表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

9/12

第九話「夕暮れの中にいることについて」

【私の日記】


九日目の午後、真意さんが戻らなかった。


「上の区画に行く。今日は長くなる。探偵事務所から出ていい。ただしフロアには近づかないで」と朝に言っていた。


出ていい、と言われた。


今まで一人の時は出なかった。今日は出た。


理由はわからない。九日間いて、少し、慣れた気がしたからかもしれない。


慣れた気がする、というのが——どれだけ危険なことかを、私はこの時まだわかっていなかった。




廊下に出た。


バーガーのにおいがしたら戻る。歌が聞こえたら戻る。それだけを決めて歩いた。


右、左、また右。廊下は続く。扉が並ぶ。表札がある。「禁忌保管室」。「廃棄区画A」。「———」。読めない文字で書かれた表札が一枚あった。読めないのに、読んだ瞬間、少し頭の奥が痛くなった。通り過ぎた。


においが変わった。


コーヒーのにおいがした。古い木のにおい。夕暮れのにおい、というものがあるとしたら、そのにおいがした。


扉があった。


「レトロ喫茶・黄昏」。


扉が、開いていた。




中を覗いた。


喫茶店だった。テーブル、椅子、カウンター。白熱球の明かり。


窓があった。


窓の外に、夕暮れがあった。


動いていなかった。


太陽が固定されていた。雲が止まっていた。橙色の空が、一ミリも動かずにそこにあった。


喫茶店の窓の外に、止まった夕暮れがある。


ここはぱんでむの中だ。それがあり得ることだと、私は九日間でわかっていた。わかっていたのに——あり得るとわかっていることと、目の前にあることは、別のことだった。


カウンターに、女の子がいた。


コーヒーカップを磨いていた。ピンクと白の、流行に敏感そうな服を着ていた。


振り返った。


笑顔だった。


きれいな笑顔だった。


私はその瞬間、背中の何かが立ち上がるのを感じた。九日間で体に染みついた感覚——笑顔の女の子がいる、という事実が、既にここでは「安全」を意味しない、という認識が、反射として動いた。


