第9話「兄として、社会人の先輩として」
天幕の中の時間は、布一枚の向こうの祝祭から切り離されていた。
落ちた扇を、リーゼは拾わなかった。拾う余裕が、なかったのだと思う。
「……全部、知ってる? 筋書きも、結末も? ……嘘よ。だってお兄様は、この世界の人で」
「リーゼ。時間がない。手短に行くぞ」
俺は懐の包みを軽く叩いて、声を落とした。
「一つ。俺にも前世の記憶がある。日本で、四十まで会社勤めをして死んだ。二つ。この世界がお前たちの言う『ゲーム』の世界だということも、グランベル家が終盤で連座処刑になる筋書きだということも、把握してる。三つ。侯爵家の夜会の眠り草をすり替えたのは俺だ。ついでに言うと、お前の化粧箱の分もだ。あれはとっくに、ただの香草汁だ」
二人が、同時に息を呑んだ。ミアの膝が、かくんと落ちた。天幕の隅の菓子箱に手をついて、ようやく立っている。
「う、そ……じゃあ、私たちが必死で集めた、あれも、これも、全部……最初から、兄様の掌の上……?」
「人聞きが悪い。掌の上じゃなくて、保険の中と言え。……で、だ」
俺は二人の顔を順に見た。化粧の下で、二人とも、ひどい顔色をしていた。何日もまともに寝ていない顔だ。宿に籠って、毒と偽証の計画を詰めていた十代の姉妹。その滑稽さと痛々しさに、怒鳴る気は、とうに失せていた。
「説教の前に、一つだけ確認させてくれ。……お前たち、怖かったんだろ」
リーゼの肩が、震えた。
「なにを、いまさら……」
「いつ思い出した。前世と、筋書き」
「……三年前よ。ミアと、ほとんど同じ時期に。最初は、楽しかったわ。大好きだったゲームの世界に生まれてるんだもの。景色も、王都も、学園も、全部知ってる場所で……」
リーゼの声が、そこで初めて、年相応に崩れた。
「……でも、家名を思い出したの。グランベル。悪役の家。私とミアの名前が、そのまんま、あの『処刑される姉妹』の名前だった。ねえ、お兄様、分かる? 攻略本の最後の頁に、自分の死に方が書いてあるのよ。日付も、罪状も、さらし首の場所まで。それを知って三年間、普通の顔で朝ごはんを食べる気持ちが、分かる?」
「……分からん。想像しか、できん」
「でしょうね!」
悲鳴のような声だった。
「お父様は借金を増やすし、お母様はあの通りだし、お兄様は……ゲームに出てもこない、ただの長男で! 誰も知らないのよ、この家が沈むって、私たちだけが知ってるのよ! だから私たちがやるしかなかった。筋書きが始まる前に、筋書きを壊すしか……!」
「その結果が、毒と冤罪と偽証か」
「他に何があるのよ!? 力もない、お金もない、後ろ盾もない伯爵家の小娘に、何が……!」
「あるだろ」
俺は、静かに遮った。
「うちには、店がある」
リーゼが、虚を突かれた顔をした。
「……店? 店って、あの、飯屋が何だって言うの。こんなときに」
「こんなときだから言ってる。リーゼ、ミア。お前たちの攻略本に、あの店は載ってたか?」
二人は、顔を見合わせた。答えたのは、ミアだった。
「……載って、ません。グランベル家は、ゲームだとずっと貧乏なままで……こんな、園遊会に料理を出すなんてこと、一度も」
「そうだ。じゃあ聞くが、載ってない店が、なんで王城の庭で鍋の湯気を上げてる? 筋書きに縛られたこの世界で、なんで筋書きにない行列ができてる?」
「それ、は……」
「俺とセラが、働いたからだ。魔法もチートも使ってない。仕入れて、煮込んで、値段を付けて、頭を下げて、一皿ずつ売った。それだけで、筋書きにないものが、この世界に一つ増えた。――つまりだ」
俺は、天幕の布越しに透ける、庭園の光を指差した。
「お前たちの攻略本は、もう古いんだ。第何版か知らんが、改訂前の版だ。この世界は、とっくに攻略本の外で動いてる。処刑エンドの前提は『何もしない没落貴族のグランベル家』だろう。その前提は、もう崩れてる。……なあ、前世で会社勤めの経験は?」
「な、ないわよ。私、学生のうちに……その、死んだから」
「私もです……」
「そうか。なら、社会人の先輩として一つだけ教えといてやる。――未来予測ってのはな、前提が変わった瞬間、ただの紙屑になるんだ。俺は前世で、盤石と言われた計画が現場のたった一つの変数でひっくり返るのを、何十回も見てきた。お前たちが握りしめてるその筋書きは、予言なんかじゃない。ただの、条件付きの予測だ。条件のほうを変えろ。毒でじゃない。仕事でだ」
天幕の中が、静かになった。
ミアが、掠れた声で言った。
「……変えられるんですか。本当に。私たちの結末も」
