第5話「この世界、ゲームだったのか」
薬瓶の中身は、三日で割れた。
伝手を使ったのだ。店の常連に、市場裏で薬種問屋を営む親父がいる。毎晩、夜の部の煮込みを二人前平らげていく上客だ。俺は瓶の中身を数滴、布に染ませたものを持ち込んで、「領地の井戸に妙なものが混ざってないか調べたい」と、下手な嘘をついた。
「……坊主。嘘が下手すぎる」
「すみません」
「詮索はせん。上客だからな」
親父は布を検分し、匂いを嗅ぎ、灰の上で燃やして、渋い顔をした。
「眠り草の抽出液だ。それも、かなり濃い。匙一杯で大人が半日眠る。……三杯なら、目を覚まさんこともある」
「……解毒は」
「早けりゃ効く薬はある。遅けりゃない。坊主、これをどこで」
「拾いました」
「……次からは、拾うな」
店に戻る道すがら、俺は選択肢を数えた。
一つ、妹たちを問い詰める。却下だ。証拠はあの瓶ひとつで、あれも「拾った」「知らない」と言われれば終わる。警戒させて地下に潜られるのが最悪だ。
二つ、母に相談する。論外。三秒で妹たちに漏れる。
三つ、泳がせて調べる。妥当だ。だが俺には決定的に足りないものがある。情報だ。妹たちの言う「筋書き」「聖女」「あの結末」。あの単語の意味が分からない限り、俺は連中の地図を持たずに追いかけることになる。
――そして四つ目の選択肢が、向こうから歩いてきた。
◆
「アルさん。今夜、閉店後に、お時間をいただけませんか」
その日の昼、皿を拭きながら、セラが言った。声はいつも通りだった。目だけが、いつも通りじゃなかった。
「……いいけど。改まってなんだ」
「大事な話です。たぶん、アルさんが今、一番困っていることの話です」
俺が今、一番困っていること。返済でも仕入れでもなく――妹たちのこと。俺はまだ、セラに何も話していないのに。
閉店後の店。灯りを一つだけ残して、俺たちはいつも帳簿を挟む席に、帳簿なしで向かい合った。セラは膝の上で拳を握って、しばらく黙っていた。やがて、顔を上げた。
「先に、約束してください。これから話すことを聞いても……私を、気味悪がらないって」
「内容によるな、とは言わない。約束する」
「……即答なんですね」
「君が半月、俺の家族に旨い飯を食わせてくれた実績のほうが重い」
セラは泣き笑いみたいな顔をして、一度深く息を吸った。そして、言った。
「この世界は、ゲームなんです」
「…………ゲーム?」
「私には、前世の記憶があります。ここじゃない世界で、大人になって、死んだ記憶です。……アルさん、まずそこから、信じられますか」
心臓が、一度大きく跳ねた。
前世の記憶。こいつの口から、その単語が出た。手を合わせる食前の仕草。雑炊。肉じゃが。「試してみたい」煮込み。ずっと積み上がっていた状況証拠の山に、本人の自白が乗った。
「――信じる。続けてくれ」
「……疑わないんですか。普通、ここで一番揉めるんですけど」
「話が長くなるから先に進めてくれ。な?」
俺の返しに、セラは目を丸くして、それから覚悟を決めたように続けた。
「前世で私、『恋する王宮のシンフォニア』っていう……ええと、遊戯です。物語を読みながら、主人公の女の子の恋のお相手を選ぶ遊戯があって。私、それを何周もやり込んでたんです」
「恋の相手を選ぶ遊戯……」
「その舞台が、この国なんです。王都の名前も、学園も、王子様の名前も、全部一致します。今年、学園に『聖女の力に目覚める男爵令嬢』が入学して、王子たちと恋をする。それがその物語の筋書きです。……ここは、私が遊んだ物語の中の世界なんです」
俺は、すぐには声が出なかった。
世界が、ゲーム。荒唐無稽にもほどがある。だが――嵌まるのだ。それを認めた瞬間、バラバラだった破片が、全部同じ絵に嵌まる。
妹たちの「筋書き」。「聖女の噂」。「次に何が起こるか全部知ってる」。あれは予知でも妄想でもない。攻略本だ。連中は、この世界の攻略本を読んだことがあるんだ。
「……セラ。確認だ。その『シンフォニア』とやらに、グランベル伯爵家は出てくるのか」
セラの顔が、そこで初めて歪んだ。
「……出てきます。リーゼ様とミア様が。主人公の恋路を妨害する、意地悪な伯爵家の姉妹――『悪役』として。そして物語の終盤で、二人の悪事が暴かれて」
「暴かれて?」
「……一家全員、連座で処刑。グランベル家は、取り潰しです」
沈黙が、店に落ちた。
処刑。取り潰し。薬種問屋の親父の声が耳の奥で蘇る。三杯なら、目を覚まさんこともある。書庫の薬草図鑑。昏睡に至る、の一文。
「……妹たちも、その筋書きを知ってる。そう考えていいんだな」
「はい。お二人の最近の動き、筋書きを知らないと説明がつきません。おそらくお二人も、私と同じ……転生者です。それで、破滅の結末を変えようとして」
