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これはたぶん、私が悪役令嬢になる前日譚です  作者: 九葉(くずは)


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2/12

第2話

 王宮の南庭園にある白亜のガゼボには、初夏の風が心地よく吹き抜けていた。


 テーブルの上に置かれた銀のティーポットから、湯気がすっかり消えてしまってどのくらい経つだろう。私は膝の上で重ねた両手に視線を落としたまま、規則正しく時を刻む懐中時計の音を、どこか遠い世界の出来事のように聞いていた。


 月に一度の、婚約者である第一王子セドリック様とのお茶会。

 公務に忙しい彼と、王妃教育に追われる私が、唯一お互いの近況を語り合うことができる大切な時間だ。


 今日の日のために、私は彼が一番好んでいるアールグレイの茶葉を用意させ、彼が不意に甘いものを欲しがった時のために、甘さを抑えたレモンのタルトを焼かせておいた。

 本当ならここに、あの温室で咲いた白い薔薇を一輪、小さな花瓶に挿して飾るはずだったのだけれど。


 テーブルに残された空っぽの花瓶を見つめていると、遠くの砂利道から、ようやく聞き慣れた足音が近づいてきた。

 ただ、その足音は、なぜか二人分あった。


「待たせてすまない、ヴィオラ!」


 明るい声とともにガゼボの階段を上ってきたのは、金髪に蒼い瞳の青年、セドリック様だった。

 私はすぐさま立ち上がり、スカートをつまんで完璧な淑女の礼をとる。


「いいえ、お気になさらないでくださいませ、セドリック様。ご公務がお忙しかったのでしょう?」


 顔を上げて微笑んだ私の視界に、セドリック様の背後に隠れるようにして立つ、もう一人の人影が入った。

 ふわふわの蜂蜜色の髪に、新緑の瞳。屋敷へ迎える前から父が用意させていた、淡いピンク色の可愛らしいドレスに身を包んだリリィが、申し訳なさそうに眉を下げてそこに立っていた。


「あ、あの、お姉様、ごめんなさいっ」

「なぜ、リリィがここにいるのかしら?」


 純粋な疑問だった。

 今日のお茶会は、王宮の庭園で行われる私的なものだ。いくら公爵家の娘として迎えられたとはいえ、まだ社交界への正式な披露目も済んでいない彼女が、一人で王宮に入り込めるはずがない。


「実はね、今日、公爵が国王陛下に彼女の紹介に上がっていてね。私がここへ向かう途中、廊下で迷って泣いている彼女を見つけたんだ」


 セドリック様は、迷子の子猫を保護したかのような優しい目をして、リリィの肩にそっと手を添えた。


「聞けば、君の新しい妹だというじゃないか。せっかくの機会だし、一人で待たせるのも可哀想だろう? だから、私が誘って連れてきたんだ。構わないだろう、ヴィオラ」


 構わないだろう、と。

 その言葉には、私が笑顔で頷くことへの一点の疑いも含まれていなかった。


 普段の私なら、きっとそうしていたはずだ。王太子の婚約者として、寛大で思慮深い公爵令嬢として、新しい妹を迎え入れ、三人でお茶を楽しんだことだろう。

 けれど、リリィの右手の人差し指に巻かれた白い包帯が目に入った瞬間、私の胸の奥で、昨日の温室の記憶がチクリと疼いた。母の白薔薇を引きちぎった時にできた、小さな傷。


「セドリック様」


 気がつけば、私は口を開いていた。


「本日は、私とセドリック様の、月に一度の二人きりのお茶会だと認識しておりました。リリィのことは私も大切に思っておりますけれど、せめて事前に一言お声をかけていただきたかったですわ」


 声は穏やかだったし、言葉遣いも丁寧だったはずだ。

 それでも、私がセドリック様の行動に異を唱えたのは、婚約してから今日この日までで初めてのことだった。


 セドリック様の手が、椅子の背にかかったまま止まった。


「ご、ごめんなさい、お姉様! やっぱり、私なんかがご一緒したら、お邪魔でしたよね! セドリック様が、お姉様もきっと喜ぶからと仰ってくださったので、つい甘えてしまって。私、戻ります!」


 リリィが顔を真っ赤にし、大きな瞳にみるみる涙を溜めて後ずさる。

 その華奢な腕を、セドリック様が咄嗟に掴んで引き止めた。


「待つんだ、リリィ嬢。君は何も悪くない」


 リリィを庇うように一歩前に出たセドリック様が、ゆっくりと私を振り返った。

 その蒼い瞳に浮かんでいたのは、驚きと、明確な失望の色だった。


「ヴィオラ。君はいつから、そんなに心の狭い女性になってしまったんだ?」

「セドリック様?」

「彼女は今日、初めて王宮に来て不安でいっぱいだったはずだ。それを姉である君が温かく迎えてやらずに、どうする。二人きりの時間など、これから先いくらでもあるだろうに」


