第3話
自室のドレッサーの一番奥、ビロードを敷いた小箱の中に、そのハンカチは大切にしまわれている。
上質な白い麻の生地に、銀糸で王家の紋章と、小さく『C』のイニシャルが刺繍された少年用のハンカチ。
何度洗っても取れなかった小さな泥の染みが、端の方にうっすらと残っているそれを、私は指先でそっと撫でた。
私がセドリック様と婚約したのは、十歳の春のことだった。
当時の私は、今よりもずっと不器用で、自分の感情をどう表現していいのかわからない子供だった。公爵家の長女として厳しく躾けられ、「泣くな」「笑うな」「感情を悟られるな」と教え込まれて育ったせいで、同年代の令嬢たちからは「氷の人形」と陰口を叩かれていた。
そんな私が、王宮の夜会で初めてセドリック様と顔を合わせた日のことだ。
緊張のあまり、挨拶の途中でドレスの裾を踏んで転んでしまった私を見て、周囲の貴族たちはクスクスと忍び笑いを漏らした。
けれど、痛む足を引きずって一人で温室の裏手に逃げ込み、声を殺して泣いていた私を見つけ出してくれたのは、他でもないセドリック様だったのだ。
『泣いているのかい、ヴィオラ嬢?』
十二歳だったセドリック様は、泥だらけになった私の靴と、必死に涙を堪えて真っ赤になった顔を見て、少し困ったように、けれどとても優しく微笑んだ。
そして、自分のポケットから白いハンカチを取り出し、私の目元をそっと拭ってくれたのである。
『みんなの前では泣かなかったんだろう? 君は本当に強くて、誇り高い女の子だね』
『わ、私は、ドジで、みんな、私のこと、氷の人形って』
『そんなことはないよ。君がどれだけ一生懸命だったか、僕はちゃんと見ていたから』
ひざまずいたセドリック様は、私の小さな手を取ると、その澄み切った蒼い瞳で真っ直ぐに私を見つめた。
『これからは僕が君の騎士になって、君を守るよ。だから、僕の前でだけは、無理に笑わなくていいんだ』
あの日、春の温室の裏で交わされた約束。
それが、私の初恋のすべてであり、今日まで厳しい王妃教育に耐え抜くことができた唯一の支えだった。
彼が公務で忙しい時も、私に対してどこかよそよそしくなった時も、「彼は次期国王として立派になられたのだ」「私が隣に立つにふさわしい女性になれば、またあの日のように笑ってくれるはずだ」と信じて疑わなかった。
この銀糸のハンカチを見るたびに、私は自分がまだ、彼に守られるべき特別な少女なのだと錯覚することができたのだ。
コンコン、と控えめなノックの音がして、私の意識は過去から現在へと引き戻された。
慌てて小箱の蓋を閉め、ドレッサーの引き出しにしまい込む。
「どうぞ」と声をかけると、扉がゆっくりと開き、ふわふわの蜂蜜色の髪が覗いた。
「あの……お姉様、夜分遅くにごめんなさい。どうしてもお礼が言いたくて……」
ネグリジェの上に薄いショールを羽織ったリリィが、少し遠慮がちに部屋へ入ってきた。
昼間のお茶会から戻った後、私は彼女と一言も言葉を交わしていなかった。父の手前、冷たくあしらうわけにもいかず、私は椅子から立ち上がって彼女に向き直った。
「どうしたの、リリィ。お礼だなんて、改まって」
「今日、セドリック様とのお茶会に同席させてくださったことです。お姉様、本当はお嫌だったのに、私のために我慢してくださったんですよね……?」
リリィは胸の前で両手を組み、申し訳なさそうに潤んだ翠の瞳で私を見上げた。
もしここで私が「ええ、迷惑だったわ」とでも言おうものなら、泣かせてしまう。廊下でその姿を見た誰かが父に知らせれば、今度は私の部屋まで叱りに来るだろう。
「そんなことはないわ。あなたが楽しそうで、私も嬉しかったわよ」
「本当ですか!? よかったぁ……! お姉様に嫌われてしまったらどうしようって、ずっとドキドキしていたんです」
パァッ、と花が咲くようにリリィの顔が明るくなる。
彼女は嬉しそうに私のすぐそばまで駆け寄ると、無邪気な声で言葉を続けた。
「セドリック様って、本当に素敵な方ですね! まるでお伽噺に出てくる白馬の王子様みたいで……あんなに優しくて立派な方がお姉様の婚約者だなんて、私まで鼻が高いです!」
