第九話「夕暮れの中にいることについて」
【私の日記】
九日目の午後、真意さんが戻らなかった。
「上の区画に行く。今日は長くなる。探偵事務所から出ていい。ただしフロアには近づかないで」と朝に言っていた。
出ていい、と言われた。
今まで一人の時は出なかった。今日は出た。
理由はわからない。九日間いて、少し、慣れた気がしたからかもしれない。
慣れた気がする、というのが——どれだけ危険なことかを、私はこの時まだわかっていなかった。
廊下に出た。
バーガーのにおいがしたら戻る。歌が聞こえたら戻る。それだけを決めて歩いた。
右、左、また右。廊下は続く。扉が並ぶ。表札がある。「禁忌保管室」。「廃棄区画A」。「———」。読めない文字で書かれた表札が一枚あった。読めないのに、読んだ瞬間、少し頭の奥が痛くなった。通り過ぎた。
においが変わった。
コーヒーのにおいがした。古い木のにおい。夕暮れのにおい、というものがあるとしたら、そのにおいがした。
扉があった。
「レトロ喫茶・黄昏」。
扉が、開いていた。
中を覗いた。
喫茶店だった。テーブル、椅子、カウンター。白熱球の明かり。
窓があった。
窓の外に、夕暮れがあった。
動いていなかった。
太陽が固定されていた。雲が止まっていた。橙色の空が、一ミリも動かずにそこにあった。
喫茶店の窓の外に、止まった夕暮れがある。
ここはぱんでむの中だ。それがあり得ることだと、私は九日間でわかっていた。わかっていたのに——あり得るとわかっていることと、目の前にあることは、別のことだった。
カウンターに、女の子がいた。
コーヒーカップを磨いていた。ピンクと白の、流行に敏感そうな服を着ていた。
振り返った。
笑顔だった。
きれいな笑顔だった。
私はその瞬間、背中の何かが立ち上がるのを感じた。九日間で体に染みついた感覚——笑顔の女の子がいる、という事実が、既にここでは「安全」を意味しない、という認識が、反射として動いた。
「入る?」とその子は言った。
入った。
入らなければよかったかもしれない。でも入った。
カウンターに座った。コーヒーが出された。
「真意ちゃんに言われてるのでしょう、食べ物を渡されても食べるな、って」とその子——郷愁さん——は言った。
「はい」
「出した、ということにすれば、渡されたことにはならないけれど」
「……ルールの抜け穴を教えてくれているんですか」
「飲んでも何も起きないわよ」と郷愁さんは言った。遠くを見る目で言った。「でもそれを信じるかどうかはあなたが決めることね」
コーヒーを飲んだ。
おいしかった。普通においしかった。
「普通においしいです」と私は言った。
「ええ」と郷愁さんは言った。その言い方が少しだけ——聞きたかったことを聞いた、という表情をしていた。「ここではそれが一番難しいの。普通であることが」
窓の外の夕暮れを見た。
「……止まっているんですね」
「止めているの」と郷愁さんは言った。
「ずっとですか」
「ずっと」
「なぜ止めているんですか」
郷愁さんがカウンターを磨きながら言った。
「夕暮れはいつか夜になる。ここでは夜にならない。ずっと、もうすぐ夜になる手前にいられる」
「……夜になることが嫌なんですか」
「嫌というより」と言って、少し止まった。「夕暮れの中にいる間は、まだ続く気がするから」
「何が続くんですか」
郷愁さんは答えなかった。
カウンターを磨き続けた。
答えないことが、答えだった。
聞いてはいけないことを聞いた気がした。でも怒られなかった。ただ、答えが来なかった。
私はもう一口コーヒーを飲んだ。
「……ここに客は来ますか」と私は聞いた。
「懺悔ちゃんが来る」と郷愁さんは言った。「たまに他の子も」
「クルーだけですか。人間は」
「人間はほとんど来ない」
「なぜですか」
「ここはあまり客が来るべき場所じゃない」
「客が来たら、どうなりますか」
郷愁さんが少し止まった。
「昔、来た人がいた」と言った。「帰りたくなくなった人が」