「変えられる、と断言はしない。俺は詐欺師じゃないからな。だが、こう言うことはできる。――処刑される悪役姉妹ってのは、毒を盛って、罪を着せて、偽証した姉妹のことだ。それをやらなきゃ、少なくとも『その罪状での処刑』は成立しない。当たり前の話だろ? 破滅イベントってのは、天から降ってくるんじゃない。手前の犯行の、請求書なんだよ」
リーゼが、ゆっくりと、その場にしゃがみ込んだ。ドレスが汚れるのも構わず、両手で顔を覆って。
「……じゃあ、私たちがやってきたことは、なに……? 破滅から逃げてたつもりで、破滅に向かって、全力で走ってたってこと……?」
「ああ。だから兄として、全力で足を引っ張らせてもらった。……間に合って、よかった」
俺は膝を折って、妹と目の高さを合わせた。
「リーゼ。ミア。お前たちは三年間、たった二人で、死の予告と戦ってきた。その胆力は本物だ。段取りも、諜報も、素人にしては大したもんだった。……もったいないんだよ。その頭と度胸を、まっとうな仕事に使え。店に来い。人手が足りてない。給金も出す」
「「…………は?」」
姉妹の声が、綺麗に揃った。泣き腫らした目が、二対、ぽかんと俺を見ていた。
「い、いきなり何を言い出すの、お兄様……。私たちを、あの店で、働かせる……?」
「嫌か? 言っとくが結構きついぞ、うちの昼の回転は」
「そうじゃなくて……! 毒を盛ろうとした妹を、雇うって言ってるのよ、あなた……!」
「盛ろうとして、盛れなかった妹をな。未遂で、被害なしで、証拠は俺の懐の中だ。……なあ、リーゼ。処罰が欲しいなら、くれてやる。刑罰は労働だ。グランベル家再建事業への、無期限の従事。初日は皿洗いからだ」
リーゼは、俺を見た。長い、長い沈黙だった。やがてその目から、化粧を崩しながら、涙がぼろぼろと落ちた。三年分、というのは、たぶんこういう泣き方のことを言う。
「……っ、ばか。ばかよ、お兄様……。筋書きにいない人が、なんで、一番……」
最後まで、言葉にならなかった。隣でミアも、袖で顔を押さえていた。
俺は二人が泣き止むまで待ってから、立ち上がって、埃を払った。
「よし。交渉成立だな。なら最後の仕事だ。――母上の回収に行くぞ。あの人、放っておくとそのへんの夫人に『例の計画』を世間話で喋りかねん」
「「……行きます(行くわ)」」
姉妹の返事は、涙声のくせに、妙にしっかりしていた。
◆
母の回収は、間一髪だった。本当に喋りかけていた。相手が耳の遠い老侯爵夫人だったのは、グランベル家に残っていた最後の運だったと思う。
帰りの馬車の中で、母は不満げだった。
「あらあ、もう帰るの? 王子様は? 玉の輿の件はどうなったの?」
「中止です。方針転換しました。今後、当家は玉の輿ではなく、飲食業で立て直します。リーゼとミアも、店で働くことになりました」
「まあまあまあ! 家族のお店! 素敵じゃない!」
母は三秒で乗り換えた。毒の計画の記憶ごと、どこかに置いてきたような顔だった。この切り替えの早さは、もはや才能だ。……この人には後日、セバスと共同で、伝手の総点検という名の事情聴取を実施することになるが、それはまた別の話だ。
向かいの席では、リーゼとミアが、泣き疲れて眠っていた。二人の頭が、揺れるたびにぶつかり合っている。攻略本の最後の頁と戦い続けた三年間が、ようやく終わった寝顔だった。
――こうして、グランベル伯爵家を巡る打ち首獄門ルートは、園遊会の天幕の中で、静かに閉じた。
◆
数日後。店に、新しい前掛けが二枚増えた。
「お、皿が空いたわ。下げて……じゃない、お下げしますわ!」
「リーゼ姉様、声が大きい。あと敬語が変」
初日の姉妹は、見事なまでの戦力外だった。皿は割る、注文は間違える、客の商人に令嬢の作法で挨拶して笑われる。それでも夕方には、二人とも意地になって水場に張り付いていた。負けず嫌いは、いい従業員の素質だ。
「……賑やかになりましたね、アルさん」
「ああ。人件費も増えたけどな」
「ふふ。でも、帳簿の数字より、いい買い物だと思います」
「言えてる」
閉店後。姉妹と母が先に屋敷へ帰り、店には俺とセラだけが残った。いつもの、帳簿を挟む席。だが今夜は、セラは帳簿を開かなかった。
代わりに、前掛けを外して、居住まいを正した。
「先輩。……お話が、あります」
灯りが一つだけの店で、その言葉が、妙に大きく響いた。
約束の、続きだった。家が片付いたら――と、お預けにした、あの。
「……ああ」
俺も、帳簿を閉じた。




