第4話「開店、そして不穏な妹たち」
開店初日の朝は、雨だった。
「……アルさん。雨です」
「見れば分かる」
「初日なのに、雨です」
「セラ。飲食で一番怖いのは雨じゃない。閑古鳥だ。雨なら傘を貸せばいい」
強がりではあった。仕込みは昼三十食分。空振りすれば材料費がまるごと沈む。うちの財布に、沈めていい金など一枚もない。
開店時刻。扉を開けて、俺は息を呑んだ。
軒先に、傘の列ができていた。十人。いや、十五人はいる。先頭でマルコがにやにやと手を振っていた。
「来たよ、宣伝部長。学園のみんなに触れ回っといた。『没落伯爵の飯屋、旨くなかったら笑いに行こう』って」
「おい、宣伝の方向」
「客寄せに理由の貴賤はなし、って言ったの君でしょ」
……言った。確かに言った。
昼の三十食は、一時間半で消えた。
看板の煮込みが、面白いように出た。安いすね肉を、セラが豆のソースと蜂蜜と香味野菜で、とろとろになるまで煮込んだ一皿。最初は「笑いに来た」はずの学生たちが、一口目で黙り、二口目で皿を抱え込み、食べ終わると「明日もあるのか」と聞いてくる。
「ああ、明日もある。ただし三十食限りだ。売り切れ御免」
「なんで数を増やさないんだよ、儲かるだろ!」
「増やさないから、明日も並ぶんだろ?」
客が笑い、俺も笑った。数量限定は焦らし商法と言われるが、実態はただの資金不足である。仕入れを増やす金がない。だが客にそう見せる必要はない。前世の同期が言っていた。「在庫切れは、演出に変えれば飢餓感になる」と。
◆
半月で、店は化けた。
昼三十食が五十食になり、夜の部も席が埋まり始めた。学生から始まった客層に、市場の商人、役人、そして物見高い下級貴族が混ざり出す。
「今週の売上、銅貨換算で……よし。今月の返済分に、利子を乗せても届く」
閉店後の店で帳簿をつけると、数字がちゃんと積み上がっていく。前世で見てきたどんな決算より、この手書きの帳簿のほうが胸に来るのだから不思議なものだ。
「アルさん、まかない、できましたよ」
「お、今日はなんだ」
「煮込みの残りで、雑炊……じゃなくて、麦粥です」
「今、雑炊って言ったな」
「言ってません。麦粥です」
セラは澄まして皿を置いた。……雑炊である。どこからどう見ても、卵でとじた雑炊である。俺は笑いを噛み殺して匙を取った。この半月、まかないのたびに「この世界に存在しないはずの何か」が出てくる。肉じゃがらしき煮物。親子丼らしき載せ飯。俺は毎回気づかないふりをして、毎回きれいに平らげている。
聞けばいいのかもしれない。「君、転生者か」と。だが、聞いてどうする。俺も明かすことになるだけだ。四十歳の中身を知られて、この気安い間柄が変わるのが――正直、怖かった。
「……ん、旨い。生き返る」
「ふふ。お粗末さまです」
セラは向かいの席で頬杖をついて、俺が食べるのを眺めていた。最近気づいたのだが、こいつは自分が食べるより、俺が食べるのを見ているときのほうが、いい顔で笑う。視線に居心地の悪さと、それを上回る何かを感じながら、俺は匙を進めた。
「……そんなに見てて、面白いか」
「面白いというか。……作った甲斐、というやつです。アルさんの『旨い』は、お世辞が入ってないので、分かりやすくて好きです」
好きです、の一語に匙が止まりかけたが、文脈上は『旨い』の話である。落ち着け、四十路。
店はうまくいっていた。ここだけ切り取れば、何もかも。
問題は、屋敷のほうだった。
◆
最初の違和感は、金だった。
「セバス。今月の家計費、銀貨四枚多く出てる。これは?」
「お嬢様がたの被服費にございます。リーゼ様が、夜会用の手袋と扇を」
「夜会? うちに招待状なんて来てたか」
「……いえ。私の知る限りでは」
次の違和感は、書庫だった。
深夜、帳簿を置きに書庫へ入ると、机に本が積みっぱなしになっていた。紋章大全。王国貴族名鑑。宮廷作法の手引き。そして――薬草図鑑が、三冊。