「ええ、そうね。セドリック様は、誰に対してもお優しい方よ」
自分の声が、驚くほど平坦に響く。
リリィは私の微妙な空気の変化に気づく様子もなく、自分のショールのポケットをごそごそと探り始めた。
「あ、そうだ! 見てください、お姉様。今日、帰り際に馬車の前で転びそうになってしまった時、セドリック様が『また泣きそうになっているね』って、これを貸してくださったんです!」
リリィが誇らしげに両手で広げたものを見た瞬間、私の呼吸が、ピタリと止まった。
上質な白い麻の生地。
その角には、銀糸で王家の紋章と、見紛うはずもない『C』のイニシャルが刺繍されていた。
私の引き出しの奥に眠っているものよりも、少しだけ新しく、けれど刺繍の位置までよく似たハンカチだった。
「『これからは、僕が君を守るから。困ったことがあったら、いつでも僕を頼りなさい』って、そう仰ってくださって……! 私、綺麗に洗ってお返ししようと思うんですけれど、どういう洗い方をすればいいのかわからなくて、お姉様に聞こうと思って持ってきたんです!」
リリィの弾むような声が、遠い水底から聞こえてくるみたいにぼやけていく。
これからは僕が君の騎士になって、君を守るよ。
五年前の春、私だけに誓ってくれたはずの特別な言葉。
私が宝物のように抱きしめ、心の支えにしてきたあの記憶は、彼にとっては、目の前で泣いている「可哀想でか弱い女の子」を慰めるための、ただの決まり文句に過ぎなかったのだろうか。
あの日の言葉まで嘘だったとは思いたくなかった。
泣いている私を慰めてくれた、その優しさは覚えている。
けれど今日、同じ人に二人で過ごしたいと言ったら、心が狭いと叱られた。泣かずに話せば、私は傷ついていないことになるのだろうか。
「お姉様? どうかされましたか? お顔の色が真っ青ですけれど……」
私の異常な沈黙にようやく気づいたのか、リリィが不安そうに私の顔を覗き込んだ。
彼女の手から、銀糸の刺繍が入った白いハンカチがひらりと揺れる。
返事ができず、私は一度唇を結んだ。
泣き叫びたい衝動と、目の前の少女からそのハンカチを奪い取って引き裂いてしまいたいような、どす黒い衝動が喉元までせり上がってくる。
けれど、ドレッサーの鏡に映った私の顔は、自分でもゾッとするほど冷ややかで、美しい微笑みを浮かべていた。
「いいえ、何でもないわ。少し、昼間の疲れが出ただけよ」
「そ、そうですか……? あの、ハンカチの洗い方は……」
「銀糸は扱いを間違えると傷むの。洗濯に慣れていないなら、うちのメイド長に任せるといいわ。……ほら、もう遅いから、お部屋にお戻りなさい」
私はリリィの背中をそっと押し、半ば強制的に彼女を部屋から追い出した。
パタン、と扉が閉まる音がして、部屋に再び静寂が戻る。
私は鍵をかけると、ふらつく足取りでドレッサーの前まで歩き、引き出しの奥からあの小箱を取り出した。
蓋を開けると、古びた白いハンカチが、まるで私を嘲笑うかのようにそこに収まっている。
立派になろうと努力すればするほど、彼から遠ざかっていくなんて、なんて滑稽な喜劇なのだろう。
私が必死に積み上げてきた五年という歳月は、今日初めて王宮に行ったばかりの少女が流した、たった数滴の涙に、いとも簡単に敗れ去ったのだ。
私は小箱からハンカチをつまみ上げると、暖炉の前へと歩み寄った。
まだ初夏だというのに、今夜はひどく肌寒くて、小さな火を熾させていたのだ。
パチ、パチ、と赤い火の粉が爆ぜる。
私はその銀糸のイニシャルを指でなぞった。手を離すまでには、思っていたよりも時間がかかった。
乾いた麻の生地は、驚くほどあっけなくオレンジ色の炎に包まれ、黒い灰となって崩れていく。
もう、温室の騎士様はいない。
私を守ってくれる人など、この世界のどこにもいないのだ。
燃え残った銀糸が、灰の中に光っていた。
火掻き棒へ伸ばしかけた手を、膝の上に戻した。
燃やしてしまえば忘れられるほど、賢くはなかった。




