第7話「お弁当の卵焼きは、あの日の味」
侯爵家の夜会の顛末を、帳簿ふうに整理するとこうなる。
支出、ドレス二着と料理の原価。収入、店の評判が貴族街まで届いたこと、大口の仕出しの引き合い三件。特別損益、毒殺未遂の不発、一件。
あの夜、リーゼとミアは、確かに動いた。東屋の茶会が始まる直前、ミアが人垣に紛れてクラリス嬢の茶器に近づいた。だが給仕の動線は、俺とセラで塞いであった。ミアが伸ばしかけた手の先で、セラがにこやかに茶器を回収し、「新しいものをお持ちしますね」と微笑んだ。それで終わりだ。二の手はなかった。衆目の中の「グランベル家の令嬢」に、二度目の不審な動きは許されていなかった。
仮に盛れていたとしても、中身はすり替えた香草汁だ。保険は三重。何も、起こらなかった。
誰の記憶にも、誰の記録にも残らない勝利。乾杯する相手はセラしかいなくて、俺たちは閉店後の店で、果実水で祝杯を上げた。
ただ――一割、読み違えた。
妹たちは、失敗の原因を「偶然」と思ってくれなかった。あの夜以来、リーゼの俺を見る目に、はっきりと探る色が混ざった。馬車で聞いた「お兄様、邪魔なのよね」という呟き。あれは癇癪じゃなく、仮説だったのだ。――お兄様は、何か知っているのではないか、という。
嫌な均衡だった。俺は妹たちの正体を知っていて、妹たちは俺を疑い始めている。互いに札を伏せたまま、同じ屋敷で朝食を食う。胃に悪いことこの上ない。
「……とはいえ、だ」
次の筋書きのイベントまで、セラの記憶によればひと月の間がある。妹たちも、警戒している間は動けない。つまり、束の間の平時だ。平時にやるべきことは決まっている。商売と、学業と、飯だ。
◆
その平時に、事件は起きた。事件、と呼ぶには静かすぎる事件が。
発端は、学園の昼飯だった。店が忙しくなってから、俺の昼は購買の硬いパンで済ませることが多くなっていた。それをセラに知られた。
「……アルさん。昼食、パン一つって本当ですか」
「マルコか。あいつ、口が軽いな」
「倒れたら元も子もないって、開店前に言いましたよね。私、言いましたよね?」
「言われた。……悪かった。明日から購買でスープも付ける」
「結構です。明日から、私がお弁当を作ります」
「は? いや、朝の仕込みだけで手一杯だろう、君は」
「仕込みのついでです。文句は受け付けません。これは──その、義妹の、権利です」
権利。義務ではなく。妙な言い回しをするやつだ、と思いながら、俺はその「権利」を受け入れた。正直に言えば、嬉しさが勝った。
翌日の昼。学園の中庭の隅で、俺は包みを開いた。
木の弁当箱。この世界では携行食といえば革袋にパンと相場が決まっているから、箱の時点でもう異国風だ。蓋を取る。
――時間が、止まった。
白い麦飯の上に、黒ごまに似た香草の実が、ぱらり。右上に、俵形にまとめた揚げ物がふたつ。青菜の和え物が仕切りの向こうに詰められ、赤い酢漬けの根菜が彩りに差してある。そして中央に、少し焦げ目のついた、厚焼きの――卵焼き。
配置。彩り。詰め方の癖。俵の数まで。
見たことがある、どころではなかった。俺はこの弁当を、前世で三年間、週に五回、隣の席で見続けていた。
「…………」
手が動かなかった。中庭の喧騒が遠くなった。
まさか、という単語が、頭の中で三回転した。まさか。まさか。まさか。いや、待て。落ち着け。弁当の詰め方など、日本人なら誰でも似る。転生者なら和風の弁当を作る。卵焼きくらい誰でも入れる。論理的には、何の証明にもならない。
証明にはならないが――俺は、知っていた。あいつの卵焼きは、砂糖が多めで、少し焦がすのだ。「祖母の代からうちはこうなんです」と笑って、「先輩、甘い卵焼きは邪道とか言ったら口きかないですからね」と釘を刺してきた、あの。
俺は震える箸で、卵焼きを一切れ、口に入れた。
甘かった。ほんのり、焦げていた。
◆
その日の営業を、どう回したのか、よく覚えていない。皿を二枚下げ間違えて、セラに「アルさん、今日変です」と眉をひそめられた。変にもなる。
閉店後。灯りを一つ残した店で、俺は空になった弁当箱を、卓の上に置いた。
「――ごちそうさま。旨かった」
「ふふ。お粗末さまです。明日は何がいいですか」
「その前に、聞きたいことがある」
俺は弁当箱の蓋を、指で軽く叩いた。