「入る?」とその子は言った。




入った。


入らなければよかったかもしれない。でも入った。


カウンターに座った。コーヒーが出された。


「真意ちゃんに言われてるのでしょう、食べ物を渡されても食べるな、って」とその子——郷愁さん——は言った。


「はい」


「出した、ということにすれば、渡されたことにはならないけれど」


「……ルールの抜け穴を教えてくれているんですか」


「飲んでも何も起きないわよ」と郷愁さんは言った。遠くを見る目で言った。「でもそれを信じるかどうかはあなたが決めることね」


コーヒーを飲んだ。


おいしかった。普通においしかった。


「普通においしいです」と私は言った。


「ええ」と郷愁さんは言った。その言い方が少しだけ——聞きたかったことを聞いた、という表情をしていた。「ここではそれが一番難しいの。普通であることが」




窓の外の夕暮れを見た。


「……止まっているんですね」


「止めているの」と郷愁さんは言った。


「ずっとですか」


「ずっと」


「なぜ止めているんですか」


郷愁さんがカウンターを磨きながら言った。


「夕暮れはいつか夜になる。ここでは夜にならない。ずっと、もうすぐ夜になる手前にいられる」


「……夜になることが嫌なんですか」


「嫌というより」と言って、少し止まった。「夕暮れの中にいる間は、まだ続く気がするから」


「何が続くんですか」


郷愁さんは答えなかった。


カウンターを磨き続けた。


答えないことが、答えだった。


聞いてはいけないことを聞いた気がした。でも怒られなかった。ただ、答えが来なかった。


私はもう一口コーヒーを飲んだ。




「……ここに客は来ますか」と私は聞いた。


「懺悔ちゃんが来る」と郷愁さんは言った。「たまに他の子も」


「クルーだけですか。人間は」


「人間はほとんど来ない」


「なぜですか」


「ここはあまり客が来るべき場所じゃない」


「客が来たら、どうなりますか」


郷愁さんが少し止まった。


「昔、来た人がいた」と言った。「帰りたくなくなった人が」


「帰れなくなったんですか」


「帰りたくなくなった、と言ったわ」と郷愁さんは言った。「違いがある」


その違いが何なのか、私にはわからなかった。


でも聞けなかった。聞いたら、その違いが何かをわかってしまう気がした。


わかりたくなかった。


それは、この九日間で初めて、知ることを怖いと思った瞬間だった。




奥の扉が少し開いた。


小さい子が入ってきた。


赤い髪。赤と緑のオッドアイ。子供の顔をしていた。でも目が——子供の目じゃなかった。どこか遠いものを見た後の目だった。宇宙の果てを見たような、あるいは宇宙の果てが終わった後を見たような目だった。


