第3話「伯爵家長男、開店準備に奔走する」
店を出すと決めてから、俺の一日は前世より忙しくなった。
朝、領地の帳簿を確認して指示書きを送る。午前は学園。昼休みに商業区へ走って物件を見る。午後の講義を受けて、夕方からセラとメニュー会議。夜は開業計画の練り直し。……四十歳で過労死しかけた男が、十六歳でまた同じ働き方をしている。人間は成長しない生き物だ。
ただ、前世と決定的に違うことが一つある。
この働き方が、嫌いじゃない。むしろ楽しい。自分の家と、自分の店のために働くというのは、こんなに手応えのあるものだったのか。
「アルフレッド君、最近付き合い悪いねえ。放課後、また働きなの?」
学園の教室で、隣の席のマルコが頬杖をついて言った。商家の三男坊で、数少ない俺の学友だ。
「ああ。店を出す準備でな」
「出た、噂の。伯爵家の長男が飯屋を開くって、学園中で持ちきりだよ。没落だなんだって言うやつもいるけど」
「言わせておけ。飯を食わない貴族はいない」
「はは、違いない」
この国では、学園に通いながら働くのは珍しいことじゃない。貴族の子弟は家業を、商家の子は店を手伝いながら学ぶ。「学業と実務は馬車の両輪」というのが建国王の言葉だそうで、おかげで俺のような働く伯爵も、白い目半分、感心半分で見てもらえる。ありがたい校風だ。
「で、マルコ。お前んち、確か食器を扱ってたよな」
「……嫌な予感がしてきたぞ」
「型落ちでいい。傷ものでいい。皿を六十枚、卸値の半額で売ってくれ」
「半額!? 話が飛躍しすぎだろ!」
「代わりに、店の皿は全部マルコ商会製だと客に宣伝する。貴族の長男がやる店だ、物見高い客がまず来る。客は皿も見る。……悪い話か?」
マルコは唸って、天井を仰いで、それから諦めたように笑った。
「……親父に掛け合ってみるよ。まったく、君、本当に十六歳?」
「中身はもう少し上かもな」
◆
物件は、五軒見て回った。
一軒目、大通り沿いの元洋品店。立地は最高、家賃も最高。却下。二軒目、商業区の外れの元酒場。安いが、床が腐っていた。三軒目は広すぎ、四軒目は狭すぎ。
五軒目が、当たりだった。
「市場まで徒歩五分、学園の通学路沿い、角地で二面採光。前は食堂だから竈も煙突も残ってる。……セラ、厨房を見てくれ」
「はい!」
埃っぽい店内で、セラは厨房に直行して、竈を覗き、水場を確かめ、天井の梁を見上げた。
「使えます。竈は二口、直せば三口いけます。水場が広いのがいいです。仕込みが楽になります」
「決まりだな。あとは家賃交渉だ」
家主は、引退した元商人の爺さんだった。足元を見られるかと思ったが、逆だった。
「グランベル伯の坊主か。……先代にはな、昔、うちの隊商を領地で助けてもらった恩がある。半年分、家賃はいらん。その代わり」
「その代わり?」
「潰れるな。ここで三軒、店が潰れとる。験直しをしてくれ」
「……三軒も潰れた理由を、聞いても?」
「みんな、味は普通、値段も普通だった。それだけの店は、この立地じゃ保たん」
なるほど。情報までくれる大家だ。俺は深く頭を下げた。味は普通じゃない。うちには、セラがいる。
◆
メニュー会議は、連日夜まで続いた。
「セラ。品数を絞りたい。昼は三品、夜は五品。それ以上は出さない」
「え、少なくないですか? 普通の食堂は二十品くらい」
「だから潰れるんだ。品数が多いと、仕入れが散って廃棄が出る。廃棄は原価の敵だ。品数を絞って、仕入れを一点に集めて、毎日使い切る。……前の職場の、飲食やってる取引先の受け売りだけどな」
「前の、職場」
「あー……領地の、商会だ。手伝ってた」
危ない。二度目だ。セラは少しの間、俺の顔をじっと見ていたが、それ以上は聞かずに帳面へ目を戻した。
「品数を絞るなら、看板になる一品が要りますね。……あの、試してみたいものがあるんです。この国の人が食べたことのない煮込みで」
「食べたことのない?」
「香辛料を使わずに、その、とろみと甘辛さで食べさせるやつです。安い肉が、びっくりするくらい柔らかくなる煮込み方があって」
……それはもしかしなくても、あれか。醤油はないから、豆のソースと蜂蜜あたりで再現する気か。俺は笑いを噛み殺した。日本の知識で戦うのは、どうやら俺だけじゃないらしい。とことん、話の早い相棒だ。
「採用。それを看板にしよう」
「まだ食べてもいないのに!?」
「君の『試してみたい』は当たる。二週間の付き合いで学んだ」
