはずがないでしょう」
私は本を抱え直した。
ノアも立ち上がり、窓際に置いてあった紙包みを押しつけてくる。
「食ってから帰れ。昼飯、ほとんど残してたろ」
「見ていたの?」
「追いかけたら、お前、俺にも礼だけして逃げただろ」
包みの中には、杏のジャムを挟んだ小さなパンが二つあった。幼い頃、庭で半分ずつにした菓子と同じ匂いがする。
私は一つを彼に返した。
「一緒に食べて」
ノアは何も言わずに受け取った。
半分ほど食べたところで急に喉が詰まり、私は窓へ顔を向けた。隣から、きれいなハンカチが差し出される。
端に小さな焦げ跡があった。ノアはそれに気づくと、慌てて折り込んで隠した。そんなことが、今はありがたかった。
図書室の重い扉を開けると、午後の授業を告げる鐘が鳴った。
「返す時は洗わなくていいぞ」と、背中に声がかかった。
私はまだ湿っているハンカチを、ポケットの奥へしまった。