「帰れなくなったんですか」
「帰りたくなくなった、と言ったわ」と郷愁さんは言った。「違いがある」
その違いが何なのか、私にはわからなかった。
でも聞けなかった。聞いたら、その違いが何かをわかってしまう気がした。
わかりたくなかった。
それは、この九日間で初めて、知ることを怖いと思った瞬間だった。
奥の扉が少し開いた。
小さい子が入ってきた。
赤い髪。赤と緑のオッドアイ。子供の顔をしていた。でも目が——子供の目じゃなかった。どこか遠いものを見た後の目だった。宇宙の果てを見たような、あるいは宇宙の果てが終わった後を見たような目だった。
私を見た。
一秒だけ見た。
「……誰かいる」と言った。
「新しい子よ」と郷愁さんが言った。「黄昏ちゃん、来てたの」
「うん」と黄昏ちゃんは言った。また私を見た。「……死に方、決まってる?」
また言われた。
万寿さんにも言われた言葉だ。二回目だから少し慣れた——と思ったが、慣れていなかった。一回目と同じくらい、寒かった。
「まだ帰す予定の子よ」と郷愁さんが言った。
「そっか」と黄昏ちゃんは言った。
でも私を見続けた。
「……もうすぐ、夜が来るよ」と静かに言った。
「夜が来ると、どうなりますか」
「ここ以外の夕暮れが、全部終わる」とだけ言った。
「ここ以外、というのは」
「ここじゃないところ」
それ以上言わなかった。
カウンターに上がって、空のコーヒーカップを両手で抱えた。窓の外の夕暮れを見た。
「……きれいだね」と言った。子供の声で言った。何の感情もない声で言った。
「毎日見てるのに」と郷愁さんが言った。
「毎日きれい」と黄昏ちゃんは言った。「終わるから、きれいなの。全部終わるから、今きれい」
私はコーヒーカップを持ったまま、その言葉を聞いた。
終わるから、きれい。
終末の予告が、口癖みたいに出てくる子が、空のカップを抱えながら止まった夕暮れを見て「きれい」と言っている。
何かが、おかしかった。
おかしいとわかっているのに、それを怖いとだけ感じることができなかった。
「……懺悔ちゃんはよく来るんですか」と私は聞いた。
「来る」と郷愁さんは言った。「罪を食べた後で、少し落ち着きに来るみたい」
「罪を食べた後で」
「今日も何か食べてきたと思う。右腕がまた変わってた。昨日と違う手をしてた」
「毎日変わるんですか」
「変わる。でも覚えていない。今日何を食べたか、明日には忘れる」
「覚えていなくて、変わり続ける」
「そう」
「……止められないんですか」
郷愁さんが少しだけ、手を止めた。
「止める、というのは誰が止めるの」と聞いた。
「懺悔さんが、自分で」
「やめたいと思ったことはないと思う」と郷愁さんは言った。「罪が来たら食べる。それだけ。やめたいとか続けたいとか、そういう次元で動いていない」
「そういう次元で動いていない、というのは」
「あの子は罪が来たら食べる。私は夕暮れを止めている。黄昏ちゃんは終わりを数えている」と郷愁さんは言った。「全部、そういうものよ。それがここのクルーだから」
黄昏ちゃんが窓を見たまま言った。
「……この夕暮れ、あと何回見られるかな」
「終わらないんじゃないですか」と私は言った。「止めてるんでしょう」
「ここでは」と黄昏ちゃんは言った。「でも——私が終わったら、止めるのをやめる人がいなくなる」
「黄昏ちゃんが夕暮れを止めているんですか」と私は聞いた。
「半分ね」と郷愁さんが言った。
「もう半分は」
「私が止めている半分と、黄昏ちゃんが終わりを遅らせている半分が合わさって、あの夕暮れが止まってる」
私はその説明を聞いた。
夕暮れを止めるのに二人かかっている。
一人が欠けたら、夕暮れが動き出す。動き出したら、夜が来る。
「……夜が来ると、どうなるんですか」と私は聞いた。今度は黄昏ちゃんに向けて聞いた。
黄昏ちゃんが私を見た。
「ここが終わる」と言った。感情のない声で言った。「夜が来たら、ここは終わるの。でもまだ来ない。今はまだ夕暮れだから」