開かれた頁に、しおり代わりの糸くずが挟んであった。「眠り草――多量に用いれば昏睡に至る」の項だった。
……妹たちは、確かに最近、勉強熱心ではある。それ自体はいい。だが伯爵令嬢の教養に、昏睡量の記述は要らないだろう。
三つ目の違和感は、会話だった。
その夜、俺は妹たちの部屋の前を、わざとゆっくり通った。盗み聞きは趣味じゃない。だが当主として、確かめる義務がある。扉の向こうから、押し殺した声が漏れていた。
「――だから、時間がないの。『始まり』はもう来てるのよ。気づいてないの、あなた」
「気づいてるわよ。……お披露目の夜会、聖女の噂、それに、あの子」
「そう。筋書きは動いてる。なのに私たちは何も持ってない。家は貧乏、後ろ盾なし。このままだと、あれよ。……『あの結末』よ」
「言わないで」
リーゼの声が、震えていた。芝居がかった震えじゃない。本物の、怯えだった。
「……私、嫌よ。あんな終わり方。だったら、筋書きのほうを壊す。先回りして、全部」
「ええ。私たちは知ってるんだもの。次に何が起こるか、誰が選ばれて、誰が破滅するか――全部、知ってるんだもの」
次に何が起こるか、知っている。
俺は足音を殺して、その場を離れた。自室の扉を閉めて、暗がりの中で腕を組む。
……どう聞いた? 今の会話を、どう解釈する?
筋書き。始まり。あの結末。次に何が起こるか全部知っている――。
普通に聞けば、意味不明の妄言だ。だが俺には、嫌な引っかかり方をした。「未来を知っている」人間の物言いを、俺は知っている。俺自身が、前世の知識で商売の先回りをしている人間だからだ。
まさか、あいつらも――?
いや、待て。仮にそうだとして、前世の記憶が、なぜ「この世界の未来」の知識になる? 俺の前世の知識は日本の知識だ。この世界の夜会だの聖女だのの予定表なんて、どこにも入っていない。妹たちの言う「筋書き」は、明らかにこの世界の出来事を指している。
前世持ちの俺をもってしても、そこが繋がらなかった。
――この世界そのものが、誰かの作った「物語」だという可能性。そこにだけは、この時の俺は、まだ思い至っていなかった。
「……考えすぎだ。娘同士の、芝居がかった夢物語かもしれん」
口に出して、自分でも信じていないのが分かった。あの怯えた声は、夢物語の声じゃない。
◆
数日後。決定的なものを、見つけてしまった。
きっかけは、些細なことだ。ミアが珍しく店に顔を出し、「お腹が空いたので」と煮込みを食べて帰った。その際、椅子に小さな巾着を忘れていった。届けてやろうと手に取ると、口が緩んで、中身が机に転がり出た。
硬貨が数枚。ハンカチ。そして――小指ほどの、茶色い薬瓶がひとつ。
ラベルはない。栓を開けると、青臭い、嗅いだことのない匂いがした。
「アルさん? どうかしました?」
厨房からセラが顔を出す。俺はとっさに、瓶を巾着へ戻していた。
「……いや。ミアの忘れ物だ。届けておく」
「そうですか。あ、明日の仕入れなんですけど――」
セラの声を半分聞き流しながら、俺は巾着の紐を、固く結び直した。
薬瓶。眠り草の頁。昏睡に至る、の一文。夜会の手袋。「先回りして、全部壊す」。
一つ一つは、言い逃れができる。全部並べると、できない。
妹たちは、何かをやる気だ。それも、薬を人に盛る類の何かを。伯爵家の娘がそれをやって露見すれば、どうなるか。この国の刑法は前世より数段荒っぽい。貴族の毒殺未遂は、本人の処刑だけでは済まない。家門ごと取り潰しだ。
借金は、返せば消える。だが打ち首は、取り返しがつかない。
「……アルさん? 聞いてます? 明日の、すね肉の量」
「――ああ、悪い。聞いてる。倍でいい、倍で」
「倍!? 本当に聞いてました?」
セラの呆れ顔に生返事をしながら、俺は決めていた。
妹たちを、調べる。当主として、兄として。あいつらが何を知っていて、何をやらかす気なのか。止めるなら、世間に知られる前でなければ意味がない。
金貨一万五千枚の借金より、よほど厄介な案件が、家の中で育っていた。




