第4話
翌年の春、十六歳の私は王立学園の門をくぐった。
王国の貴族子女が義務として通う王立学園への入学。本来ならば、先に進学していたセドリック様と同じ学び舎で過ごせることに胸を躍らせるはずの季節だった。
けれど、私の隣を歩く少女の存在が、その淡い期待すらも過去のものへと変えていた。
「わあ……! お姉様、見てください! お城みたいに大きな学校です!」
真新しい制服に身を包んだリリィが、目を輝かせて声を上げる。
一つ年下のリリィも、特例で私と同じ一年生として学ぶことになったのだ。
理由は、数ヶ月前に判明した彼女の『聖女』としての適性だった。
神殿の鑑定により、彼女の中に希少な治癒と浄化の魔力が眠っていることが分かり、王家と神殿の推薦という形で、特待生としての入学が決まったのである。
もっとも、平民として育った彼女には、貴族としての基礎教養も、最低限の礼儀作法すらも備わっていない。
入学式の前日、父は私を執務室に呼び出すと、書類から目を上げることなくこう命じた。
『学園でリリィが恥をかかぬよう、お前がしっかりと教育しろ。あの子が何か失態を犯せば、それは姉であるお前の監督不行届だと思え』
理不尽な言葉にも、もう慣れっこになっていた。
私はただ静かに頭を下げ、「承知いたしました」とだけ答えたのだ。
学園という場所は、小さな社交界そのものだった。
そして、異分子であるリリィが引き起こす波紋は、私の予想を遥かに超える速さで広がっていった。
入学からわずか二週間後の、昼休みのことである。
中庭に面したオープンテラスのカフェテリアで、その騒動は起きた。
「リリィ。スープを飲む時は、スプーンを手前から奥へ動かすのよ。それから、食事中に肘をテーブルにつくのはおやめなさい」
向かいの席で、音を立ててスープを啜っていたリリィに、私は周囲に聞こえないよう声を潜めて注意した。
これで今日だけで三度目だ。昨日も自室で同じことを教えたはずなのに、彼女は楽しいことがあるとすぐにすべてを忘れてしまうらしかった。
「あっ、ご、ごめんなさい、お姉様……」
リリィがビクリと肩を震わせ、スプーンを握りしめたまま俯く。
ただ姿勢を正すように言っただけなのに、彼女の大きな翠の瞳には、すでにうっすらと涙の膜が張っていた。
「またあの姉妹よ。公爵令嬢ったら、毎日あんなふうに妹君を詰めていらっしゃるの」
「可哀想に。妹君が聖女候補として注目されているから、嫉妬していらっしゃるんじゃないかしら」
近くのテーブルから、令嬢たちのひそひそ声が風に乗って届いてくる。
私は聞こえないふりをして、紅茶のカップを口に運んだ。
私がリリィにマナーを教えようとするたび、なぜか周囲の目には「高慢な姉が、不慣れな妹を執拗にいびっている」という光景として映るらしい。
屋敷で二人だけの時なら、リリィも「もう一度教えて」と言えた。ところが誰かがこちらを見ると、返事より先に涙が出る。人前で叱られたくないのはわかる。私だって同じだった。
けれど、結果として生まれるのは、いつだって同じ構図だった。
「おい、ヴィオラ。いい加減にしたらどうだ」
不意に、頭上から硬い声が降ってきた。
顔を上げると、そこには生徒会のバッジを胸につけたセドリック様と、彼の側近である宰相子息や騎士団長子息たちが立っていた。
私は静かに立ち上がり、礼をとる。
「ごきげんよう、セドリック様。何かご用でしょうか」
「とぼけるな。離れた場所からでも、リリィ嬢が怯えているのが見えたぞ。食事の席でまで、小言を並べるのはやめたらどうだ」
セドリック様は眉間に深い皺を寄せ、まるで弱い者いじめの現場を取り押さえた正義の騎士のような目で私を見下ろしていた。
その背後にいた騎士団長子息のガイル様も、腕を組んで忌々しげに鼻を鳴らす。
「まったく、噂には聞いていましたが、これほどとは。同じ公爵家の血を引きながら、聖女候補である妹君に対するその冷酷な仕打ち、見損ないましたぞ」
