第10話「再建完了、家も恋も」(最終話)
「先輩。……お話が、あります」
灯り一つの店で、セラは背筋を伸ばして座っていた。前掛けを外し、髪を整え直して。厨房に立つ料理長の顔でも、帳簿を挟む共同経営者の顔でもなかった。
「……ああ。聞く」
俺も帳簿を閉じて、向き直った。心臓が、四十と十六を足した年数分、うるさかった。
「順番に、言わせてください。ええと……まず、前世の話です」
セラは膝の上で、指を組んだ。
「私、先輩の隣の席に異動になったの、入社二年目の春でした。最初は、怖い人だと思ってたんです。電話で取引先を三回論破して、灰皿……じゃなくて、書類の山を三つ抱えて、お昼はいつも菓子パン一個の人。この人の隣、私、無理かもって」
「……初耳の評価が続くな」
「最後まで聞いてください。……でも、配属で私が最初の大失敗をしたとき。取引先の納品数、一桁間違えて発注したとき。先輩、何も言わずに、次の日の朝までかかって、一緒に頭を下げて回ってくれました。帰り道に言ったんです、先輩。『失敗は減点じゃない、授業料だ。払った分は取り返せ』って。……私、あの帰り道から、ずっと」
セラの声が、少しだけ震えた。
「ずっと、先輩のことが、好きでした。お弁当は……あれ、本当は毎朝、先輩の分も作りたくて。でも渡す勇気がなくて、自分の分だけ持ってきて、隣で食べて、気づいてくれないかなって。三年間、ずっとそんなことをしてました。我ながら、遠回りにもほどがあると思います」
「……三年、隣で気づかなかった俺が言えた義理じゃないが……ほどがあるな」
「ふふ。……それで、その。ここからが、本題です」
セラは息を吸って、まっすぐに俺を見た。あの路地で、パンを半分こに差し出してきたときと、同じ目だった。
「今の私は、セラです。前世の私と、同じ人間かどうかも、本当は分かりません。でも、この世界でもう一度、先輩に……アルさんに会って、一緒にお店を作って、一緒に家を守って。それで、はっきり分かりました。前世の分も、今世の分も、まとめて言います。――好きです。私と、その、け……」
「結婚してくれ」
「…………はい?」
「あ、いや、すまん。先を越された上に食い気味になった。……もとい」
俺は座り直して、今度こそ、ちゃんと言った。
「セラ。俺も前世から、君が好きだった。弁当に気づいた日からじゃない。たぶん、隣の席で君が電卓を叩く音を聞いてた頃からだ。今世では、路地で君がパンを半分こしてくれた夜からだ。……結婚を前提に、俺と付き合ってほしい。いや、違うな。付き合うのはもう十分やった気がする。半年間、毎晩この席で」
「……ふふ。確かに、軍議という名の逢瀬でした」
「だから、結婚してくれ。俺の家は借金持ちの伯爵家で、当主は飯屋の親父だが」
セラの目から、涙がこぼれた。彼女は笑いながら泣いて、泣きながら頷いた。
「はい。……はいっ。喜んで」
こうして、俺の四十三年越し(通算)の片思いは、王都の外れの小さなレストランで、ようやく成就した。
――なお、翌朝。この報告を受けた家族の反応は三者三様だった。母は「まあまあまあ!」と三回転して喜び、ミアは「知ってました」と皿を拭き、リーゼは「……義姉様になるの? 私の?」と、しばらく敬称の計算が合わずに固まっていた。
◆
一つだけ、片付けるべき手続きがあった。セラの籍だ。
養女のままでは、兄妹婚になってしまう。もっとも、この世界の法は、その辺りの実情をよく分かっていた。
「養子縁組の解消と、婚約の公示。書類はこの二枚にございます。……先代の頃より、商家の養女を後に正室に迎えた例は、王国貴族に十七家ございます。何の問題もございません」
セバスは、書類を差し出しながら、めずらしく目元を緩めた。
「旦那様と奥様が、この日を見ておられたら、と存じます。……いえ。奥様は現にご覧になっていて、先ほどから廊下で聞き耳を立てておいでですが」
「「まあ!」」