セラは一瞬固まって、それから、帳面で顔を半分隠した。
「……そういうこと、真顔で言うの、やめてください」
「? 事実を言ったまでだが」
「そういうところがです」
◆
開店予定日の十日前。準備は最終盤に入っていた。
内装は、金がないので自分たちで塗った。壁の漆喰をセバスが器用に塗り、母はどこからか持ち出した花瓶を並べて「お店って楽しいわねえ」と鼻歌を歌い、俺とセラは床を磨いた。実妹二人は「日焼けしますので」と一度も来なかった。まあ、期待もしていない。
値付けは、俺が一番こだわった。
「昼の定食、銅貨四枚。市場の相場より一枚高い」
「高くして大丈夫ですか? お客さん、来なくなりません?」
「安くしたら負けだ。うちは『安い店』じゃなく『安くはないが、それ以上に旨い店』にする。安さで来た客は、もっと安い店ができたら消える。味で来た客は、残る」
「……アルフレッド様って、時々、行商人の親方みたいなこと言いますね」
「様はやめろって言っただろ。兄でいい。義妹なんだから」
「では、その……アル、さん」
「兄さんでいいのに、なんでそこは頑なに敬語なんだ」
「これはもう性分です。諦めてください」
セラは笑って、それから、ふと手を止めた。床を磨く俺の手元を――正確には、この二週間で荒れた俺の手を、じっと見ていた。
「……アルさん。手、ぼろぼろじゃないですか」
「ん? ああ、水仕事に慣れてないからな。じきに慣れる」
「貸してください」
返事を待たずに、セラは俺の手を取って、自分の前掛けの隠しから小さな軟膏の缶を出した。指の付け根のあかぎれに、慣れた手つきで塗り込んでいく。……近い。距離が近い。
「おい、自分で塗れる」
「駄目です。アルさん、自分のことになると途端に雑なので。帳簿は一枚も間違えないくせに、自分の手当ては後回しにするんですから」
「よく見てるな……」
「見てます」
即答だった。セラは軟膏を塗る手を止めずに、俯いたまま続けた。
「毎日、ずっと見てますから。……アルさんが、朝は領地の書類で、昼は学園で、夜は私の帳面に付き合ってくれてること。私の給金の分まで、自分の夕食を削ってること。全部、見てます」
「……削ってない」
「削ってます。だから、開店したら、ちゃんと寝てくださいね。ちゃんと食べてくださいね。倒れたら、元も子もないんですから。……私は、その」
セラはそこで言葉を切って、俺の手を離した。耳が、赤かった。
「……雇い主に倒れられたら、困るので。それだけです」
それだけです、の言い方が、それだけじゃなさそうだったが、追及するほど俺も野暮じゃない。ただ、軟膏の塗られた手が、妙にあたたかかった。
◆
その夜、屋敷に戻ったのは深夜だった。
明日は看板の取り付けで、明後日は食材の初仕入れ。開店まであと九日。頭の中は段取りでいっぱいだった。だから、廊下の先にほのかな明かりを見つけたときも、最初は気にも留めなかった。
リーゼの部屋だ。扉が、細く開いている。
「――だから、確実なのは第二王子のほうだって言ってるの」
「でも、順番が。先に襲爵の夜会があるはずよ。そこで顔を繋いでおかないと、次の園遊会には呼ばれない」
「お金はどうするの。ドレスも仕立てないと」
「兄様の店が当たれば、そこから……それか、お母様の真珠を」
……なんの話だ?
俺は足を止めた。リーゼとミアの声だ。第二王子。襲爵の夜会。園遊会。妹たちの口から出るには、やけに具体的な単語が並んでいる。
社交界に興味が出る年頃と言えば、それまでだ。伯爵家の娘が王子との縁を夢見るのも、まあ、普通のことではある。だが、引っかかった。夢見る娘の声色じゃなかった。あれは――段取りを詰める声だ。期日と、手順と、予算の話をする声。前世の会議室で、嫌というほど聞いた種類の声だった。
「誰かいるの?」
ミアの声がして、俺は素早く廊下の角へ下がった。扉の開く音。少しの沈黙。やがて、今度こそ固く、扉の閉まる音がした。
自室に戻って、俺は寝台に腰を下ろした。
考えすぎだ、と思いたかった。開店九日前の男に、これ以上の案件を抱える余裕はない。妹たちの夜会だの王子だのは、店が軌道に乗ってから考えればいい。
そう自分に言い聞かせて、灯りを消した。
――このときの俺は、まだ知らない。
妹たちの「段取り」が、夢見る娘の夜遊びの相談などではなく、この家の首を絞めかねない計画の、最初の一頁だったことを。
開店まで、あと九日。