「……それは怖くないんですか」
「怖い」と黄昏ちゃんは言った。あっさりと言った。「怖いけど——終わるから仕方がない」
「仕方がない、で終わりを待てるんですか」
「終わるまで、きれいでいられるから」とだけ言った。
私には意味がわからなかった。
でも郷愁さんが「そうね」と言った。
それが答えなんだと思った。
しばらく三人でいた。
誰も何も言わなかった。
郷愁さんがカウンターを磨いていた。黄昏ちゃんが空のカップを持ったまま外を見ていた。私はコーヒーを飲み終えて、窓を見ていた。
止まった夕暮れを、三人で見ていた。
怖くなかった。
この九日間で、今が一番怖くなかった。
それが一番怖かった。
ニ諦さんが言っていた言葉が頭の中で鳴った。最初の感覚を忘れてはいけない、と。怖いと感じなくなることがバッドエンドだ、と。
今、私は怖くない。
止まった夕暮れを、終末を数えている子と、夕暮れを止めている子と三人で見ている。普通に座っている。コーヒーを飲んでいる。
怖くない。
それが何を意味するのか——わかりたくなかった。でも、わかってしまっていた。
「帰ります」と私は立ち上がった。
郷愁さんが振り返った。
「そう」とだけ言った。
「また来てもいいですか」と聞いた。
「扉が開いてたら、入っていい」
「開いていない時もありますか」
「ある。来てほしくない時は閉める」と郷愁さんは言った。「今日は開いてた」
「なぜ開いていたんですか」
郷愁さんが少し考えた。
「あなたが来たから」と言った。
「来る前から開いていましたよね」
「そう」
「だから聞いているんですが」
「あなたが来るから、開いてた」と郷愁さんは言った。
その答えは、答えになっていなかった。
でも郷愁さんは他のことは言わなかった。
私は扉から出た。
廊下に出て、振り返った。
扉がまだ開いていた。
オレンジの明かりが漏れていた。
黄昏ちゃんの静かな声が聞こえた。
「……何日後かな」
「まだよ」と郷愁さんが言った。
「うん。まだ夕暮れだもん」
それだけ聞こえた。
扉が、ゆっくり閉まった。
私は廊下を歩いた。
探偵事務所に向かって歩きながら、さっきまで怖くなかったことを思い出していた。
あの場所で、私は何に慣れかけていたのか。
考えた。
考えたくなかったけれど、考えた。
それが今の私にできる唯一のことだと思ったから。
【私の日記・続き】
真意さんが夜に戻ってきた。
「どこに行った?」
「レトロ喫茶に行きました。郷愁さんと、黄昏ちゃんに会いました」
真意さんが少し止まった。
「何かされた?」
「されていません。ただ——」
「ただ」
「あの場所で、怖くなかったんです」
真意さんが私を見た。
「怖くなかった」
「はい。それが怖かったです。怖くなかったことが、一番怖かった」
真意さんがタイプライターの前に座った。
すぐには打ち始めなかった。
「……正確な感覚ね」と少しして言った。
「ニ諦さんに言われた言葉を思い出していました。最初の感覚を忘れてはいけない、と」
「忘れていないから、気づいた」と真意さんは言った。「忘れていたら、怖くなかったことに気づかなかった」
「でも——気づいてよかったのかどうか、わからなくて」
「気づいてよかった」と真意さんは言った。
断言した。
「なぜですか」
「気づかないまま慣れることが一番危険だから」と真意さんは言った。「あなたは今日、あの場所で怖くなかった。でも怖くないことに怖さを感じた。その感覚がある限り、今日のあなたはまだ大丈夫」
「……まだ、ということは」
「まだ」と真意さんは言った。
留保がついた。
「続きを話して」とだけ言った。
郷愁さんのことを話した。
夕暮れが止まっていることを。二人が合わせて止めていることを。黄昏ちゃんが「終わるから、きれい」と言ったことを。
「あなたが来るから、開いてた」という言葉を。
真意さんがメモを取った。最後の言葉を書いた時、少し手を止めた。
