第7話
季節は容赦なく巡り、王都に凍てつくような冬の風が吹き始めた。
あの誕生日の夜から、私は変わった。
いや、正確には「物分かりのいい婚約者」や「寛大な姉」のフリをするのを、ぷっつりとやめたのだ。
学園でリリィに呼び止められても、もう足を止めない。教えてほしいことがあるなら、家庭教師に聞きなさいと告げるだけ。
セドリック様がリリィを連れて私の前に現れても、以前のように微笑んで迎え入れることはせず、氷のような態度で最低限の挨拶だけを交わす。
当然、周囲からの私の評判は地の底まで落ちた。
『公爵令嬢は、聖女候補である妹君の人気に嫉妬して、完全に心を閉ざしたらしい』
『セドリック殿下に対してもあの傲慢な態度。婚約破棄も時間の問題だろう』
廊下で声を潜められても、足を止めなくなった。
私という共通の「敵」がわかりやすい悪役を演じることで、セドリック様の正義感はより一層燃え上がり、彼とリリィの絆は誰も引き裂けないほど強固になっていく。
それで婚約を解いてくださるならいい。そう思う一方で、いつか「どうした」と聞いてほしい気持ちも捨てられなかった。我ながら往生際が悪い。
あの日、父の執務室の前を通りかかるまでは。
それは、学園が冬休みに入ったばかりの、雪の降る夜のことだった。
王妃教育の課題であった領地経営の報告書に父の署名をもらうため、私は夜遅くに屋敷の北棟にある執務室へと足を運んだ。
廊下の絨毯が私の足音を吸い込む。
執務室の重厚な扉の前に立った時、わずかに開いた隙間から、父のひどく焦ったような低い声が漏れ聞こえてきた。
「もう一度だけだ。もう一度だけ、あの『結晶』を手に入れてくれ。金ならいくらでも出す!」
「そう言われましてもな、公爵閣下。あれは隣国の闇ギルドから極秘に流れてくる禁制品ですぞ。そう簡単に数は揃いません」
聞き慣れない、粘りつくような男の声だった。
私は反射的に息を殺し、扉の脇の柱の影へと身を潜めた。
「そこをなんとか頼む! 来春の卒業記念夜会で、殿下がリリィを聖女として披露すると言い出した。本鑑定は先延ばしにできても、そこで光が出せなければ怪しまれる!」
「ふむ。つまり、お嬢様の『聖女の力』とやらが、あの魔導具による偽物だとバレてしまう、と?」
え?
書類を抱えていた私の指先から、スッと血の気が引いていった。
偽物。聖女の力が、魔導具による、偽物?
扉の隙間から中を覗き込むと、暖炉の火に照らされた父が、黒ずくめの外套を羽織った商人のような男の前に立ち、額に脂汗を浮かべていた。
テーブルの上には、見覚えのある銀のロケットペンダントが置かれている。リリィが「お母様の形見なんです」と言って、肌身離さず身につけていたものだ。
そのロケットの蓋が開かれ、中にはすでに光を失い、黒くひび割れた小さな石が収められていた。
「まったく、閣下も大胆なことをなさる。いくら愛人との間に生まれた可愛い娘だからといって、盗まれた治癒の魔力を蓄えた『魔導結晶』を装飾品に仕込み、聖女候補に仕立て上げるとは」
「だ、黙れ! 我が公爵家は、先代の頃から鉱山の枯渇で莫大な借金を抱えているのだ。亡き妻の持参金で一度は凌いだが、鉱山への投資が裏目に出た。ヴィオラが王家に嫁ぐだけでは、到底穴埋めなどできん! 神殿から莫大な寄進が集まる『聖女の後見人』という地位が、どうしても必要だったのだ……!」
父の悲痛な唸り声が、静かな部屋に響く。
「殿下との婚約さえ決まれば、神殿も簡単には手を出せまい。ヴィオラとの婚約は解消させる」
「それで、お嬢様にはお話しになったので?」
「つい先日な。ロケットを外す本鑑定ではごまかせん。今までは母親の形見が力を貸すと信じていたが、さすがに言わざるを得なかった」
「泣いて告白でもされたら、おしまいですぞ」
「あの子も王太子妃になりたいのだ。黙っていれば殿下のおそばにいられると、よく言い聞かせてある!」
頭をガツンと鈍器で殴られたような衝撃に、私は壁に手をついてようやく体を支えた。
あの銀のロケットは、本当にリリィの母親の形見なのだろう。父はその中へ、別のものを忍ばせた。
初めて光が出た時、リリィは私にも嬉しそうに見せていた。その時は何も知らなかったのかもしれない。
けれど今は知っている。今朝もセドリック様から届いた手紙を、聖女としての務めだと言って大事に持っていた。
結晶を買い足すだけで、いつまで隠せるというのだろう。