 ああ、まただ。昨日、温室で父に睨みつけられた時と、まったく同じ構図。

 誰も、私が今日のためにどんな準備をしてきたのかなど見ようともしない。冷めきった紅茶も、手つかずのレモンタルトも、空っぽの花瓶も、すべては可哀想なリリィを傷つけた私の狭量さの前に意味を失っていく。


「おっしゃる通りですわね。私の思慮が足りませんでしたわ。リリィ、どうかそこに掛けてちょうだい。あなたがお邪魔だなんて、そんなはずがないでしょう?」


 私は心の奥に湧き上がった黒い感情を、冷たい水で無理やり飲み下すようにして、淑女の笑みを貼り付けた。


 そこからの時間は、出来の悪い喜劇を見ているようだった。


「まあ、このタルト、とっても美味しいです! 私、こんなに素敵なお菓子を食べたの、生まれて初めてです!」


 リリィが頬を押さえて無邪気に微笑むと、セドリック様の顔が面白いほどに綻んだ。

 いつも私といる時は、次期国王としての威厳を保とうとどこか背伸びをしている彼が、リリィの前では、ただの年相応の青年のように柔らかく笑っている。


「そうか、そんなに気に入ってくれたならよかった。リリィ嬢は本当に、何を食べても美味しそうに笑うね。見ているこちらまで幸せな気分になるよ」

「えへへ、お行儀が悪くてごめんなさい。お姉様みたいに、綺麗にナイフとフォークが使えなくて」

「いや、そんな飾らないところが君の魅力だよ。王宮には、感情を表に出さない窮屈な人間ばかりだからね」


 膝の上で指を握り込んだ。カップを持っていなくてよかった。

 彼はこちらを見もしなかった。私のことを言ったつもりはないのかもしれない。

 けれど、感情を表に出さない窮屈な人間になるよう私に求めたのは、他でもないこの王宮であり、彼の未来の伴侶という立場だったはずなのに。


「お姉様は、タルトを召し上がらないのですか?」


 リリィが小首を傾げて私を見る。私の皿の上には、まだ一口も手をつけていないレモンタルトが乗っていた。


「ええ。私は少しお腹がいっぱいなの。私の分も、よかったら食べてちょうだい」

「本当ですか!? ありがとうございます、お姉様!」


 私は自分の皿を、リリィの前へと静かに滑らせた。

 セドリック様は、どうしようもなく甘い眼差しでリリィを見つめている。その視線が隣に座る私に向けられることは、お茶会が終わるまで一度もなかった。


「リリィ嬢、その指の包帯はどうしたんだい?」


 帰り際、セドリック様がふとリリィの右手に目を留めた。私の心臓が、嫌な音を立てて跳ねる。


「あ、これは昨日、お屋敷のお庭でお花を摘もうとして、棘が刺さってしまったんです。お姉様に贈ろうと思ったのですけれど、私ったらドジで」


 リリィが恥ずかしそうに指先を隠す。

 嘘ではない。確かに彼女は私に花冠をくれようとしていたのだから。ただ、その花が母の遺品の白薔薇であり、勝手に温室に侵入して引きちぎったものだという事実が、すっぽりと抜け落ちているだけで。


「なんと優しい子なんだ、君は。ヴィオラ、君は本当に素晴らしい妹を持ったね」

「ええ。本当に、私にはもったいないほど優しい妹ですわ」


 優しい嘘だった。

 リリィは、母の薔薇だったことを言わなかった。私も言わなかった。

 セドリック様にもう一度「心が狭い」と言われるのが怖くて、紅茶を注ぎ足すふりをした。


 お茶会がお開きになり、セドリック様が馬車までリリィをエスコートしようと歩き出す。

 二人の背中から数歩遅れて歩きながら、私はガゼボのテーブルに残された空っぽの花瓶のことを思い出していた。あの白い薔薇が咲いていたら、セドリック様はどんな顔をしてくれただろうか。今になって考えても仕方のないことだった。


 前を歩くセドリック様が、石畳に足を取られてよろめいたリリィの腰を、当たり前のように抱き留めていた。私の肩には、一度だってあんなふうに気安く触れたことなどないのに。


 初夏の風が吹き抜け、私の黒い髪が視界を遮るように揺れた。

 こうして少しずつ、私の居場所は彼女に塗り替えられていくのだ。

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