カフェテリア中の視線が、一斉に私たちのテーブルへと突き刺さる。
私は感情の揺れを押し殺し、淡々と事実だけを口にした。
「誤解ですわ、セドリック様。私はただ、リリィが今後の夜会や公式の場で恥をかかぬよう、テーブルマナーの基本を教えていただけです。公爵家の名を背負う以上、必要なことですので」
筋の通った説明のはずだった。
王太子の婚約者である私が、身内の不作法を正すのは当然の義務だ。セドリック様だって、頭ではそれが理解できるはずなのだ。
しかし、私の言葉が終わるより早く、リリィが椅子から立ち上がった。
「ち、違うんです、セドリック様……! お姉様を責めないでくださいっ!」
ポロポロと大粒の涙をこぼしながら、リリィはセドリック様の前に進み出た。
そして、自らの胸元をぎゅうっと握りしめ、痛ましげに声を震わせたのである。
「全部、私が悪いんですっ! 私が何度教えていただいても覚えられないから、お姉様がイライラしてしまうのも、当然で……。私が出来損ないの妹だから、お姉様に恥をかかせてばかりで……ごめんなさい、お姉様ぁっ!」
カフェテリアの空気が、一瞬でリリィへの同情一色に染まった。
ああ、見事な台詞だこと。
私はカップを置いた。
『私が悪い』『お姉様がイライラするのも当然』。
それでは、私が苛立って八つ当たりをしたことになってしまう。セドリック様の顔が険しくなるのを見て、私はもう説明を聞いてはいただけないと悟った。
「泣かないでくれ、リリィ嬢。君が自分を責める必要はどこにもない」
セドリック様は、すぐさまリリィの華奢な肩を抱き寄せた。
そして、涙に濡れた彼女を腕の中に庇いながら、私へと振り返った。その蒼い瞳には、かつての温もりなど微塵も残っておらず、ただ氷のような怒りだけが宿っていた。
「聞いたか、ヴィオラ。彼女がここまで心を痛めているのに、まだ『教育のためだ』と言い張るつもりか」
「では、今後の指導は家庭教師に任せます。父にも、殿下のお考えをお伝えいたしますわ」
これ以上、何を言っても無駄だった。
この学園という名の舞台の上では、配役はすでに決まっているのだ。涙を流す可哀想なヒロインと、彼女を救い出す白馬の王子様。そして、二人の絆を深めるための障害となる、醜悪な悪役令嬢。
私がどれほど正しい言葉を並べ立てても、それはすべて「悪役の苦しい言い訳」として処理されるだけ。
「私の指導が行き過ぎましたわ。不快な思いをさせてしまい、申し訳ございません、セドリック様。……それに、リリィも」
私は背筋を伸ばしたまま、深く、美しく頭を下げた。
顔を上げると、リリィはセドリック様の腕の中で頷いた。もう涙は止まっていた。「お姉様には怒鳴られていません」と、一言で済むはずなのに。
言ってほしいと思った自分にも腹が立った。
「わかればいい。リリィ嬢、ここは空気が悪い。生徒会室でお茶でも淹れ直そう」
「あ……はい、ありがとうございます、セドリック様……」
セドリック様はリリィをエスコートし、側近たちを引き連れてその場を去っていく。
すれ違いざま、セドリック様は一度たりとも私を見ようとはしなかった。
取り残されたカフェテリアには、私に対する冷ややかな視線と、嘲笑を含んだささやき声だけが満ちていた。
テーブルの上には、リリィが飲み残した冷めたスープと、私が一口しか飲んでいない紅茶が並んでいる。
私はナプキンで優雅に口元を押さえると、何事もなかったかのように立ち上がった。
どれだけ周囲から蔑まれようと、膝を折るわけにはいかない。私がここで泣き崩れてしまえば、これまで公爵令嬢として、そして彼の婚約者として積み上げてきた誇りまでが、すべて嘘になってしまうから。
カツ、カツ、と自分のヒールの音だけが、やけに大きく耳に響く。
旧校舎へ向かう角で、ようやく足を止めた。
扇を握りすぎて、手のひらに骨の跡がついていた。渡り廊下からノアが来るのが見えたが、礼だけして先に行った。何か言われたら泣いてしまいそうで、私は第三図書室の扉を押した。