「まあ、せいぜい気をつけることですな、閣下。あの魔導結晶は、使えば使うほど使用者の魔力回路に特殊な『澱』を残す。初めの鑑定は光が出るかどうかを見るだけでしたが、本鑑定は違う。上級神官に調べられれば、使い手自身の力でないことがわかりますぞ」
「それまでに、殿下との既成事実を作ってしまえばいい! 王太子の寵愛さえあれば、神殿とて手出しはできん!」
愚かすぎる。あまりにも、愚かすぎる。
私は震える唇を噛みしめ、音を立てないように後ずさると、逃げるようにその場を離れた。
自室に戻り、内側から鍵をかけた私は、そのまま扉に背を預けて床へとへたり込んだ。
どうなるかは、火を見るよりも明らかだった。
父の思惑通り、このままセドリック様が私との婚約を破棄し、リリィを「本物の聖女」として婚約者に据えたとする。セドリック様はすでに、公の場で何度も「リリィ嬢こそが、この国を導く真の聖女だ」と宣言してしまっている。
もしその後で、彼女の力が「公爵家が闇ギルドから買い入れた違法魔導具による捏造」だと暴かれたら、どうなるか。
公爵家は当然、国家反逆罪でお取り潰し。寄進を流用した父は、極刑を免れないかもしれない。事情を知って黙っていたリリィも、ただ騙されただけとは認めてもらえないだろう。
そして、その偽物の聖女に騙され、国の伝統ある婚約を破棄してまで彼女を擁護したセドリック様は、王太子の地位を剥奪されるどころか、共謀の疑いをかけられて破滅する。現在、王宮内では第二王子派の貴族たちが虎視眈々とセドリック様の失脚を狙っているのだ。これほどの格好の餌食はない。
「そんなこと、させない」
暗い部屋の中で、私は自分の両腕を強く抱きしめた。
ならば、今すぐ私が王宮へ走り、父とリリィの不正を告発すればいいのか?
告発するのが正しい。それくらいはわかっている。
それでも、便箋に父の名前を書こうとすると、手が止まった。幼い頃から、家の恥を外に漏らすなと教えられてきた。その家が、今は私を切り捨てる相談をしているのに。
セドリック様はリリィを庇うだろう。神殿の報告を握り潰そうとしたら、今度こそ取り返しがつかない。自分の間違いを認めてくださると、私はもう信じられなかった。
十歳の日のあの人の約束まで、嘘だったと認めるのが怖かった。
誰かに相談すれば、まだ道はあったのかもしれない。けれど私は一人で鍵をかけ、机の前に座り直した。
冷え切った私の脳裏に、一つだけ、父とあの人を告発せずに済む方法が浮かんだ。
もし、公爵家が闇ギルドから違法な魔導具を買い入れていたという記録が、「聖女を捏造するため」ではなく、「まったく別の目的」のために行われたものだとしたら?
そして、リリィの体内に残った違法魔導具の痕跡が、「彼女自身が力を得るために使ったもの」ではなく、「誰かに悪意をもって害された結果」だとしたら?
たとえば、そう。
聖女である妹に激しく嫉妬し、婚約者を奪われた恨みから狂気に走った、愚かで醜悪な『悪役令嬢』の仕業だとしたら。
「ああ」
窓の外で、白い雪が音もなく降り積もっていくのが見えた。
月明かりに照らされた私の紫の瞳が、暗いガラス窓の中で妖しく光っている。
私が、すべての罪を背負えばいいのだ。
結晶を買った取引も、違法な魔導具の所持も、「私個人がリリィを陥れ、呪い殺すために独断でやったこと」に書き換えてしまえばいい。
公爵家の借金は消えない。それでも違法な取引の責任を私が引き受ければ、父には立て直す時間が残る。そう考えると、ようやくペンを握れた。
リリィは「毒で奇跡の力を失った聖女」として、これからもセドリック様に守られて生きていける。
そして何より、セドリック様は、悪辣な婚約者を断罪し、愛する少女を守り抜いた「汚れなき正義の王太子」として、その輝かしい王道を歩み続けることができるのだ。
「ふ、ふふ……」
乾いた笑いが、自然と唇からこぼれ落ちた。
私を疑う人間なら、もう大勢いる。今さら誰も驚かない。
そこまで考えて、ようやく自分がひどいことを思いついたのだとわかった。ノアには怒鳴られるだろう。顔が思い浮かんで、少しだけ手が止まった。
私は新しい便箋を取り出し、羽根ペンを走らせた。
宛先は、宮廷魔術師団のノア。
『あなたが以前言ってくれた、共犯者の話。まだ有効かしら?』
短い一文だけを記し、封蝋を落とす。
封をする前に「助けて」と付け足しかけたことは、誰にも言わないつもりだった。
私はまた、頼みたいことを間違えようとしていた。