私を見た。


一秒だけ見た。


「……誰かいる」と言った。


「新しい子よ」と郷愁さんが言った。「黄昏ちゃん、来てたの」


「うん」と黄昏ちゃんは言った。また私を見た。「……死に方、決まってる?」


また言われた。


万寿さんにも言われた言葉だ。二回目だから少し慣れた——と思ったが、慣れていなかった。一回目と同じくらい、寒かった。


「まだ帰す予定の子よ」と郷愁さんが言った。


「そっか」と黄昏ちゃんは言った。


でも私を見続けた。


「……もうすぐ、夜が来るよ」と静かに言った。


「夜が来ると、どうなりますか」


「ここ以外の夕暮れが、全部終わる」とだけ言った。


「ここ以外、というのは」


「ここじゃないところ」


それ以上言わなかった。


カウンターに上がって、空のコーヒーカップを両手で抱えた。窓の外の夕暮れを見た。


「……きれいだね」と言った。子供の声で言った。何の感情もない声で言った。


「毎日見てるのに」と郷愁さんが言った。


「毎日きれい」と黄昏ちゃんは言った。「終わるから、きれいなの。全部終わるから、今きれい」


私はコーヒーカップを持ったまま、その言葉を聞いた。


終わるから、きれい。


終末の予告が、口癖みたいに出てくる子が、空のカップを抱えながら止まった夕暮れを見て「きれい」と言っている。


何かが、おかしかった。


おかしいとわかっているのに、それを怖いとだけ感じることができなかった。




「……懺悔ちゃんはよく来るんですか」と私は聞いた。


「来る」と郷愁さんは言った。「罪を食べた後で、少し落ち着きに来るみたい」


「罪を食べた後で」


「今日も何か食べてきたと思う。右腕がまた変わってた。昨日と違う手をしてた」


「毎日変わるんですか」


「変わる。でも覚えていない。今日何を食べたか、明日には忘れる」


「覚えていなくて、変わり続ける」


「そう」


「……止められないんですか」


郷愁さんが少しだけ、手を止めた。


「止める、というのは誰が止めるの」と聞いた。


「懺悔さんが、自分で」


「やめたいと思ったことはないと思う」と郷愁さんは言った。「罪が来たら食べる。それだけ。やめたいとか続けたいとか、そういう次元で動いていない」


「そういう次元で動いていない、というのは」


「あの子は罪が来たら食べる。私は夕暮れを止めている。黄昏ちゃんは終わりを数えている」と郷愁さんは言った。「全部、そういうものよ。それがここのクルーだから」


黄昏ちゃんが窓を見たまま言った。


「……この夕暮れ、あと何回見られるかな」


「終わらないんじゃないですか」と私は言った。「止めてるんでしょう」


「ここでは」と黄昏ちゃんは言った。「でも——私が終わったら、止めるのをやめる人がいなくなる」


「黄昏ちゃんが夕暮れを止めているんですか」と私は聞いた。


「半分ね」と郷愁さんが言った。


「もう半分は」


「私が止めている半分と、黄昏ちゃんが終わりを遅らせている半分が合わさって、あの夕暮れが止まってる」


私はその説明を聞いた。


夕暮れを止めるのに二人かかっている。


一人が欠けたら、夕暮れが動き出す。動き出したら、夜が来る。


「……夜が来ると、どうなるんですか」と私は聞いた。今度は黄昏ちゃんに向けて聞いた。


黄昏ちゃんが私を見た。


「ここが終わる」と言った。感情のない声で言った。「夜が来たら、ここは終わるの。でもまだ来ない。今はまだ夕暮れだから」


「……それは怖くないんですか」


「怖い」と黄昏ちゃんは言った。あっさりと言った。「怖いけど——終わるから仕方がない」


「仕方がない、で終わりを待てるんですか」


「終わるまで、きれいでいられるから」とだけ言った。


私には意味がわからなかった。


でも郷愁さんが「そうね」と言った。


それが答えなんだと思った。




しばらく三人でいた。


誰も何も言わなかった。


郷愁さんがカウンターを磨いていた。黄昏ちゃんが空のカップを持ったまま外を見ていた。私はコーヒーを飲み終えて、窓を見ていた。


止まった夕暮れを、三人で見ていた。


怖くなかった。


この九日間で、今が一番怖くなかった。


それが一番怖かった。


ニ諦さんが言っていた言葉が頭の中で鳴った。最初の感覚を忘れてはいけない、と。怖いと感じなくなることがバッドエンドだ、と。


今、私は怖くない。


止まった夕暮れを、終末を数えている子と、夕暮れを止めている子と三人で見ている。普通に座っている。コーヒーを飲んでいる。


怖くない。


それが何を意味するのか——わかりたくなかった。でも、わかってしまっていた。




「帰ります」と私は立ち上がった。


郷愁さんが振り返った。


「そう」とだけ言った。


「また来てもいいですか」と聞いた。


「扉が開いてたら、入っていい」


「開いていない時もありますか」


「ある。来てほしくない時は閉める」と郷愁さんは言った。「今日は開いてた」


「なぜ開いていたんですか」


郷愁さんが少し考えた。


「あなたが来たから」と言った。


「来る前から開いていましたよね」


「そう」


「だから聞いているんですが」


「あなたが来るから、開いてた」と郷愁さんは言った。


その答えは、答えになっていなかった。


でも郷愁さんは他のことは言わなかった。


私は扉から出た。




廊下に出て、振り返った。


扉がまだ開いていた。


オレンジの明かりが漏れていた。


黄昏ちゃんの静かな声が聞こえた。


「……何日後かな」


「まだよ」と郷愁さんが言った。


「うん。まだ夕暮れだもん」


それだけ聞こえた。


扉が、ゆっくり閉まった。


私は廊下を歩いた。


探偵事務所に向かって歩きながら、さっきまで怖くなかったことを思い出していた。


あの場所で、私は何に慣れかけていたのか。


考えた。


考えたくなかったけれど、考えた。


それが今の私にできる唯一のことだと思ったから。




【私の日記・続き】


真意さんが夜に戻ってきた。


「どこに行った?」


「レトロ喫茶に行きました。郷愁さんと、黄昏ちゃんに会いました」


真意さんが少し止まった。


「何かされた?」


「されていません。ただ——」


「ただ」


「あの場所で、怖くなかったんです」


真意さんが私を見た。


「怖くなかった」


「はい。それが怖かったです。怖くなかったことが、一番怖かった」


真意さんがタイプライターの前に座った。


すぐには打ち始めなかった。


「……正確な感覚ね」と少しして言った。


「ニ諦さんに言われた言葉を思い出していました。最初の感覚を忘れてはいけない、と」


「忘れていないから、気づいた」と真意さんは言った。「忘れていたら、怖くなかったことに気づかなかった」


「でも——気づいてよかったのかどうか、わからなくて」


「気づいてよかった」と真意さんは言った。


断言した。


「なぜですか」


「気づかないまま慣れることが一番危険だから」と真意さんは言った。「あなたは今日、あの場所で怖くなかった。でも怖くないことに怖さを感じた。その感覚がある限り、今日のあなたはまだ大丈夫」