「この卵焼き。砂糖、多めだったな」
「はい。私、卵焼きは甘い派なので」
「少し、焦がしてあった」
「そこが香ばしくて美味しいんです。……あれ、お口に合いませんでした?」
「いや。……三年間、ずっと食いたかった味だ」
セラの手が、止まった。
店の中が、静かになった。窓の外を、夜番の拍子木の音が通り過ぎていった。セラはゆっくりと顔を上げて、俺を見た。その目が、揺れていた。
「…………三年間、って」
「前世の話だ。俺の隣の席に、毎日弁当を持ってくる後輩がいた。彩りがよくて、詰め方が几帳面で、卵焼きが甘くて、少し焦げてる弁当だ。……一口くれ、と三年間言えなかった。言う前に、死んだ」
「……………………」
「セラ。もう一つだけ確認させてくれ。君の前世の会社、営業部か」
セラの目から、ぽろ、と涙が落ちた。一粒落ちたら、あとは止まらなかった。彼女は両手で口を覆って、何度も、何度も頷いた。
「……っ、営業二課です……。窓際から二番目の島の、奥から二つ目の席……。隣の席は、係長で……仕事が早くて、無茶な案件ばかり拾ってきて、いつも、コンビニのパンばっかり食べてる……」
「……その係長は、後輩の弁当がいつも旨そうで、羨ましかったそうだ」
「言ってくださいよ……! 一口どころか、毎日作りました、言ってくれたら……!」
「言えるか。セクハラで人事に飛ばされる時代だったろうが」
「そういうところですよ、先輩……!」
先輩。
十六年ぶりに聞いた呼び方だった。俺は椅子の背もたれに身体を預けて、天井を仰いだ。笑いが、腹の底から込み上げてきた。泣いているセラの前で笑うのは不謹慎だと分かっていたが、止まらなかった。
「はは……ははは。なんだよ、それ。異世界まで来て、隣の席かよ、俺たち」
「ふ……ふふっ。しかも今度は、家まで一緒です……」
セラは涙を拭いて、笑った。あの路地で見た笑顔と、会社の給湯室で見た笑顔が、初めて一つに重なった。俺は最初から、知っている顔に飯を食わせていたのだ。気づきもしないで。
「……いつから、気づいてた」
「確信したのは、今です。でも、変だなって思ったのは……最初の夜、パンを半分こしたときから。営業の人って、値付けの話をするときに、指でこう、机を叩く癖の人が多くて。アルさんの叩き方が、先輩とまったく同じで」
「癖まで転生するのか。……俺は弁当で確信した。お互い、決め手が食い物ってのが、俺たちらしいな」
「ですね。……ふふ」
沈黙が下りた。今度の沈黙は、気まずくなかった。ただ、その静けさの中で、言うべきかどうか、迷っている言葉が俺にはあった。三年間言えなかった言葉の、続きだ。
――好きだった。たぶん、今も。
口を開きかけた、そのときだった。セラが先に、静かに言った。
「先輩。……あの、私も、言おうか迷ってることが、あります。でも」
「でも?」
「今は、やめておきます。……お嬢様がたのことが、片付いてから。家が、ちゃんと助かってから。そうじゃないと、その……順番が、違う気がするので」
セラの頬は赤かったが、その目は、あの軍議の夜と同じ、覚悟の決まった目だった。俺は開きかけた口を閉じて、頷いた。同じ結論だった。この家は、まだ崖っぷちに立っている。浮かれた当主に、崖は渡れない。
「……分かった。なら、俺も今は言わない。その代わり、約束だ。全部片付いたら――聞きたいことと、言いたいことが、俺にはある」
「……はい。私にも、あります」
俺たちは、果実水の杯を軽く合わせた。乾杯の名目は、「再会に」。
◆
その帰り道の、屋敷の門をくぐった瞬間だった。
屋敷の窓という窓に、灯りがついていた。玄関の前で使用人が右往左往し、セバスが青い顔で駆け寄ってくる。
「アルフレッド様……! お嬢様がたが、お嬢様がたのお部屋が、もぬけの殻でございます。書き置きが一枚……それに、奥様のお姿も、どこにも」
差し出された書き置きには、リーゼの筆跡で、一行だけ。
『お兄様が守ってくださらないなら、私たちで家を守ります』
――嫌な予感は、最悪の形で当たった。妹たちは、警戒して動きを止めていたんじゃない。俺の目の届かない場所で、次の、もっと大きな一手の準備を終えていたのだ。それも今度は、母を連れて。
「セバス、馬車を。……セラ、悪い。祝杯は預けだ」
「はい……!」
束の間の平時は、終わった。