「……郷愁ちゃんがそう言った」
「はい」
「来る前から開いていたのに、来たから開いていたと」
「はい。意味がわかりませんでした」
真意さんが考えた。
「郷愁ちゃんのサイコメトリーは——触れたものの過去と未来が見える」とゆっくり言った。「触れたものの、ではなく——近くにあるものの、という解釈もある。まだ検証できていないが」
「つまり」
「あなたが来る前に、あなたが来ることを感知していた可能性がある」と真意さんは言った。「郷愁ちゃんがそれを利用して扉を開けた、という解釈ができる」
「……感知して、なぜ扉を開けたんですか」
真意さんが少し間を置いた。
「それは調べていない」と言った。
「調べますか」
「……そのうち」と言った。
いつもと少し違う答えだった。「調べる」でも「後で」でもなく「そのうち」。
その違いが何なのか、私にはわからなかった。
【真意の調査記録】
**〇月◆▲日**
**九日目**
助手が単独で郷愁ちゃんの喫茶「黄昏」に入った。
黄昏ちゃんとも接触。
問題なし。物理的な損傷なし。
記録すべき事項が複数ある。
まず、黄昏ちゃんの発言について。
「終わるから、きれい」「全部終わるから、今きれい」
これは黄昏ちゃんが——終末を悼んでいるのではなく、終末を前提として今の価値を算出している、という意味だ。
終わりが決まっているから、今がある。今があるから、きれいと言える。
黄昏ちゃんは毎日この夕暮れを見ている。毎日「きれい」と言っている。
その「きれい」の中に——どれだけの終わりの数が積み重なっているか。
黄昏ちゃんは全世界線の終末を感知している。今日も、どこかで何かが終わった。それを数えながら、止まった夕暮れを見て「きれい」と言っている。
これを記録として書いた後、少し止まった。
止まった理由を調べた。
わかった。
私は——黄昏ちゃんの「きれい」という言葉を、今日初めて怖いと思った。
今まで何度も聞いていた言葉だ。でも今日、助手の報告を聞きながら書いた時に、初めて怖いと感じた。
なぜか。
助手が「怖くなかった」と言ったからかもしれない。
助手が怖くなかった、ということを私が聞いて——私が怖くなった。
その構造が何を意味するか、まだわからない。記録しておく。
郷愁ちゃんが「あなたが来るから、開いてた」と言ったことについて。
サイコメトリーの感知範囲については以前から調査項目に入っていた。未来への適用可能性は未検証だったが、今日の発言は検証の根拠になる。
調査を進めるべきだ。
でも——「そのうち」と助手に言った。
なぜ「そのうち」と言ったか。
調べることと、調べたくないことの境界が——今日また少し動いた。
郷愁ちゃんが助手を感知して扉を開けた、という事実の先に——郷愁ちゃんが何かを知っている可能性がある。
助手のことを、私よりも多く知っている可能性。
その可能性を調べることが——今日は、少しだけ、先延ばしにしたかった。
なぜかは、まだ書かない。
でも「まだ書かない」という判断をした事実は、記録する。
助手が「怖くなかったことが一番怖かった」と言った。
正確な感覚だ、と答えた。
本当にそう思う。
助手がまだ怖さを持っているということ——それが今日、私にとって最も重要な情報だった。
なぜ重要なのか。
考えた。
ぱんでむの中にいて、怖さを持ち続けている存在は——少ない。
ほとんどのクルーは慣れた。慣れたまま動いている。何が異常かを認識していない。
助手はまだ認識している。怖くなかったことに気づき、それを怖いと思えている。
その感覚が消えた瞬間——助手はここの一部になる。
私はそれを防いでいる。防ごうとしている。
なぜ防ごうとしているのか。
調査の管轄として管理しているから、という理由が一つある。
もう一つの理由は——今日はまだ書かない。
**備考:助手、現在生存。九日目。夕暮れのある場所から帰ってきた。怖くなかったことを、怖いと言えた。**