「変えようとして、先に王子に取り入る。邪魔者は眠り草で排除する。……本末転倒だ。破滅を避けるための工作が、露見すりゃそのまま処刑台行きじゃないか」
「怖いんだと思います。……結末を知ってるって、そういうことなんです。私も、この家に来てからずっと、怖かった」
セラはうつむいて、膝の上の拳を握り直した。
「アルさんに拾ってもらった家が、処刑エンドに向かってる家だなんて。言えば気味悪がられる。黙っていれば、皆さんが破滅する。ずっと、どうしようって……。でも、お嬢様がたが動き出してるなら、もう黙ってる場合じゃないって」
「――それで、一人で抱えて、今夜切り出したわけだ」
俺は椅子の背にもたれて、天井を見た。言うなら、今だ。こいつは一人で秘密を差し出した。俺だけ隠したままで、対等な共犯になれるわけがない。
「セラ。俺も言うことがある。……俺にも、前世の記憶がある」
「…………え」
「日本だ。四十のサラリーマンだった。タクシーの事故で死んだ」
セラが、固まった。皿でも落としたような顔で、口を開けて、閉じて、また開けた。
「に、日本……サラリーマン……えっ、アルさん、日本人!? ……あ、あの、どちらの、会社」
「そこまで言う必要あるか?」
「な、ないです、ないですけど……!」
セラは両手で顔を覆って、指の間からくぐもった声を出した。「どうりで」とか「原価とか言うと思った」とか聞こえる。まあ、俺も人のことは言えない。雑炊に気づかないふりをしていた側だ。
「よし、整理するぞ」
俺は帳面を引き寄せ、白紙の頁を開いた。こういうときは書くに限る。
「一つ。この世界は、君のやり込んだ恋愛遊戯の世界。筋書きが存在する。二つ。放っておくと、うちは終盤で連座処刑。三つ。リーゼとミアも筋書きを知っていて、破滅回避のために先回り工作を始めている。四つ。その工作自体が、露見一発で処刑を早める火種になってる。……合ってるか」
「合ってます。……アルさん、これを聞いて、その、絶望とかは」
「してる場合か。危機管理は前世の本業だ。それにな」
俺はペンの尻で、帳面を叩いた。
「筋書きじゃ、うちは没落貴族のままなんだろ? その筋書きに、この店は載ってたか?」
セラが、はっとした顔をした。
「……載ってません。ゲームのグランベル家に、レストランなんてありませんでした。それに、私みたいな養女も」
「だろうな。つまり筋書きは、もう書き換わり始めてる。俺と君が、半月で書き換えたんだ。――なら、残りも書き換えられる」
結末は知識だ。知識は前提が変われば古くなる。前世で何度も見た。盤石の予測が、現場のたった一つの変数で崩れるのを。
「セラ。改めて頼む。君の攻略本の知識、全部貸してくれ。筋書きのイベント、日付、場所、人物。俺が段取りを組む。妹たちの工作を、誰にも知られずに全部潰す」
「……はい。はいっ」
セラは何度も頷いた。目の縁が赤かったが、声はもう震えていなかった。
◆
軍議は明け方近くまで続いた。
セラの記憶から、直近の「イベント」を洗い出す。最重要は一月後――王家主催の園遊会の前哨戦となる、侯爵家の夜会だ。筋書きでは、そこで主人公の令嬢と第二王子が出会う。そして妹たちの部屋から聞こえた単語も、「夜会」だった。
「妹たちが仕掛けるなら、そこが最初だ。標的は?」
「筋書き通りなら……第二王子の婚約者候補の、公爵令嬢です。主人公と王子の間に立ちはだかる方なので、お嬢様がたが『先回りして排除』を考えるなら、まず」
「眠り草で、夜会の席で醜態を晒させる、あたりか。……分かった。打ち手を考える」
帳面を閉じて顔を上げると、窓の外が白み始めていた。セラが、ふわ、と小さくあくびを噛み殺した。
「……悪い。付き合わせた」
「いえ。……なんだか、久しぶりです。誰かと夜中まで、ああでもないこうでもないって。前世の、仕事みたいで」
「言えてる。締め切り前の会議室の空気だ、これ」
「ふふ。……でも」
セラは灯りを消しながら、こちらを見ずに、小さく言った。
「今の会議のほうが、ずっと楽しいです。……それにその、今夜は本当に、嬉しかったんです。一番怖い秘密を話しても、アルさんが、いつも通りだったこと。今までで一番、この家に来てよかったって思いました」
灯りを消した薄闇で、セラの声は、いつもより少しだけ無防備だった。俺は「そうか」とだけ返した。それ以上何か言うと、寝不足の頭が、余計なことまで言いそうだった。
三日後。学園から戻ったセラが、青い顔で店に駆け込んでくる。
「アルさん……! お嬢様がたが、動きました。公爵令嬢のお茶会に、招待状もなしに接触を」
筋書きとの戦いが、始まった。