「……まだ、ということは」


「まだ」と真意さんは言った。


留保がついた。


「続きを話して」とだけ言った。




郷愁さんのことを話した。


夕暮れが止まっていることを。二人が合わせて止めていることを。黄昏ちゃんが「終わるから、きれい」と言ったことを。


「あなたが来るから、開いてた」という言葉を。


真意さんがメモを取った。最後の言葉を書いた時、少し手を止めた。


「……郷愁ちゃんがそう言った」


「はい」


「来る前から開いていたのに、来たから開いていたと」


「はい。意味がわかりませんでした」


真意さんが考えた。


「郷愁ちゃんのサイコメトリーは——触れたものの過去と未来が見える」とゆっくり言った。「触れたものの、ではなく——近くにあるものの、という解釈もある。まだ検証できていないが」


「つまり」


「あなたが来る前に、あなたが来ることを感知していた可能性がある」と真意さんは言った。「郷愁ちゃんがそれを利用して扉を開けた、という解釈ができる」


「……感知して、なぜ扉を開けたんですか」


真意さんが少し間を置いた。


「それは調べていない」と言った。


「調べますか」


「……そのうち」と言った。


いつもと少し違う答えだった。「調べる」でも「後で」でもなく「そのうち」。


その違いが何なのか、私にはわからなかった。




【真意の調査記録】


**〇月◆▲日**

**九日目**


助手が単独で郷愁ちゃんの喫茶「黄昏」に入った。

黄昏ちゃんとも接触。


問題なし。物理的な損傷なし。




記録すべき事項が複数ある。


まず、黄昏ちゃんの発言について。


「終わるから、きれい」「全部終わるから、今きれい」


これは黄昏ちゃんが——終末を悼んでいるのではなく、終末を前提として今の価値を算出している、という意味だ。


終わりが決まっているから、今がある。今があるから、きれいと言える。


黄昏ちゃんは毎日この夕暮れを見ている。毎日「きれい」と言っている。


その「きれい」の中に——どれだけの終わりの数が積み重なっているか。


黄昏ちゃんは全世界線の終末を感知している。今日も、どこかで何かが終わった。それを数えながら、止まった夕暮れを見て「きれい」と言っている。


これを記録として書いた後、少し止まった。


止まった理由を調べた。


わかった。


私は——黄昏ちゃんの「きれい」という言葉を、今日初めて怖いと思った。


今まで何度も聞いていた言葉だ。でも今日、助手の報告を聞きながら書いた時に、初めて怖いと感じた。


なぜか。


助手が「怖くなかった」と言ったからかもしれない。


助手が怖くなかった、ということを私が聞いて——私が怖くなった。


その構造が何を意味するか、まだわからない。記録しておく。




郷愁ちゃんが「あなたが来るから、開いてた」と言ったことについて。


サイコメトリーの感知範囲については以前から調査項目に入っていた。未来への適用可能性は未検証だったが、今日の発言は検証の根拠になる。


調査を進めるべきだ。


でも——「そのうち」と助手に言った。


なぜ「そのうち」と言ったか。


調べることと、調べたくないことの境界が——今日また少し動いた。


郷愁ちゃんが助手を感知して扉を開けた、という事実の先に——郷愁ちゃんが何かを知っている可能性がある。


助手のことを、私よりも多く知っている可能性。


その可能性を調べることが——今日は、少しだけ、先延ばしにしたかった。


なぜかは、まだ書かない。


でも「まだ書かない」という判断をした事実は、記録する。




助手が「怖くなかったことが一番怖かった」と言った。


正確な感覚だ、と答えた。


本当にそう思う。


助手がまだ怖さを持っているということ——それが今日、私にとって最も重要な情報だった。


なぜ重要なのか。


考えた。


ぱんでむの中にいて、怖さを持ち続けている存在は——少ない。


ほとんどのクルーは慣れた。慣れたまま動いている。何が異常かを認識していない。


助手はまだ認識している。怖くなかったことに気づき、それを怖いと思えている。


その感覚が消えた瞬間——助手はここの一部になる。


私はそれを防いでいる。防ごうとしている。


なぜ防ごうとしているのか。


調査の管轄として管理しているから、という理由が一つある。


もう一つの理由は——今日はまだ書かない。


**備考:助手、現在生存。九日目。夕暮れのある場所から帰ってきた。怖くなかったことを、怖いと言えた。**


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