第1話
父がどこからか見つけてきた「もう一人の娘」を屋敷に連れてきた日、空は嫌になるほど青かった。
「今日からこの子が、お前の妹になるリリィだ。仲良くしなさい、ヴィオラ」
エントランスホールに響いた父の声は、いつになく弾んでいた。
母が三年前に病で亡くなってからというもの、父がこんなふうに目尻を下げて笑うのを、私は一度も見たことがない。
無理もないのかもしれない。父にとって亡き母との結婚は、傾きかけた公爵家の財政を母の実家の資産で立て直すための、冷え切った政略結婚に過ぎなかったのだから。父が昔から本当に愛していたのは、身分違いで結ばれなかった市井の女性だと、使用人たちの噂で聞いたことがあった。
父の背後の影から、おずおずと小さな顔が覗いた。
ふわふわの蜂蜜色の髪に、大きな翠の瞳。少し丈の短い簡素なワンピースを着たその少女は、怯えた小動物のように肩をすくめ、潤んだ瞳で私を見上げていた。父が愛したという女性の面影を、きっと色濃く残しているのだろう。
「あ、あの、リリィです。お姉様とお呼びしても、よろしいでしょうか?」
か細く、けれど鈴を転がすように愛らしい声だった。
父は彼女が名乗る間も、その背中に手を添えていた。私が初めて王宮へ上がった日には、挨拶を間違えるなと念を押すばかりだったのに。
対する私はといえば、母譲りの黒髪に紫の瞳で、黙っていると怒っているのかと聞かれる。背筋を真っ直ぐに伸ばし、隙のない淑女の礼をとる私の姿は、きっと彼女の目には、冷たくて恐ろしい姉として映ったことだろう。
「ええ、もちろんよ。歓迎するわ、リリィ。わからないことがあれば何でも聞いてちょうだい」
私は教科書通りに微笑み、模範的な長女としての言葉を返した。
公爵家の令嬢として、そして第一王子セドリック様の婚約者として、私は常に完璧でなければならなかったから。
父が愛人に産ませた子であろうと、こうして正式に引き取られた以上、彼女もまた公爵家の人間だ。波風を立てるつもりは毛頭なかった。少なくとも、その日の午後までは。
事件が起きたのは、屋敷の奥にあるガラス張りの温室だった。
そこは生前の母が何よりも大切にしていた場所で、母が亡くなってからは、庭師に教わりながら、母の薔薇だけは私が手入れを続けていた。
温室の中央には、母の実家から持ち込まれたという特別な白い薔薇が植えられている。
その鉢の底には、母の一族に伝わる小瓶が封じられている。王家の密命を担った祖先が遺した危険な品で、母が亡くなる前に、場所と、決して開けてはいけないことだけを教えられた。
何年もかけてようやく根付いたその白薔薇が、今年の春の終わり、初めて大きなつぼみを三つだけつけたのだ。明日の王宮でのお茶会には、一輪だけ切って持っていこう。そんなふうに、柄にもなく胸を躍らせていた。
水差しを手にして温室の扉を開けた私は、その場に立ち尽くした。
「わあ! お姉様、見てください! とっても綺麗なお花が咲いていましたの!」
振り返ったリリィの両手には、無惨にちぎられた白い薔薇が握られていた。
ハサミすら使わず、力任せに茎から引きちぎられたのだろう。まだ開ききっていなかった三つのつぼみは、彼女の細い指の間で押し潰され、白い花弁が何枚か、土の上にぽとりと落ちていた。
息が止まるかと思った。
「お姉様とお近づきになりたくて、花冠を作ろうと思ったんです。あの、お姉様にも、ひとつあげますね!」
リリィはにこにこと笑いながら、茎の折れた白薔薇を私の目の前に突き出した。彼女の白い指先には、薔薇の棘でついたのか、血が滲んでいる。
「リリィ」
声が、低く震えた。頭の中で何かが冷たく張り詰めていくのがわかる。
「ここには、勝手に入らないようにと執事から言われていなかったかしら」
「え? あ、あの、窓から見えたら、あまりにも綺麗でしたから」
「この薔薇はね、亡くなったお母様が遺してくださった、世界に一つだけの株なのよ。何年もかけて、ようやく今年、初めて咲くはずだったの」
怒鳴ったつもりはなかった。ただ事実を淡々と告げただけだ。
けれど、私と目が合った瞬間、リリィの顔からみるみるうちに血の気が引いていった。
「ご、ごめんなさい! 私、そんなこととは知らなくてっ」
大きな翠の瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。
彼女は傷ついた指先を胸に抱き、私が理不尽な暴力を振るったかのように、華奢な肩をガタガタと震わせてしゃがみ込んでしまった。
「どうした! 何事だ!」
温室の外まで聞こえた泣き声に、父が血相を変えて温室に飛び込んできた。
父の視線が、床にしゃがみ込んで泣きじゃくるリリィと、その前に冷然と立ち尽くす私、そして床に散らばった白い花弁を順番に捉える。
「リリィ! 大丈夫か!? 血が出ているじゃないか!」
父は私を突き飛ばさんばかりの勢いで駆け寄り、リリィの肩を抱き寄せた。そして、心底軽蔑したような目で私を睨みつけたのだ。
「ヴィオラ、お前という娘は! たかが花を摘んだくらいで、今日来たばかりの妹をここまで追い詰めるとは、なんという狭量さだ!」
「お父様。これは、お母様の薔薇です」
「花など、また植えればいいだろう! リリィはお前を喜ばせようとして、指に怪我までしたのだぞ。お前は母親に似て、昔から本当に可愛げがない。姉なのだから、少しは寛大であれ!」
父の胸で泣きじゃくるリリィが、涙に濡れた瞳でちらりと私を見た。
私と目が合うと、リリィは父の上着に顔を埋めた。何を怖がっているのか、聞くことさえできなかった。
ああ、そういうことか。
母の名を出しても、父はちぎれた枝に目を向けなかった。
まだ父にわかってもらおうとしていた自分が、急に恥ずかしくなった。
私はゆっくりとしゃがみ込み、土の上に落ちた白い花弁を、汚れた指先でそっと拾い上げた。
誰も私の言葉など聞いていない。私が何を大切にしていたのかも、どれだけ傷ついたのかも、この愛らしい妹の涙の前では、すべて取るに足らないガラクタになってしまうのだ。
「申し訳ございませんでした、お父様。私の配慮が足りませんでしたわ」
立ち上がり、私は父に叱られないように微笑んで頭を下げた。
父は「わかればいい」と吐き捨て、まだ震えているリリィを優しく抱きかかえて温室を出ていく。
誰もいなくなった静かな温室に、私だけが取り残された。
手のひらに乗せた白い花弁には、指で押し潰された跡が残っている。
無邪気で、純粋で、誰からも愛されるヒロイン。
そして、そんな彼女を冷たい目で睨みつける、高慢で血の通わない公爵令嬢。
ああ、これはたぶん、私が悪役令嬢になる前日譚なのだ。
拾った花弁を捨てられず、私は水差しの横に並べた。
明日のお茶会に持っていける花は、もう一輪もなかった。