廊下から母の声がして、俺とセラは吹き出した。
◆
季節が、二つ巡った。
グランベル家の帳簿の話をしよう。当主として、数字で締めるのが礼儀だ。
店は、二号店を出した。一号店は「グランベルの煮込み」の名で貴族街まで鳴り響き、園遊会以降は他家の夜会の仕出しが月に四件。二号店は市場のそばで、庶民向けの定食を回している。こちらの店長は、驚くなかれ、リーゼだ。
「三番卓、定食二つ! ミア、すね肉あと何食!?」
「十二! 姉様、声で客を呼ぶの、板についてきましたね」
皿を割っていた令嬢たちは、半年で店を回す側になった。リーゼの仕切りは、あの「段取りの才」が真っ当に化けたものだ。ミアは仕入れと帳簿を覚え、近頃は俺の原価計算に駄目出しをしてくる。攻略本の最後の頁に怯えていた姉妹は、もういない。今のあいつらの手帳には、死の日付の代わりに、仕入れの予定が書いてある。
借金は――完済まで、あと金貨二千枚。
一万五千あった山が、二年足らずでここまで削れた。前倒しで返すたび、バルツ金融の親父が「もう少しゆっくり借りててくれ」と本気で嘆くのが、最近の楽しみだ。完済の日付は、もう帳簿の上に見えている。予測じゃない。積み上げた数字の、ただの延長線だ。
母は相変わらずだった。相変わらず頭の中は春で、相変わらず真珠を欲しがり、ただし最近は「お店の売上から、ボーナスが出たらね」と自分で言うようになった。学習である。セバスの「伝手の総点検」も無事に終わり、眠り草の出所だった伝手は、丁重に、二度と繋がらない形で処分された。
筋書きのほうは、どうなったか。
セラの攻略本によれば、学園では予定通り「聖女の令嬢」と王子たちの恋物語が進んでいるらしい。だが、そこに悪役姉妹は登場しない。二人は放課後、恋の駆け引きより回転率と格闘しているからだ。グランベル家は物語の主役の座を、静かに降りた。代わりに手に入れたのは、物語に書かれていない、ただの忙しくて旨い日常だ。
悪くない交換だったと思う。
◆
そして、今日。
夜明け前の一号店。俺とセラは、いつものように並んで仕込みをしていた。婚約者になっても、この時間は変わらない。竈に火が入り、すね肉と香味野菜が鍋に沈み、店に一日目の湯気が立つ。
「アルさん、味見です。はい、口開けてください」
「ん。……よし、今日も看板の味だ」
「ふふ。合格をいただきました」
セラの左手の薬指で、つつましい銀の指輪が、竈の火を映して光った。宝石はまだ載っていない。「完済したら、石を入れよう」というのが、俺たちの決めた段取りだ。婚礼はその翌月。式は挙げず、店で宴会をやる。招待客は常連と、マルコと、薬種問屋の親父と、大家の爺さん。あの雨の初日に並んでくれた、傘の列の面々だ。
「……なあ、セラ」
「はい?」
「前世の俺は、走馬灯の最後に企画書を見て死んだ。仕事しかない人生の、我ながらひどい終わり方だ。……で、最近考えるんだ。今度の走馬灯は、何が映るのかって」
「……何が映りそうですか?」
「この竈の火と、帳簿と、皿を割る妹たちと……たぶん、ほとんど君だな」
「っ……あ、あのですね、先輩。そういうことを仕込みの最中に真顔で言うの、心臓に悪いので、本当にやめてくださいと、入社二年目から思ってました」
「善処する。……あ、いや、しないかもしれん。今世の俺は、言えることは言うと決めてるんでな」
セラは真っ赤な顔で、俺の肩に、こつんと額を当てた。竈の前は、暖かかった。
――転生したら、借金まみれの伯爵家長男だった。
チートはなかった。魔法もなかった。あったのは、前世で払った授業料と、路地で半分こにした黒パンと、隣に立ってくれる人だけだった。それだけあれば、家は建て直せた。恋も、四十三年かけて、取り返した。
表の通りで、開店を待つ客の話し声がする。俺は前掛けの紐を締め直し、セラと顔を見合わせて、頷き合った。
「よし――今日も、開店だ」
扉を開けると、朝の光が、店いっぱいに差し込んだ。




